同志社大学理工学部 化学システム創成工学科
計測分離工学研究室

研究室を離れて

関守石  (同志社大学茶道部 関守石 昭和55年度25号)

巻頭言 同志社大学茶道部  幹事長  塚越 一彦

 灰色のアスファルトに塗られた同志社のキャンパス。いちょうの枯れ葉は、その上をカサカサと冷たい秋風に踊らされながら流れてゆく。その渦を足にまといながら私は寒梅軒(茶室)へ向かう。なにか奇妙な静けさの中にシュプレヒコールの叫びまでもが、その閑散とした11月のキャンパスを象徴しているようだ。クラーク館の薄緑色の塔の屋根は、うろこ雲の空にくっきりとそびえてゆく。

 その北側の少し奥まったところに寒梅軒がある。水屋の円窓の白い障子には秋の日ざしで、まだ少しばかり葉を残している紅葉の技影がはっきりと映っていた。その葉も、今、見ているうちに、ひとつまたひとつと枝から離れて、深緑に映えたこけの上へと舞い降りてゆく。

 シュプレヒコールの叫びも、ここではどこか遠くへ去ってしまったという感覚がする。四畳半の茶室にはいるとその感はますます強まる。松風を聞きながら、緑色にやわらかくあわ立ったお茶を飲み干すと、「ホッ