思いのままに
20240915
両親あるいは祖父母が残していった短冊や色紙、軸を整理している。実家の床間にかけてあったもので懐かしい。でもかなり傷んだものが含まれている。その中のいくつかは、傷みを抑えて少しでも保存状態を維持するため額装することにした。額装には二週間ほどを要したが、綺麗な仕上がりに満足している。家に床の間はないが、リビングの壁にかけるなどして楽しんでいる。
額装は洋間のみならず、和室にも似合う。落ち着いた佇まいを演出してくれる。ただ、一つ気づいたことがある。保存と維持のしやすさを考えると、時に額装は必要になってくる。また額装には額装の魅力がある。しかし、額装することによって、色紙や軸が醸し出す空間が、額縁で閉ざされることになる。当たり前のことなのだが、軸として部屋にかけてあった時は、軸に書かれたあるいは描かれている内容が、部屋の空間に広がっていたと思う。額装によって、その広がりと空間が絶たれている。
不勉強だが、色紙掛けや軸掛けの文化は、欧米の文化にはあまりないように思える。あえて、色紙や軸をかたちあるものにいれず、そのものを部屋の空間に打ち解けさせている色紙掛けや軸掛けの文化は素晴らしい。色紙や軸は傷むかもしれないが、色紙や軸が語りかけてくるものを、ありのままに空間を通して、感じ取ることができる。
話は少し飛躍するが、教育に関しても同じようなことが言える。学生を枠(額)に閉じ込めるようなことがあってはいけないと思う。学生を枠(額)に入れて体裁を繕うことをよしとしてはいけない。また自分自身も、体裁良く枠(額)の中に閉じこもることがあっては、研究もより良くは進まない。
両親が残していったものの中には遺影用の写真もあった。かなり前から準備していたらしい。こういうものは早めに用意しておくほうがいいのかもしれない。だが、やはり枠や額に収まることはよくない。たとえ私が遺影を近々準備したとしても、なるだけ額にはまらないように、健康に留意しながら、生きていきたい。そのほうが親も喜ぶと思う。
20240815
今年のお盆は、両親が残していったものを少しずつ整理していった。その中には、母親の数多くのノートも含まれていた。メモのような日記のようなものである。昭和36年5月のメモがあった。私が一才半の時である。このようなことを母親が書き留めているとは全く知らなかった。そのまま下に写す。
「一才半の子が、アーンと口をあけて
私の運ぶお匙を待っている
遊びほうけてなかなか食べない子が
よく寝た後は大人しい
雑用に忙殺され、何事にも目をくれない私は
子供が噛んでいる間、ふと空を見た
空はブルーの五月晴れ
庭のばらの花が生きている喜びを語っている
何にもまして、子供の幸せそうな瞳の美しさ
頬の白さは象牙色のばらよりも
その赤みはピンクのばらよりも
つややかで美しい
それを見る私は
人生で今が一番幸せな時」
先月、次男の結婚式があった。新郎の父として、最後に挨拶をさせていただいた。概ね以下のような内容を話した。忘れないうちに、スピーチそのままのかたちで写す。
「こんにちは。新郎、〇〇の父でございます。
二人がこの日を迎えることができましたのは、皆様方との温かいお付き合いがあったからこそと思っております。厚く御礼申し上げます。
親といたしましても新しい家庭が生まれていくこと、そしてそれが次の世代へと繋がっていくであろうことに、喜びを感じています。
人一人の命は限りあるものではございますが、新しく生まれた家庭からの世代の繋がり、命の繋がりを思いますと、日々の生活におきましても平安と安らぎを感じる次第でございます。このことを、皆様方をはじめ、森羅万象すべてに深く感謝いたします。
どうぞこれからも変わりなくお付き合いいただきますようよろしくお願い申し上げます。
また、〇〇は、お酒が好きでありまして、時には厳しくご指導いただければと思います。
本日は誠に有り難うございました。皆様方の益々のご健勝を祈念いたしまして、簡単ではありますが、挨拶とさせていただきます。」
両親がいて、自分がいて妻がいて、子供らがいて、彼らが新しい家庭をもっていく。ただそれだけの普通の日常かもしれない。しかし、本当に『森羅万象すべてに深く感謝したい』気持ちである。そして、『人生で今が一番幸せな時』とも思える。
部屋には、「本来無一物」(生まれたときに「無一物」であるように、死ぬ時もまた「無一物」に帰っていく)の色紙がかかっている。
20240601
期せずして、はじめてLINEのグループに入ることになった。スマホにアプリを入れるところから始まった。スマホはテザリングに使うのが主で、スマホで文章を打つこともなかった。このグループでは、私からメッセージを出すことは基本的にはない。LINEを見る習慣もなかったが、時々LINEを開くと夥しい数のメッセージが入っている。誰かが何か一つを尋ねると、皆さんからのご意見が瞬時に書き込まれている。文の最後に句点は見当たらない。最後は絵文字で終わる。なかなか面白い。これが現代のコミュニケーションツールなのだ。自分がかなり出遅れていることを認識した。一昔前、長電話という言葉があった。今は、聞かなくなった。多くは、LINEのような別のツールに代用されているのだろう。
せっかく、LINEを手に入れたので、使ってようと思う。友達の作り方もわからず、学生に教えてもらった。でも、スマホで文字を打つのも時間がかかる。やはり無理、諦めようと思った。そうしたら学生に、「何でも練習しないとダメ、努力もしないで諦めるのはダメ」と言われた。「一日、7通のメールをスマホで出す。それを1週間続ける。そうすれば、スマホで文章が打てるようになる」。的確なアドバイスまでもらった。
息子らから、返事が来た。初めだけ、一言書いてあったが、あとは、「既読」のみ。それでもコミュニケーションが取れている気分になる。次男からは、スタンプがくる。これも面白い。スタンプというものも知らなかった。でも使ってみると面白く愉快でもある。
LINEの存在は知っていた。正直、しっかりとしたコミュニケーションは取れないと思っていた。でも、使ってみると、意外と便利で、メリットもある。そればかりか今までのにないコミュニケーションを育んでくれる。心温まることもある。少し不思議だ。
電話だとお互いが共通の時間帯を使わないといけない。時間がないのに付き合わされているときもある。相手の声のトーンを確認しながら、気を遣いながら話すことにもなる。Zoomを使うと顔の表情まで読み取らなければいけない。
LINEは、相手の声色や顔の表情を気にすることはない。基本、時間も気にすることもない。そして、スタンプや絵文字、いい感触だ。フリーのスタンプで誰しもが使っているものだが、その時その時、適切なものが、送られてくる。意外なリアクションのスタンプもそれはそれなりにまた面白い。単なるスタンプで、少し大袈裟だが、人の気持ちと気持ちを繋ぐ一面がありそうだ。
ただ、なんとなくではあるが、LINEでのやり取りに案外短期間で飽きてしまいそうな感じがしているのも事実だ。
20240501
最近、人の名前が思い出せない。同じ世代の知人、友人は同じことを言う。彼らと共通の知人の話をするとき、お互いにその知人の名前が思い出せない。でも会話は弾む。名前は思い出せなくとも、「あの人がさあ」「そうそうあの人なあ」で、いささか不自由ではあるが、大きな誤解はなく話は進む。
昨夜、名前を思い出せない自分が、夢の中に出てきたのには、いささか驚いた。夢の場面は、子供の頃のかくれんぼ遊びであった。そのルールには、鬼と子の役割がある。子が、鬼に見つかり名前を呼ばれる前に、鬼の体にタッチできれば、鬼の負け。鬼は、もう一度、鬼をやることになる。鬼が体にタッチされる前に、参加している全員の子を見つけて名前を呼べたら、鬼の勝ち。そして最初に見つかって名前を呼ばれた子が次の鬼になる。
夢では、自分が鬼。隠れている友達を探す。小学校の休み時間で、他の大勢の子供達も遊んでいる。その雑踏の中から、自分にタッチしようと、その瞬間を狙って隠れている子を見つけ出し、名前を呼ばなければならない。
物陰や人陰の後ろから、次々に子が飛び出てくる。子の名前を言えばそれでいい。それでおしまい。だが、このときも友達の名前が出てこない。タッチされないように逃げなければいけない。鬼のあとを子が、次から次に追いかけてくる。顔はわかるし、誰であるかもわかっている。でも名前が出てこない。走って逃げる。思い出そうとしても思い出せない。多くの子に囲まれ、校舎の壁に追い詰められたところで目が覚めた。
まさか、夢の中で、しかも子供の頃の遊びの夢の中で、名前が思い出せなくなるとは、思っていなかった。今は、遠く離れて、それぞれの人生を歩んでいる友達に、怒られそうだ。「僕を忘れたのか?」と。
妻の寝顔を見ながら、この人の名前が出てこなくなるときも来るのであろうか。それは、今の人の名前が思い出せないという状況とは異なり、別の一歩進んだ症状、病名になっているときのことだろう。
20200820
お盆が終わりました。私は長男で、父親も長男であったこともあり、実家のお墓とお位牌を引き継いでいます。母方は、女兄弟でしたので、お墓は、永代供養をして閉じましたが、母方の祖父母とご先祖さんのお位牌は引き継いでいます。結果的に、私の家の小さな仏壇には、両家のお位牌が並んでいます。宗派は違いますが、同じ仏壇に置かせてもらっても差し支え無いと聞きました。仏壇には、ご先祖さんが、たくさん居てもらう方が良いと思っています。お線香の香りは、どことなく懐かしく心を落ち着かせてくれます。
今年は、母親の初盆でした。8月11日、実家がある佐賀のお寺で施餓鬼(せがき)供養が行われ、お参りしてきました。家の仏壇には、灯篭を飾ったりするものでしょうが、スペースもなく、鬼灯(ほおずき)を供えました。鬼灯は、灯篭の代わりになるそうです。また、仏様がお盆に戻ってこられて、鬼灯の中にお休みになっているという話もあります。
佐賀あたりでは、お盆が終わる15日の夕刻になると、仏様を家の近くのところまでお見送りする習慣があります。幼い頃、祖母に手を引かれて、付いて行っていました。お線香とお供えの一部、たいがいは落雁と果物の一つ二つを持っていきます。そして、お見送りをするにふさわしい静かな小道まで来ると、路端の草の上にお線香とお供えを置いて、お祈りをして帰ってきます。田舎ですから、周りに家が建ち並んでいることもなく、自然の中で、お見送りができます。
しかし、京都の住宅街では、そのような場所はありません。少し残念です。毎年、気持ちだけのお見送りで済ませてきました。また、京都では佐賀のようなお見送りの習慣はないとも聞きます。宗派によっても違うのかもしれません。ただ、今年は、母親の初盆でもあり、佐賀式のお見送りをしてこようと思い立ちました。線香と落雁、ぶどう、鬼灯を持って家を出ました。分かってはいたもののやはりお見送りができるような場所は、近くにはありません。
ちょうど妙心寺の北門まで来ていました。すでに門は閉まっており、小門が空いているだけでした。守衛所には明かりがついていましたが、中には入りませんでした。妙心寺は、臨済宗妙心寺派の大本山になります。家のお寺は、臨済宗南禅寺派と聞いています。臨済宗に変わりはないと勝手に解釈しました。
鬼灯を一つ取り出し、門前の端に静かに置いて手を合わせ、お見送りとさせてもらいました。その場を立ち去りながら、振り返ると、門前の小さな鬼灯の赤い色がとても華やかに見えました。このことが宗教的に良いのかどうかはわかりません。ただ、多くのご先祖さんが佐賀式のお見送りを受けて喜んでくれているような気がしました。
来年もまたここに鬼灯を一つ置いてお見送りをしようと思っています。
20200501
ほぼ1年前の3月末、いつものように部屋でパソコンに向かって、作業をしていました。お昼近く、そろそろ食堂に行く時間になって、机の上を簡単に整理して、立ち上がろうとしました。そのとき、何かが、おかしいと感じました。体に力が入らず、目の前が真っ暗というより、真っ白というような感覚でした。足ももつれて、歩くことができず、床に倒れ込んでしまいました。
「うん? ひょっとして、これはまずいのでは」
と思いました。部屋は個室でドアは閉めていました。
「まずい! これまで何度か、耳にしてきた最期のパターンが、自分に迫っている?」
どれくらいの時間を要したか定かではありませんが、這うように、必死でドアまで行き、ノブに手をかけて、廊下に転がり出ることができました。
「これでなんとかなる」
と思いました。しかし、春休みということもあって、だれも廊下を歩いていませんでした。がっかりしました。
しかし、お陰様で、いろいろな方のお世話になり、保健センターから看護師さんに来てもらって、車椅子でセンターに移動しました。何がどうなったのかわかりませんが、意識は戻ってきていました。念の為ということもあって、救急車で緊急病院に搬送されました。靴に履き替えることもせず、部屋で履いていたスリッパのままでした。ずっと、スリッパ越しに見える靴下のことが気になっていました。靴下は、親指あたりが、薄くなって穴が空きかけていました。一通りの緊急時の検査が終わり、靴に履き替えました。
検査が終わった頃、嫁さんが、職場から病院に駆けつけてきました。様子を見て、人騒がせなとぶつぶつ言われるかと、思いましたが、意外と優しかったです。お昼を食べておらず、お腹も減っていたので、一緒におうどんを食べて帰りました。検査の方は、お陰様で、緊急で受けた検査でも、その後の様々な精密検査でも異常は見られず、今日に至っています。
15年ぐらい前になるでしょうか、同じように部屋で倒れて、スリッパのまま、保健センターに運ばれたことがありました。昨年が、2回目ということです。15年前の1回目は、急性扁桃腺を患っており、原因は、薬の副作用でした。その時、靴下に穴が空いており、スリッパから丸見えで、とても恥ずかしい思いをしました。
2回目に倒れたとき、実は、その日の朝、靴下を履くと、親指のところが、穴までは空いていなくても、かなり薄くなっていることに気づきました。ふと、15年前のことが、頭をよぎりました。履き替えようとも思ったのですが、
「今日は、倒れて保健センターに担ぎ込まれることもないだろう」
ということで、そのままの靴下で、家を出ました。
まさか、15年前のことが、その日、再現されるとは、思っていませんでした。たまたまにしても不思議なことがあるものだなあと思いながら、穴が空きかけた靴下は二度とはかないと、肝に命じました。
そして、1年が経ち、またしても、今日の朝、靴下の先が薄くなっていることに気がつきました。その瞬間、
「まずい!」
と思いました。でも、本当に過去2回の経験と靴下の穴には、不思議な因果関係ともいうべき何かがあるのでしょうか。2度あることは、3度起こるのでしょうか。試してみる絶好の機会です。一瞬、意気込みましたが、あっさりやめにし、新しい靴下に履き替えました。またもしも倒れて病院に搬送されるようなことになると思うと、このコロナ禍の中では、とても試す勇気がありませんでした。
20200401
私は、自分自身を宗教的な面からは、ごく一般的な日本人だと思っています。お寺は、いなかの佐賀にあって、南宗寺派臨済宗と聞いています。遠方であることを口実に、お彼岸であっても姉に任せるかたちで、お参りに行くことがあまりありません。昨年、母親が他界し、その折はお寺にたいへんお世話になりました。このような次第で、正月は神社に初詣に行き、結婚式も神前で行い、クリスマスは皆と同様に楽しみ、葬儀ではお寺にお世話になるというどこにでもいる日本人です。
幼い頃、祖母に手をひかれて、墓参りに行きました。掃除をして、花をあげ、線香に火をつけて、先祖を拝みました。その間、特に何も考えてはいません。祖母から、「しっかり拝んだね。おじいちゃんが喜んでいるよ」と、褒めてもらうまで手を合わせていました。
今日は、一人で家にいることになり、昼前に近くのスーパーに出かけました。昨日、お彼岸だったためか、おはぎがたくさん並んでいました。お彼岸には、母親がいつもおはぎを作っていたのを思い出しました。家のおはぎはこしあんだったのですが、それはなく、粒あんのおはぎを買って帰りました。
仏壇におはぎを供えて、私もその前で、おはぎを食べ始めました。昔からおはぎは大好きでした。幼稚園の頃でしょうか、食べ過ぎてお腹を壊すのではないかと、いつも母親が心配していました。家で作っているので、おはぎはいくつでも出てきます。最後の一つをおねだりして、食べていると、母親がやはり心配になって、周りのあんこだけを食べて、ご飯は残してもいいから、と言っていたことを思い出します。母親が亡くなり、初めてのお彼岸でしたが、お参りにも行っていない後ろめたさもあってか、昔を思い起こし少しこみ上げてくるものがありました。
位牌を拝みながら、おはぎも食べながら、そしてビデオを見始めました。休日にありがちな「ながら」族です。ビデオは、NHKの海外ドラマ「レ・ミゼラブル」の第1回放送の分です。ジャン・ヴァルジャンに神父さんが語りかけます。「人とは愛と優しさで変わるものではないかね」と。ヴィクトル・ユーゴーの名作「レ・ミゼラブル」を見て、感動しない人はいないと思いますが、その時、ふと複雑な思いとともに、胸が熱くなりました。
私は、先に述べましたように、特に何かに信心深いということはありません。でも、学生の頃、茶道に接したこともあり、禅語には、少し馴染みがあります。「一期一会」、「日々之好日」、「独坐大雄峰」などは、好きな言葉です。それらの言葉に救われることもあります。しかし、今回、「レ・ミゼラブル」の神父さんの言葉に、どきりとした瞬間、新鮮な発見とも言っていいようなものがありました。
今の自分の周りの様々な課題を、解決してくれるものが、そこにありそうに思ったのです。それは「キリスト教主義」です。同志社が掲げている3つの教育理念(「自由主義」、「国際主義」、「キリスト教主義」)の一つになります。25年間同志社大学に勤めていてはじめて強く意識しました。
キリスト教は、世界宗教の一つと習いました。愛を中心とするキリスト教は、それまでのユダヤ人の律法主義的な宗教とも、ギリシャの哲学とも全く違ったものです。「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」とパウロは説いています。キリスト教は、一民族の宗教という枠を超えて、世界的宗教へ発展していったと、習いました。
「キリスト教主義」は、同じ文化を持った人の集まり、ほぼ同様な考えのコミュニティーの中でも、当然ながら、重要な役割を果たしてくれます。しかし、「キリスト教主義」は、さらに、全く別のバックグランドを持つようなより広い人と人とのつながりにおいてこそ、益々、大きな指針を与えてくれるところに思いが至りました。今の自分が置かれた立場を、より自由に生き、多くの人たちと協力しながら、前に進み行くには、必ずや「キリスト教主義」が後押ししてくれることと思います。なんだかモヤモヤしていたものが、一気に、吹き飛んだ心持ちです。
20200301
卒業生が来校した折、時々、「キャンパス変わりましね」という話題があがります。ある年代の卒業生には、正門近くのローム記念館も交隣館も、少し中に入っての京田辺会堂も目新たしい建物になります。私は、入社25年を迎えています。入社当時と比べると、確かに京田辺キャンパスは、変わりつつあります。木々もこんもりと茂って、落ち着いた雰囲気が醸し出されてきました。
今出川キャンパスに行くと、こちらも大きく変わっています。良心館が建ち、チャペルの周りの雰囲気が一変しています。今出川の変化には、大学入学当時、すなわち、40年程前と比べると、当然ながら、時代スケールの推移さえ感じられます。クラーク館の北、至誠館の東に、茶道部の茶室「寒梅軒」があります。この茶室だけは、不思議なくらい変わっていません。昨年、傷んだところ等が、改修されました。基本的には、そのままの在り様を、より長く保つための改修です。
キャンパスの話から離れ、一般論として、周りの変化に対して、そのままの姿や内容を維持するのは、思いの外、たいへんなことと思います。変化を避ければ、無駄なエネルギーを使うこともなく、いざという時に力を温存できると考えてしまいます。しかし、変わらなければ変わらぬことの存在意義を、周囲に認めてもらわなければなりません。常に周りの変化を学びつつ、変わらないでいることの魅力を、継続して訴え続けるということになります。
日常生活または組織の習慣が、あるいは所属する組織自身が、変化する方向に転じるのか、変化しないで留まることを選択するのか、「変化」の定義もせず、単純にその是非を議論できるものではありません。しかし、何れにしても、色々な場で生存し続けるには、それなりの努力が必要とされるはずです。生存を維持するには、そのかたちが変わる方向を選ぼうと、変わらない方向を選ぼうと、常に外の動きに目を向け多くを学びながら、限りない生存のための努力が要求される社会であると思います。
茶室「寒梅軒」での一服のお茶は、その佇まいとともに、今なお、学生時代と何も変わるところはありません。伝統文化は、敢えて変わらずとも、皆が認める価値あるものになっているのかもしれません。400年近い歴史の積み重ねが背景にあります。 同志社は最も長い歴史を持つ教育・研究機関のひとつです。2025年には創立150周年を迎えます。伝統文化と教育・研究機関を比べる由など毛頭ありません。しかし、皆が集う魅力的な学び舎として存在し続けるため、依然として継続的な努力が必要とされていると思います。そして、創立200周年には、短期間で評価されてしまう変化の良し悪しなどは些細な視点の一つになってしまうような、風格と力強さを感じる同志社の佇まいを、京田辺と今出川の両キャンパスに思い描いています。
20200201
「上を向いて歩こう」は、みんながよく知っている歌の一つでしょう。六、八、九コンビの歌とも言われます。永六輔作詞、中村八大作曲で、歌は坂本九ちゃんになります。私もこの歌が大好きです。昨年の大晦日、紅白歌合戦でも歌われました。見ていた次男が、お父さんの好きな歌だ、と言いました。次男は、昨年、大学を卒業し、社会人一年目を迎えたところです。なぜ、知っているの、と尋ねました。次男は、自転車の後ろの席でいつも聞いていたと言います。
私は車を運転しません。子供が幼い頃は、自転車でよく移動していました。小学生の長男が、自分の自転車を漕いで、私の前を走ります。その後を、私が、幼稚園児の次男を後部の子供用座席に乗せて、追走していきます。次男がちゃんと乗っているか、落っこちていないか、気になります。手を後ろにまわして、子供用座席のにぎり棒を次男の小さな手が、しっかりと掴んでいるのを、確認しながら走っていました。
次男は、私の背中から顔を横に出して、前の様子を見ていたようです。「お兄ちゃんが、足をくるくるまわしたら(ペダルを漕いだら)、お父さんも足をくるくる回す。お兄ちゃんが、足をチョキにしたら(ペダルを漕ぐのをやめたら)、お父さんも足をチョキにする」と言っていました。私との自転車二人乗りを楽しんでいました。そして、私が、自転車を漕ぎながら、よく「上を向いて歩こう」を歌っていたのを、次男が、お父さんの好きな歌として、覚えていたということです。
日曜日は、ほぼ毎週、子供達と自転車で出かけたり、近くの公園で遊んだりしていました。子供がそういった頃のことを、覚えていてくれるのは嬉しいものです。長男は、幼稚園に行くか行かないかの頃、私が海外出張から帰ってくると、「お父さんがいなくて寂しかったから、お父さんの服の匂いをいつも嗅いでいた」と言っていました。二人ともすでに社会人ですが、幼かった昔が懐かしく思い出されます。そして、子供たちに、変わらず、「お父さん」と呼ばれるのは、とても嬉しいものです。
昨年暮れ、母が他界しました。車椅子の生活でしたし、認知症もかなり進んでいました。毎朝、電話を入れていたので、習慣として、子供からの電話だとは認識できていたようです。私は、朝の電話で、必ず、はじめに「お母さん!元気?」と、語りかけていました。母親にとって、「お母さん」は、昔の記憶とともに胸の奥底に最も心地よく響く言葉であることを、私は、子の親として確信していました。
20200122
寒中お見舞い申し上げます。
本年もどうぞ宜しくお願いいたします。
お正月休みに、今年は、物事を明るく、楽しく、前向きに捉えながら、日々過ごしていこう、いきたいと考えました。過去を振り返って、どうこうと言うわけではなく、単純かつ素朴に、そう思いました。日々の過ごし方は、単なる気持ちの持ち様として、精神面に委ねられることかもしれません。しかし、それでもっても、けっして安易にそうできるとは言えない昨今だとも考えてしまいました。特に将来に目を向けると、なかなか難しいものになっていきます。お正月には、日本の将来を問うような特別番組もいくつかテレビで放送されていました。そこには、「格差社会」、「少子化」、「労働者不足」、「経済不況」、「災害多発」、「情報化社会への出遅れ」などの課題によって、不安で埋め尽くされてしまう日本の将来像が見えてきます。
1970年代の「一億総中流」という言葉が思い起こされます。自分たちの生活水準を「中」(中流)の位置にあると考えている人がほとんどで、「上」または「下」と思う人が1割未満だったと聞きます。経済大国へ発展していく日本社会を、みんなで謳歌していた時代だったのでしょう。不安よりも安心あるいは夢や希望が、人々の心を占めていたとも言えます。目に見えるかたちの努力、時間をかけて継続する一般的な努力を続けていけば、それは必ず報いられると、みなが信じていました。また、実際にそれに伴う結果が得られていた時代でもあったのでしょう。これらが、将来が見えてくる安心感や託すべく夢につながっていったのでしょう。しかし、今は、何に目を向けていいのか、何に時間を割いて努力すべきときなのか、それすらも不明瞭な時代になってきました。当時の日本の良き時代を懐かしむ人もいます。
でも、改めて過去を思い返しますと、1970から80年代、まだパソコンは普及していません。携帯電話もありません。メールやラインもできません。トイレに、洗浄機能などは付いていませんでした。「一億総中流」の頃にはなかったものが、今、街にも家庭にも多く見受けられ、私たちの生活を支えています。40年ほど昔に戻って生活することには、単なる仮定の話であっても、多くの人は背を向けることでしょう。やはり、いま現在が、間違いなく便利で暮らしやすい時代になっていると思います。
ただ、これからの将来を考えると大きな不安がよぎってしまいます。その不安は、先に挙げたような様々な課題が絡み合った構造的なもので、避けられないものに見えてきます。今の生活が、将来に保証されていないという不安です。個々の考えはあるにせよ、大きくは、「エネルギー」と「食料」、「水」と「安全」、「自由」と「文化」、「医療」と「地球環境」などが、しっかりと保証されている将来を皆が期待しています。これらが、少なくとも今と同じ程度に保証されていれば、多くの人はたとえ中流であっても、幸せを意識することができ、不安から解放されるように思います。
「格差社会」のような様々な課題が解決できる見通しと、「エネルギー」、「食料」などが継続持続される期待への保証があって、最初に述べたように物事を明るく、楽しく、前向きに捉えることができるように思います。課題の解決と期待への保証において、「課題」と「期待」とのあいだには、対義語としての関係も成り立ちます。私は、個人的に、対義語の関係から議論できてしまう事象は、複雑で手強いものになる、この場合でしたら、解決も保証も難しいものになってしまうと、勝手に思っています。さらに、個人的には、このような事象に取り組んでいけるのが、唯一、「大学の教育と研究」だとも思っています。大学の責任がこれまでになく問われる一年のスタートです。
20190801
先日、村田諒太選手が、WBA世界ミドル級王座に返り咲きました。ボクシングの技術的なところは、全くわかりません。ただ、昨年の敗戦から、わずか9カ月あまりであるにもかかわらず、前回完敗した相手に2回TKO勝ちと、別人のような試合運びでした。素人目には、この短期間に、自分のボクシングスタイルをいとも簡単に変えてしまったように見えてしまいます。プロブクサーとは言え、そこには並々ならぬ決意と努力があったことと思います。
精神面の維持とコントロールも重要な鍵になっていたことでしょう。以前、村田選手がニーチェの哲学書を愛読していると聞いたことがあります。私も新聞の書籍欄の紹介をみて「超訳ニーチェの言葉」(白取春彦編集/翻訳)を読みました。確かその本の帯には村田選手の推薦文が書かれていたと思います。
今回は、王座を奪還したあとの特別番組で、村田選手がアウレリウスの「自省録」を読んでいるところが紹介されていました。そこには、言葉の中身をしっかりと捉え、自分に言い聞かせながら「自省録」を読んでいる村田選手がいました。偶然ですが、私も今年になってはじめて「自省録」を読みました。 NHKの番組「100分de名著」で取り上げられていたのです。私が読んだ「自省録」は、NHKテキスト「マルクス・アウレリウス自省録」(岸見一郎)で、平易な読み物です。でもトップアスリートと同じ哲学書を手にしていたことは、とてもしあわせな気持ちになりました。
どれくらい理解できているかは別として、私は、ニーチェの言葉もアウレリウスの言葉も好きです。ただ「自省録」を読んだとき、不思議に思ったのは、哲学者アウレリウスが生きたのは、121年から180年、ローマ帝国時代で、しかも第16代ローマ皇帝としての地位でした。時代が違いすぎます。約1900年前です。社会の仕組みも違えば、立場も違います。そのころは、知識としては、まだ地球は太陽の周りを回っていなかった、天動説の時代です。ローマの人たちは、アメリカ大陸の存在も知らなかった。民主主義や資本主義の概念もなかった。アウレリウスの死後、科学技術は大きく発展しました。しかし、人がいかに生きるべきか、哲学の命題は、今も変わらず存在し、その答えは見つかっていないのです。
テレビ番組『ハーバード白熱教室』の哲学者サンデル先生も哲学に答えはないと言っていました。この数千年のあいだは、見つかっていないのは確かでしょう。これから人類の歴史が、どれだけ続くのか、わかりません。食料とエネルギーが得られれば、人類は生存し続ける可能性があります。もとをたどれば、太陽が輝いている限り、生命体は地球上に生存できると思います。太陽の寿命は、あと50億年ほどと計算されています。これからの長い人類の将来において、私見では、AIやビッグデータ、生命科学、そしてまだ人が知ることのない学問領域の発展の中で、哲学の抱える諸問題の答えが出てくるのではないかと考えています。ただ、人類の将来と言いましたが、そのときは、ホモ・サピエンスはすでに存在せず、新しいヒト属の時代になっているかもしれません。人がホモ・サピエンスでいるあいだは、ニーチェの言葉もアウレリウスの言葉も人の心に響き続けるものかもしれません。私は、心のどこかで、人は人らしく、いつまでもそうあってほしいと思っています。
20190701
何か物事にあたるとき、過去に上手くいって大きく感動したときの瞬間とそのときの気持ちを思い起こすと、事が上手く運ぶというジンクスを勝手に作っています。とは言うものの、漠然と、時折、意識している程度のことです。
また、何か物事とか感動の瞬間と言っても、たわいも無い内容がほとんどです。たとえば、釣りをするときは、小学生の時、うなぎを釣り上げたときのことを思い起こします。あのときは、まるでクジラでもかかったかと思うほどの強い引きでした。その感触が、今も手元に残っています。ソフトボールで打席に立つとき、これも中学生の頃の草野球で、ホームランを打った時の瞬間を思い出します。少し低めの球が、バットに当たってから、レストとセンターの間を大きく抜けていくのが目に焼き付いています。しかしながら、勝手にジンクスと言いつつも、あまり良い結果には繋がっていません。
最近は、感動を覚えることが少なくなりました。以前は、海外出張でも、「おー、これがテムズ川か!」、「今、セーヌ川を渡っている!」、「ここはナイルのほとりだ!」など、はじめて見た川、そして海や山、何にでも感動していました。感動する気持ちやワクワク感をもつ機会は、確かに減りました。でも、一方、感動とまではいかずとも、小さな喜びや恵みに対しては心から感謝し、ありがたく思う気持ちを日々持ち合わせるよう心がけています。
そのような中、先日、久しぶりに感動の瞬間に出くわしました。お好み屋さんでの支払いの時です。店員さんが、丼のような器にはいった2つのサイコロを指しながら言いました。「振ってください。1のゾロ目が出たら、500円引きです」。横で「先生、運試しに」と促されて、その気もなく、支払いをしながら、さっと振りました。すると、なんと「●︎」の面が上を向いて、2つきれいに器の底に並びました。赤いまる2つ、1のゾロ目です。感動しました。今も、2つの「●︎」が、まぶたに焼き付いています。この感動は、私のジンクスとして、これからいろいろな場面でサイコロを振るときに使えそうです。注1,2)
注1)ジンクス(英語jinx)とは、本来「縁起の悪い言い伝え」を言うそうです。その原意で考えると、「上手くいったときを思い起こしてから、物事に取り組んでしまうと、決して事は上手く進まない」というのが本来のジンクスの有り様になりそうです。要注意。
注2)下手なジンクスを考えるより、むしろ「無心」の境地で事にあたる、これに勝るものはないと思いました。納得できる結論。
20190601
数値やランキングで、多くの事柄が、評価されています。「株式時価総額の世界ランキング」もその一つでしょう。平成元年は、上位5社はすべて日本企業、上位10社中でも日本企業が7社をしめており、上位50社中で32社を日本企業がしめていました。それが、今年の3月末では、上位50社中に、日本企業は自動車メーカーの1社だけ(45位)となっています(毎日新聞5月3日朝刊;記者の目)。日本経済は、平成の30年の間に世界から取り残された感がある、というコメントが書かれていました。素人としては、株式時価総額だけで、日本経済を評価できるはずがない、まだまだ潜在的な力が残されているはずと、勝手に思っているところ、思いたいところです。
「THE世界大学ランキング 2019」もネット上で見ることができます。50位以内に日本の大学が1校入っています。そんなはずはないだろう、と思ってしまいます。多数の評価項目からみたランク付けでしょうが、その評価項目は、はたして適切なのだろうかと、疑ってしまいます。数値化して一つの線上に並べるランキングは、わかりやすいけど、当然ながら、決してそれが全てではないと思います。一方、唯一50位内にランクインしたその大学で、今年初めて、女性の学部長が誕生したとの記事を、読みました(京都新聞5月23日朝刊;時のひと)。少し意外でした。歴代女性学部長の総数という項目で、日本の大学を並べていくと、また一味違う風景が見えてくるのかもしれせん。良くも悪くも数値化やランキングで評価される時代になっています。
先日、学校法人同志社のそれぞれの学校の園長、校長、大学長の先生方から近況を聞かせていただく貴重な機会に恵まれました。改めて、学校法人同志社には、同志社幼稚園、同志社国際学院初等部・国際部、同志社小学校、同志社国際中学校・高等学校、同志社女子中学校・高等学校、同志社香里中学校・高等学校、同志社中学校・高等学校、同志社女子大学・大学院、同志社大学・大学院があることを認識しました。それぞれのお話から、園児、生徒、学生さんのいきいきと躍動する光景が、まぶたに浮かびました。このように幼稚園から女子大までをも有する学校法人の構成は、私が知る限り、他に類を見ません。その独自性や魅力、これまでの教育・研究の実績、将来に託された夢は、決して数値化やランキングで表現できるものではないと思います。
テレビ番組に、「NHKスペシャル AIに聞いてみた どうすんのよ!?ニッポン」というのがあります。これまで、『超未婚社会』、『健康寿命』、『働き方』などがテーマとして取り上げられてきました。数値化やランキングとは対象的に、AIは、すべてのデータ、ビッグデータを網羅的に捉えていって、人が思いも寄らないような結論を導いていました。一度、勇気を出して、「AIに聞いてみた どうすんのよ!?ニッポン」『大学の教育と研究』を取り上げてみては、と思いました。AIからは、学校法人同志社、そして同志社大学は、どのように見られるのでしょうか。昨今の数値化やランキングではなく、近い将来、AIがビッグデータを使って、超多面的にかつ網羅的に大学評価をする時代が訪れてもおかしくないように思います。それに備える時期が既に来ているのかもしれません。
20190501
平成が終わり、令和の時代が始まりました。11月で60歳になります。おおよそのところでいうと、人生の前半の30年間が昭和、後半の30年間が平成となります。私は、人とは少し違って、自立したのが遅く、30歳で学位を取得し、大学院を修了しています。学位授与式の数日後に結婚式を挙げ、翌4月からアカデミアンとしてのスタートを切りました。多くの方々のお世話になりながら、人生前半の30年を学びのとき、後半の30年を学びながらの教育と研究のときとして、過ごしてきました。
今年は、二人の子供が大学と大学院を、それぞれ卒業、修了し、一つの区切りとなりました。また、縁あって、学生時代に所属していた部活の顧問を4月から仰せつかっています。新年度のOB・OG行事に参加し、先輩、後輩、現役の学生さんと楽しいひと時を過ごしました。一方、昨年より、学部で任を受けている役職は、至らないところが多々ありますが、誠心誠意務めさせていただく所存です。このように、令和のスタートも、30年前の平成の始まりと同じように、様々な立場で節目の年になりつつあります。
先日、高校の同級生から電話がありました。私の卒業した小学校で校長先生をしているとのことでした。一度、母校で子供たちに話をしてほしいと頼まれました。小学生の生徒さんに話をした経験はなく、話題選びが難しいかな、と返しました。すると、今、私の卒業した中学校の校長先生も、高校の同級生が務めているとのことで、二人からの依頼といわれました。同級生ですから、みな今年度で60歳、二人の校長も定年を迎えるとのことです。細かなことは後にして、母校の小学校と中学校からのお誘いを承諾しました。
思いもよらず、高校の同級生が校長先生をしている母校の小学校と中学校で話をさせてもらうこと、その不思議な巡り合わせもあって、言いようのない感謝の気持ちが溢れてきました。何かお役に立てれば、またこれまでのご恩を少しでもお返しする機会になればと思いました。令和元年、母校の生徒さんたちと、新しい時代の夢を、ともに思い描くことができればと思っています。
「恩送り」という言葉があります。自分に「恩送り」ができるとは思えません。でも、今年で60歳、これまでに数えきれない多くの「恩」を受けてきました。人生前半の昭和の30年、後半の平成の30年、そしてこれから何年間の令和の時代になっていくのでしょうか。相変わらず、日々の仕事と生活に追われながら過ごしていくことと思います。しかし、その中にあって、分不相応と知りつつも、残された時間、この令和の時代を「恩送り」を意識しながら、過ごしていきたいと思っています。
20190401
4月を迎えました。春は、いつものとおり、この句から始まります。
「春風や 闘志いだきて 丘に立つ」(高浜虚子)
この句には、前向きな姿勢が、溢れ出ています。その気持ちを持って、新年度をスタートしたいといつも思っています。
しかし、今年は、小さな異変がありました。3月の初め、目のかゆみが生じてしまったのです。おそらく、生まれてはじめての花粉症の症状だと思います。でも、お陰様で、2週間程度で治まりました。危うく「花粉症 闘志うばわれ 丘を去る」となるところでした。
でも、ふと、虚子の句を念頭にしゃかりきになり過ぎてもいかがなものか、と思いました。どういう異変や不運があろうとも柔軟に対応していくためには、心のどこかにおっとりと構える余裕も必要だと思います。
もう一つ好きな春の句があります。
「春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな」(与謝蕪村)
新しい年度と新しい年号を、春風の勢いと春の海の穏やかさを兼ね備えるような心持ちで迎え、過ごしていきたいものです。
20190301
思えば、同志社着任当時、24年程前になりますが、近鉄新田辺駅のバス停には、鉄柱の上に丸い大きな時計が掛けてありました。灰皿やゴミ入れもありました。この3つ、時計、灰皿、ゴミ入れの順に、バス停から姿を消しています。時代の流れでしょう。
家の中でも見かけなくなったものは多々あります。子供の頃を考えると、半世紀も昔になりますから、当前かもしれません。ダイヤル式の黒電話はありません。長靴は履かなくなりました。ハエたたきもありません。ハエたたきなど、この時代どこにもないだろうと思っていましたが、通販で売られているのには、少し驚きました。
見かけなくなって寂しく思うものや懐かしい風景をあげてみます。蚊取り線香、線香を横に縁側で将棋を指す風景、火鉢、火鉢で焼くお餅、そこでの主役は祖母、犬小屋とそこの主人(番犬)、道端や空き地で遊んでいる子供達などでしょうか。
大きく視点を変えて、「憧れの国」も私の中では、なくなってしまっている気がして、少し寂しく思っています。子供の頃見ていたアメリカのテレビ番組、「タイムトラベル」とか、「スパイ大作戦」、「ワイオミングの兄弟」、「奥様は魔女」、少し新しくなって、「大草原の小さな家」、「刑事コロンボ」など。アメリカって、すごいな、どうしたらこのような面白いものが作れるのだろうと、憧れの思いで、見ていました。子供ですから、政治、思想等は抜きにして、多くの面でアメリカは憧れの国でした。
研究職について、ポスドク(博士研究員)として働く大学は、迷わずアメリカの中から選びました。1994年になります。世界の研究の中心は、アメリカにありました。少なくとも私の研究領域はそうでした。学ぶものが多くありました。9・11同時多発テロが起るまでは、ACS(アメリカ化学会)の年会には必ず参加していました。ACS年会のプログラム構成だけ見ても、世界の動き、これからの研究の方向性が見えてくると思っていました。大きく間違った判断ではなかったと思います。40代前半あたりまで、学術研究では、ここでもアメリカが憧れであり、目標であったような気がしています。
今、私の中に、生活面でも仕事の面でも、特にこの国という憧れの国はありません。前述のように、それがどこかで寂しい心持ちにつながっているようです。言い変えれば、自分の中に、目標のようなものが見えてこない、お手本がない、追いつきたいというようなモチベーションが保てないということなのでしょうか。
そして、今は「日本がいいな」と思う気持ちがあることも否定できません。憧れの国がなくなり、自国が一番いいかなと思っている自分が、そう思う対象が限られるにしても、存在しているのです。世界がグローバル化の中で動いているとき、日本がそれに立ち遅れている点も昨今指摘されています。「日本がいい」と思っていることが、日本のグローバル化を抑制している一面があるのかもしれません。「日本がいい」と思えることはとても良いことです。誇らしいことです。しかし、大切なのは、それを肯定するならば、グローバル化を通して、それを世界に展開していく責任を自覚し、実行していくことかもしれません。
20190201
大寒が過ぎてから2週間ぐらいが一年で最も寒い時季と聞きます。確かに、朝、吐く息も白く、路面が凍っているときもあります。しかし、日は確実に長くなっていますし、日差しもどことなく明るさを感じます。梅がほころび、来月末には桜が満開となることでしょう。そして、5月は新緑の季節となります。多少の遅い早いがあったとしてもほぼ同じように一年が過ぎていきます。季節が移り、一年が過ぎ、それが積み重なって、人の年齢になっていく。その当たり前の一年、一年を、有り難いことと思う年になってきました。
私は夏が好きです。なぜだかよくわかりません。今は、体力的に決して過ごしやすい季節とは言えません。おそらく、子供の頃、朝から晩まで遊びまわっていた夏休みの思い出に支配されているのでしょう。夏は楽しくてたまらなかった。でも、振り返ると、自分の子供達が小学生であった頃も、一緒に遊んで、楽しい夏を過ごしていました。2度目の楽しい夏ということになります。
そして、3度目の楽しい夏、すなわち、孫と遊ぶ楽しい夏は、やって来るでしょうか。まあ、こればかりはわかりません。でも楽しみにしています。眩しい夏の日差しの中で、孫たちと3度目の楽しい夏を経験できたら、ひとまず、幸せでしょう。そして、3度目の楽しい夏が終わると、人生もそろそろ店じまいになっていくのでしょう。
子や孫のことを言うのは、いささかセルフィッシュなところがあると思います。様々なお立場や生活環境におられる方もいらっしゃいます。「not for self」、新島先生が学んだフィリップス・アカデミー高校のスクール・モットーです(Mさんから教えてもらいました)。この心持ちに少しでも近づければと思います。仕事を通してまた退職後はボランティア活動等を通して、家族のみならず次の世代に少しでもお役に立てるよう過ごしていければと、僭越ながら、思っています。
ところで、この文章を書きながら、ふと、4度目の楽しい夏に、はじめて思いが至りました。ひ孫と過ごす夏です。可能性として否定はできません。どうしてもセルフィッシュな自分から抜け出せません。「not for self」を意識しつつも、血圧をチェックし、体重計にのって、健康を意識する毎日が始まっています。
20190101
今年は年男です。還暦を迎えました。
最後の平成の年が始まり、5月には年号が変わります。30年前に、昭和から平成に年号が変わりました。2回目の〇〇元年という節目の年を迎えます。また、来年には、東京オリンピックが開催され、これも2回目になります。幼稚園児の時、園長先生と一緒に、広間で、みんなで正座してオリンピックを見ていました。テレビ映像の記憶としては、黒人選手が、先頭を、一人で走っている姿しか覚えていません。それが、裸足のアベベ選手であったことは、後から知りました。
さらに、2025年には、大阪万国博覧会の開催が決まっています。こちらも2回目になります。先の大阪万博は小学校4年生のときでした。佐賀から両親と姉、私の家族4人で大阪に出てきて、一週間、堺の伯母の家でお世話になりました。万博の内容がどうこうというより、はじめて九州を離れて、家族みんなで旅行していること、伯父さん、伯母さん、従兄弟たちと一緒に過ごしていることが、嬉しく、楽しかったという万博の思い出です。
一生の間に、2回の年号変更、2回の東京オリンピック、そして2回の大阪万博という大きな節目と催しを経験することになりそうです。時代の流れと人の移り変わりを感じてしまいます。太平洋戦争を軍人として経験したという園長先生は、園児たちと何を思い、東京オリンピックを見ていたのでしょうか。両親は、何を見せたくて、子供達を大阪万博に連れて行ったのでしょうか。
時代は変わりつつあります。「投資・拡大・競争」の時代がありました。いや、今も、続いているのかもしれませんし、これからも続いていくのかもしれません。しかし、この「投資・拡大・競争」の延長上に、自分の一生が終焉すると思うと、いささか落ち着かない不安な気持ちになります。
5年前、同志社附置研「ハリス理化学研究所」の改称、改組の際、研究所の目指す方向性として、『必ずしも「投資・拡大・競争」の原理に捕われることなく、「育成・創造・切瑳」のなかから芽生えてくるような研究を意識している』と述べさせてもらいました。今思うと、少し、言葉が浮いてしまっている感があります。
私は、この60年間、昭和の後半と平成の30年を、日本の素晴らしい良き時代だったと思っています。この時代を作り与えてくれた先人たち、はじめて日本でのオリンピックと万博を見せてくれた人たち、そして「投資・拡大・競争」の社会を牽引してきたともいえる人たちが、遠い世界から、「育成・創造・切瑳」の方向性に対して、異を唱えることなく、返って、心底、頷いてくれているような気がします。自分が知ることはない新たな年号の変更、そしてオリンピックや万博を再び日本で迎える可能性があるような次の世代に、「投資・拡大・競争」に変わって「育成・創造・切瑳」が幸せを生む未来社会を残してあげたいと、分不相応ながら、思っています。
20181201
新聞の書籍コラムに紹介があった「超訳ニーチェの言葉」(白取春彦訳)を読んでいます。数時間あれば読み切れる分量ですが、寝る前に、時々、少しずつページをめくっている状況です。
この「超訳ニーチェの言葉」は、1ページの読み切りになっており、190の項目で構成されています。最近、読んだところで気になっているのは、以下の項目です。127番目になります。
127;街へ出よう
雑踏の中へ入れ。人の輪の中へ行け。みんながいる場所へ向かえ。
(省略)
孤独でいるのはよくない。孤独は君をだらしなくしてしまう。孤独は人間を腐らせてダメにしてしまう。さあ、部屋を出て、街へ出かけよう。
私は一人で過ごすのが好きです。「街へ出よう」の内容は、私の日常にいささか反するものなのですが、なぜだか素直に受け止められて、そうしようと思ってしまいます。
ニーチェの言葉の不思議な力は、どこから湧き出ているのでしょうか。私は、学生の時、第2外国語として、ドイツ語を履修しています。ニーチェはドイツ人ですが、原著は、ドイツ語で書かれているということでしょうか。訳者を介さず、原書で読むとどう感じるのでしょうか。ニーチェの考え方にもっと近づくことができるでしょうか。さらにニーチェの思想を知ろうとすると、自分での原著の翻訳だけでは不十分で、ニーチェが育った環境や社会、時代から学ばないといけなのだろうとも思います。しかしながら、今更、原書で読むことも含め、そのようなことができるはずもありません。
訳者は、このようなことを学び、そしてそれらを土台にして、この書物「超訳ニーチェの言葉」を書いているのだと思います。「超訳」というところには、訳者の主観が少し入ってきているとも考えられますが、私は、それは構わないとしています。だから、このような訳本を読むのが、私にとって、ニーチェに近づく、ニーチェを知るための近道であり、また唯一の方法となります。◯◯文学という学問領域の根底にあるものがおぼろげに見えてくるような気がしています。
20181101
先日、会議の前に、W先生とちょっとした雑談を交わす機会がありました。W先生は、ネイティブスピーカーでいらっしゃいますが、とても日本語がお上手です。小さい頃は、お父様のお仕事の関係で、いろいろな国で過ごされたそうです。
それで、W先生に、
「何ヶ国語を話されるのですか」と聞いてみました。
「英語と日本語の2カ国語です。あとイタリア語が少し」と答えられました。
すると、今度はW先生から、
「先生は、何ヶ国語を話されますか」と聞き返されました。
「え!? 何ヶ国語?」ですって。生まれて初めて受けた質問でした。たいへん戸惑ってしまいました。いったいどこの誰に向かってのご質問なのでしょうか。
とっさに、
「1.2ヶ国語です」と答えました。W先生は、のけぞって笑っていました。意外とウケた答えのようです。自分でも妙に的を射た数字のように思いました。
そして、話せる言語の数を、小数点以下1桁まで使って1.2ヶ国語と表したとき、日本語を1.0と暗黙のうちにカウントしていました。W先生も同じだと思います。でも、私の場合、母国語を話していても話の途中でよく「噛み」ます。また、最近は、話しのなかで、「教室会議」、「主任会」、「教授会」等の会議の名称が、ごちゃ混ぜになることもしばしばあります。母国語の日本語であっても、小数点以下の数値まで使うと、0.9あたりでカウントするのが妥当かもしれません。
将来は、謙虚さの塊になって、1.2ヶ国語の内訳を聞かれたとき、日本語が0.6、英語が0.6と言ってみたいものです。英語は諦めずに日々の努力を続けたいと思います。一方、一日も早い口語翻訳装置の実用化を待っています。「噛んだ」日本語を翻訳できる性能が必要です。
20181001
10月を迎えました。過ごしやすくなりました。いくら異常気象が続いているとはいえ、2ヶ月前の38度に再びなることはないと思います。今年は、経験したことがない猛暑でした。でも、私は、夏が大好きです。兎に角、身軽でいい。布団から出るときに掛け声がいらない。手が荒れることもない。洗い物が楽。洗濯物もすぐに乾く。お盆がすぎると、いつも急に寂しくなります。地蔵盆のころには、早く、来年の夏が来ないかなと、思っています。
今年は、猛暑を満喫するつもりでいました。しかし、情けないことに、暑さに耐えきれず、体調を崩してしまいました。何という失態をしてしまったことか、悔やんでも悔やみきれません。この体調不良で、8月5日のオープンキャンパス(今出川キャンパス)の業務を休んでしまいました。深く反省しています。
同時に、これまで「仮病以外の病気はしたことがない」というつまらない冗談を言ってきたことも後悔しています。真っ赤な嘘です。以後、軽口を慎むことにします。
20180901
早や、9月。スポーツの秋、読書の秋、食欲の秋です。にもかかわらず、年のせいでしょうか、今年も残すところわずか4ヶ月、2018年ももうすぐ終わると、まずは考えてしまいます。
私は、1994年1月から1年の間、米国インディアナ大学で博士研究員(postdoctoral researcher)として過ごしました。1995年が電子メール元年と呼ばれていますが、1994年はまだメールが普及していませんでした。帰国後、あっという間にメール通信の時代になりました。
インディアナにいたとき、日本とのやり取りは、電話と手紙とFAXでした。九州大学に籍をおいていましたが、九大との仕事のやり取りは、FAXだけですんでいました。それもおそらく科研費の継続申請に関して、数回のやり取りをしただけのように覚えています。それ以外、日本からの仕事の連絡はほとんどなく、ポスドクとしての研究だけをしていればいい、研究のことだけを考えていればいいという環境でした。
今では、一週間の海外出張でさえ、少なくとも10通以上、いやそれ以上のメールのやり取りがあると思います。25年前とは、情報のやり取りが、量とスピードとともに、大きく変わりました。でもなんとかそれにギリギリのところで付いていっている自分が不思議でもあります。
内閣府のHPには新しい社会Society 5.0が述べられています。狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)に続く、新たな社会を指すもので、第5期科学技術基本計画において、日本が目指すべき未来社会の姿として初めて提唱されました。Society 5.0は、サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより実現する社会ということです。
このような新しい社会に、またしても自分が付いていけるのか心配しています。しかし、狩猟、農耕、工業、情報が関わる部分が社会から全く消え去るものではなく、それらのもとに、AI、I o T、BigDataに牽引される部分が上乗せされてSociety 5.0が成り立つと勝手に解釈すれば、今回もなんとかなりそうな感じもしています。そう思いつつ、Society 5.0に関わりそうなキーワードを使って科研費の申請書が書けないか、毎日、考えているのが現状です。
そうこうしているうち、申請書の下書きは何も進まないまま、Society 5.0の次に来る未来社会に考えを馳せてしまっています。Society 5.0がどのような社会になるのか未だ理解不十分なところではありますが、私は、狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)、そして新しい社会Society 5.0を基盤にしながら、その次の社会として、だれもが経験したことがない新しい農耕社会、すなわち農耕社会(その2)(Society 2.0 Ver.II)を作り上げることの魅力を探り始めました。日本の風土も日本人の気性も農耕社会に適していると思います。
退職したら、田舎に帰り、Society 5.0の世の中にあって、一人、農耕社会(その2)(Society 2.0 Ver.II)の具現化に挑戦するのも面白いかもしれません。農耕社会(その2)は、今までの投資、拡大、競争の価値観を一変させ、かつ今までの幸福度とその対象も残しつつ、人間本来の幸福感を再び呼び戻し、きっと皆を幸せにしてくれると思います。
空想・迷走は、この辺りまでとし、現実に戻って、科研費の申請書を書き始めます。
20180801
6月に地震、7月に大雨と猛暑、そして台風。8月は、静かにお盆を迎えたいと思っています。
漱石の「坊ちゃん」を久しぶりに読み返しました。お手伝いさんの清が、いつも印象に残ります。小説の中にあって、清が影の主人公ではないかと思っているぐらいです。第1章のおわり、坊ちゃんが四国に旅立つときの清と別れるところは、取り分け印象的です。
『車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌よう」と小さな声で云った。目に涙が一杯たまっている。おれは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。汽車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。何だか大変小さく見えた。』 坊ちゃんは、お兄さんとは仲がよくありません。お母さんには、亡くなる3日前に顔も見たくないと言われてしまいます。お父さんにも勘当されかけます。坊ちゃんは、家の中でつまはじきにされている感がありました。しかし、今回読んで、次のくだりに目が止まりました。第4章です。
『おれは小供の時から、よく夢を見る癖があって、夢中に跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑われた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢で尋ねたくらいだ。その時は三日ばかりうち中の笑い草になって大いに弱った。』
坊ちゃんの夢の話で、三日間も笑いに包まれる家族、なんと素敵な家庭ではないでしょうか。家族一人一人が正面から向かい合っているから、先に述べたように、時にぶつかり合うこともあるのでしょう。しかし、このくだりを読むと坊ちゃんの家族は、和を持った理想の家族に見えてきます。
研究室を振り返ると、学生さんと正面から向き合う機会が少なくなったように思えます。メールで事を済ませることも多くなりました。便利で効率が上がっているのかもしれません。しかし、正面から向かい合うことによって、ぶつかり合いから見えてくる真実や楽しさの機会は、年々減ってきているようです。このような時代だからこそ、もう少し"人間臭さ"が、研究室にあってもいいのかもしれません。難しいところです。
私は家族とメールをやり取りすることはありません。私を除いた「LINE」が組まれていて、それで事が足りているようです。
20180701
先日、次男の成績表が大学から送られて来ました。妻が、丹念に見ています。私が「どうだった?」と聞くと、妻が「何が?」と聞き返すので、「成績だけど」と言いました。すると、妻は「成績なんか見ていない」と言います。私は、長年の経験から得たビッグデータと自ら身につけたディープランニングを機能させ、これ以上の会話は、危険特区に突入すると判断しました。危機管理の徹底です。
私は、心の中で、"成績表を見ているのだから、ABC評価の大体の良し悪しぐらいはわかるだろう"とつぶやきました。妻の心のつぶやきも聞こえてきます。"成績がいいはずなんてないでしょ。それより卒業できるかどうか、単位数が問題でしょ。今更、何いっているの"。妻は、単位数を、繰り返し、ひたすら数えて、確認していました。
一日経って、落ち着いた頃に、私も成績表を見ました。成績表の内容はさておき、過ぎし時代に思いを馳せました。私の頃は、親が子供の大学の成績を知ることはなかったように思いますし、関心すら持っていなかった感があります。一方、小学校低学年の頃の「通知表」は、半世紀も昔になりますが、懐かしい思い出を呼び起させます。当時の「通知表」には、5段階表示の成績評価に加え、身長や体重などの身体検査の数字、出席・欠席の日数、担任の先生のコメント等が記してありました。1年は3学期制で、終業式で「通知表」を受け取ってその学期が終わり、夏休み等の長期休みに入ります。
私の家では、休みになると、父親が子供たちに「通知表」を持たせて、祖父の家を訪ねることになっていました。通知表を祖父に手渡す時、どのような会話があったのか、覚えていません。ただ、受け取った私と姉の「通知表」を、祖父が、書机に向かって書き写していたことを覚えています。つけペンを使って、半紙の上に、ほぼそっくりのフォーマットで写していました。私は、祖父のつけペンの使い方を見るのが、面白くて、遊びの途中、時々、その様子を書机に顔をくっつけて覗き込んでいました。祖父は、私と姉の分をそれぞれ2部ずつ書き写します。ほぼ半日がかりの作業になっていました。祖父は、1部を手元に残し、他の一部を遠くに嫁いだ長女(私の伯母)に送っていたようです。
祖父は、私たちの「通知表」の中身について話すことはありませんでした。とくに目立った成績ということでもなかったのです。しかし、正座のまま「通知表」を書き写す祖父の姿は、間違いなく、ほのぼのとした幸福感に包まれていました。孫が小学校に通うまで成長したことを喜んでいたのでしょう。孫の「通知表」を囲んで、家族みんなが、日々の小さな幸せに満足していた時代だったように思います。
20180601
先日、ラーネッド図書館内に新しくオープンしたラーニングコモンズを見てきました。土曜日でしたが、窓際のコンピュータが使えるスペースを中心に、学生が、書物やパソコンに向かい合っていました。その姿には、静かさの中にあって、少し張り詰めた緊張感のようなものがありました。学問的好奇心のみならず、将来への夢や希望、そして若さとエネルギーを感じました。正直、少し羨ましくも思いました。
彼らの将来には、今まで人類が経験しなかったような技術や経済、社会の変化、そしてそれに伴う大きな価値観の変化までもが、待ち受けていると考えられます。彼らは、自らの力で前人未到の世界を切り開いていかなければなりません。このような状況にあって、私にできることは、そのサポートと彼らを温かく見守ってあげることぐらいでしょうか。微力ながら、教育・研究の場を通して、誠心誠意、その努めを果たしていきたいと思います。
ラーニングコモンズの一部の机の上には、『ドリンクはフタ付きのみ可』と書かれたプレートが置いてありました。昨年の会議のことを思い出しました。ラーニングコモンズ担当の先生から、「『ドリンクはフタ付きのみ可』になりました」と、報告がありました。それを聞いた私は、次の質問をして、失笑を買ってしまいました。「飲み物は、2ヶ月間(ふたつき)だけ、持ち込みが許可されるということですか?」。
20180501
若葉のかおり爽やかな日々です。
嵐山に出かけ、渡月橋から天龍寺あたりを、ぶらぶら歩きました。最近は、どこへ出かけるにしても、カバンを背負っていきます。ただ、今日は、背負いもせず、手ぶらで歩きました。春うららかなとき、日常のすべてのものから解放されたい気持ちがありました。
カバンの中には、パソコン、携帯、ペットボトル、手帳、文献、書籍、常備薬、カードケース、等が入っています。職場との行き来以外でも大抵これらを背負っています。時間ができるとパソコンを取り出し仕事を始めます。
学生時代は、日帰りの行動範囲であれば、ほとんど手ぶらでした。極端すぎたのかもしれませんが、財布すら持っていませんでした。千円札を数枚ポケットに突っ込んでいた有り様です。メールも携帯もない時代でした。当然、メールの受理確認なんてする必要がありませんし、電話をかけることも受けることもありません。また、水分補給などということも当時は全く頭にありませんでした。何かに執われることもなく、別段、気にかけることもなく、今思えば、自由な開放感の中に身を任せていた感があります。
今日は、さすがに財布はポケットに入れていますが、それ以外は何も持っていません。手ぶらです。身軽なだけではありません。大げさかもしれませんが、不思議と心のあり様までもが違って、見る景色が異なってきます。いつもの景色が、軽やかに清々しく見えてきます。学生のころは、自由な時間がふんだんとあり、縛られない視点で、このように世界が見えていたのでしょうか。
色々なものを抱え込んでしまいました。生きてきた中での様々な思いやしがらみが体に染み付いてしまったみたいです。功名心であり、物欲であり、嫉妬心でもあり、不安や恐れ、後悔の念も尽きません。できることなら、それらを一枚一枚はがし取っていきたいものです。自由な気持ち、自由なものの見方、そして教えにもある真っ新な裸の自分に、少しでも近づければと思っています。放下着(ほうげじゃく;何もかも捨てなさい)、今、自分に一番必要とされていることのように思われます。
20180401
2018年4月。春は、昨年と同じく、この句から始まります。
「春風や 闘志いだきて 丘に立つ」(高浜虚子)
女性のM先生に電話をかけました。「ご相談がありまして、お部屋にお伺いしてよろしいでしょうか?」「ええ、いいですよ。10時から打ち合わせがはいっていますので、それまででしたら」
それで、急いでお部屋いくと、お留守でした。学生さんに聞くと、「先生は10時から打ち合わせです」という。だから来たのにと思って、事情を話すと、学生さん曰く、「打ち合わせは京都府庁です」という。「ええ、どういうこと?」何がなんだかわからなくなりました。
部屋に戻って、しばらく唖然としていました。すると電話がかかってきて、「先生、待っているのに来ないから。何処かでたおれているのでは、と心配していました」「え? でも、先生は?」「Nです」
「え、N先生?」。そうなんです。私はM先生に電話したつもりが、N先生に掛け間違えていたのです。電話番号の6と9を間違えていました。お二人とも女性で、お二方とも10時からの打ち合わせは、偶然でした。偶然が重なり、珍事が起るのでしょう。
電話番号の6と9は、プッシュホンの上と下の隣同士で間違えやすいのも事実です。ただ、私にはもう一つ心当たりがありました。次男が小学生のとき、算数を教えていました。次男は、6と9を間違えるのです。計算の途中からいつの間にか6が9になったり、9が6になったりしてしまいます。問題集の裏表紙に赤ペンで大きく「6と9を間違えないように」と書き込みました。今、私の電話連絡簿の端には「6と9要注意」と小さく書かれています。
20180301
寒さも峠を超えたことと思います。今月末には桜が咲きます。
「菫(すみれ)程な 小さき人に 生まれたし」(夏目漱石)」
最近、映画を見る機会は、ほとんどありません。でも、これまで見てきたなかでのお気に入りの映画はいくつかあります。古い洋画ばかりですが、思い起こしてみます。
24年前になりますが、一年間、米国インディアナ大学で博士研究員として過ごしました。その年(1994年)に「トゥルーライズ(True Lies)」(アーノルド・シュワルツェネッガー主演)と「フォレスト・ガンプ/一期一会(Forrest Gump)」(トム・ハンクス主演)が公開されました。生後4ヶ月の長男と妻を日本に残してはじめての渡米でした。一人ぼっちで見入っていました。
次男が中学生の冬休みに、「洋画を2つ見て感想を書きなさい」という宿題が出ていました。その時、私が、薦めたのはさらに古い映画で「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」(ジュリー・アンドリュース主演;1965年)と「ポケット一杯の幸せ(Pocketful of Miracles)」(グレン・フォード主演;1961年)でした。DVDを買って、家族みんなで見ました。
もっと古い映画では「エデンの東(East of Eden)」(ジェームズ・ディーン主演;1955年)があがってきます。私が生まれる前に公開されています。それもそのはず、私の父と母が二人ではじめて見に行ったという映画です。母から、時々、その話を聞きます。私が妻とはじめて見た映画は「裏窓(Rear Window)」(ジェームズ・スチュアート主演;1954年)でした。これも負けずと古い映画です。
若かりし日の父と母に思いを馳せます。二人はどのように自分たちの将来を思い描いていたのでしょうか。「エデンの東」は、二人の将来が、すでに消え去ったものとしてではなく、私と子供たちの存在に引き継がれていることを、優しく教えてくれます。J・ディーンの魅力とともに。
20180201
2月です。入試のシーズンになりました。まだまだ寒い日が続きます。しかし、春はすぐそこまで来ています。
「若草に はや風宿る 二月かな」(正岡子規)
昔、昭和の時代には、「今、何時?」という場面で、皆が壁の時計を一斉に見る風景がありました。平成になり早や29年、今は各自が個々のスマホを覗き込む時代です。
会議室の壁には時計がかけられています。その時計は2分進んでいます。私は、たまに(極たまに)会議が始まる定刻ギリギリに会議室に駆け込むことがあります。遅れることはなかったかと思いますが、かなりのギリギリです。議長の先生が、私が席に着くのを待って、「それでは皆さんお揃いのようですので」と、切り出します。その時、必ず、出席者の全員が一斉に壁の時計を見るのです。その時計では定刻よりすでに2分が過ぎています。皆さんの時計への視線には、何か含むところがあるのでしょうか。ギリギリですが、私は、遅刻はしていないのです。私は、いつも心の中で「この時計2分進んでいます」と叫んでいます。
でも、このように皆さんが一斉に時計を見る風景が、私は好きです。どことなく昔の昭和の匂いがするからです。懐かしさを感じます。平成生まれがいない会議のメンバーが成し得る技なのでしょうか。私は、遅刻の無実を叫びつつも、皆さんの時計への視線が意味するところを真摯に受け止め、次回からは2分早く来ようと、いつも思っています。
20180101
2018年、明けましておめでとうございます。寒さは、まだまだ、これから本番を迎えていくことと思います。しかし、冬至が過ぎ新年を迎えるなか、昼間の時間は少しずつ長くなっています。日差しにもどことなく明るさを感じます。
「元旦の歯をていねいに磨きけり」(日野草城)
お正月休みに、デパートで傘を買いました。傘をデパートで買うのは、はじめてでした。店員さんが、「どうぞ、さしてみてください」と言います。傘をさすと、「鏡の前へ」と、言われました。傘を選ぶのに、姿見を使うことを知りませんでした。店員さんが、「お似合いです」と言います。姿見で、どこを確認するのか、その使い方がわかりません。「どのあたりが」と、姿見の見方を聞いてみました。少し間を置いて、「普段、黒いスーツをお召しの時は、黒の傘がよろしいかと」。スーツは着ていなかったので、姿見での見方はわかりません。
色違いの青色の傘を見ていると、また「どうぞ、さしてみてください」、そして「お似合いです」と続きます。「どのあたりが」と聞くと、間を置いて、「ネクタイでは、青が勝負色。青の傘でもきっとお仕事がうまくいくと思います」。姿見の見方は教えてくれません。今度は、緑。「お似合いです」。少し迷いましたが、もう一度「どのあたりが」と聞きました。「明るい色は、夜でも目立つので、ドライバーにも見えやすく、安全です」。似合うか似合わないか、姿見を通しての判断は、説明が難しいことのようです。最後の色違い、ネービー。姿見の前で、「お似合いです」、「どのあたりが」。「無難な色です」。少しホッとする答えでした。しかし、姿見の見方は、依然、むずかしい。
ネービーに決めて、レジで支払いをしていると、店員さんが、「お客様は、学校関係のお仕事のようにお見受けしますが」と聞いてきます。あたっているので、止せばいいのに、また「どのあたりが」と聞きました。店員さんは、一人うなずきながら小さく笑って、今度は答えてはくれませんでした。
外に出て、曇り空のなか雨は降っていなっかたのですが、真新しい傘をさして、ショーウィンドウの前に立ってみました。傘を上下したり、少し横を向いたりして、ウィンドウに映る自分の姿を見ています。ふと、姿見はこのショーウィンドウのように使えばいいのだ、と思いました。実際、傘を気に入っている自分に「どのあたりが」と聞かれても返答に困ります。姿見の役割がわかってきたようです。そしてどの色でも似合うはずだとも思いました。普段コンビニで買うビニール傘を持ってショーウィンドウの前に立つことはありません。はじめてデパートで買った、私にとって、かなり上等の傘は、心ならずも私の気持ちを明るく弾ませ、似あうように見せてくれます。無難な色、ネービーでさえも、ショーウィンドウに目を向けさせています。
傘はよく失くします。もし新調せざるを得ないことになれば、今度は店員さんと姿見を通してショッピングの会話を楽しむことにしましょう。これまで不可解だった妻の長い買い物、繰り返される試着室への出入り、店員さんとの意味不明なおしゃべりにも、理解を示せそうな気がしてきました。「柔軟心(にゅうなんしん)」を思い、収穫のある一日をもって、2018年をスタートできたように感じています。
20171201
早や、12月。木の葉が、ひとつまたひとつと、土に落ちて、冬景色をつくっていきます。
「海に出て木枯帰るところなし」(山口誓子)
もうすぐクリスマス。そして冬休みが来て、お正月を迎えます。12月は、慌ただしく、忙しい日々が続きます。そのような中にあっても、どこかに子供の頃のように年末年始の行事を楽しむ気持ちをもって、過ごしていきたいと思います。
朝、母に電話をするのが日課になっています。今日、母が「次はいつ会えるでしょう」と聞いてきたので、「お正月」と答えると、少しおどけて「はやく、こいこい、お正月」と、歌っていました。
母は、車椅子を使う生活を送っています。相応の寂しさを感じていると思います。しかし、どこかで楽しむ気持ちをもち続けているようです。お正月の歌を歌っておどけてみせます。家族に会えることを楽しみにしています。
そう思うと、多事多端であっても、また後悔の念を覚えることがあるにしても、負けじと前向きに新年を迎えたいと思います。温かいお雑煮が、2018年、みんなの笑顔とともに待っています。
20171101
早や11月、今年も残すところ2ヶ月を切りました。
3日は祝日で、大学も休みになります。月曜の祝日は、授業日になることが多いので、平日が休みになるのは久しぶりです。どのように過ごそうか、少し考えてしまいます。妻を誘って映画を見に行くのもいいかもしれません。
今朝、妻から、「3日は休みなの?」と聞かれ、「休み」と答えました。ここで、ふと、考えます。
そういえば、ついこのあいだも同じことを聞かれたような気がします。思い出しながら、考えます。
私が平日休みになること(家にいること)は、そんなに気がかりなことでしょうか。計3回も確認することでしょうか。また、考えます。
考えた末、映画に誘うより留守番役をかってでる方が無難だ、という(おそらく)正解にたどり着きました。
「人間(夫)は考える葦である」;ブレーズ・パスカル(カズヒコ・ツカゴシ)
20171001
涼しくなりました。シャワーだけで済ませることもあったお風呂も、ゆっくり湯船に入れるようになりました。虫の声も聞こえてきます。一日の疲れが癒えるひと時です。食事もより美味しく食べています。いい季節になりました。
良いことばかり? お湯の中でお腹まわりをさわってみます---。すると、あれ、いつの間に---。お風呂上がりの体重計の数値が気になります---。そして、---、絶句!。
今月は、職場での健康診断があります!
「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」(芭蕉)
20170901
気づけば、ツクツクホウシの季節になっていました。田んぼの稲は、まだその葉を青々と茂らせています。でも、よく見ると、硬い実の稲穂が、少し垂れかけたそれらの葉の中で、一番大きな顔をして、まっすぐ上を向いて育っています。帰り道、定刻を走る電車の窓あかりが、夕暮れの中で、明るくくっきり、見えるようになりました。いつの間にか、日が短くなっています。秋です。
「うつくしや 障子の穴の 天の川」 (小林一茶)
20170801
停留所「同志社大学理工学部」でバスを待ちます。わずかな木陰に自分の影を重ねて、夏の日差しを避けています。そのようなとき、木々の葉がサワサワと動き、どこからともなく、爽やかな風が、蝉の声の隙間を縫うようにして、立ち起こる瞬間があリます。風は、私の体に纏わりつくように、汗ばんだ肌や頬を優しく撫でながら、またどこかへと「すーっ」と消えていくのです。暑さの中、夏ならではの心地よさを感じる一瞬です。
「夏の河 赤き鉄鎖の はし浸る」 (山口誓子)
20170701
雨があがり、さっとあたりに日が差してきました。傘をたたんで空を見上げると、雲のあい間には夏の青空が顔を覗かせています。あたかも、自分の出番を、今か今かというように待っている様子でした。
「万緑の 中や吾子(アコ)の歯 生え初(ソ)むる」(中村草田男)
20170601
一年で最も日が長くなる季節になりました。雨の多い時季でもあります。
「さみだれや 大河を前に 家二軒」(蕪村)
20170501
早や、5月になりました。
「春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな」(蕪村)
20170401
春です!
「春風や闘志いだきて丘に立つ」(虚子)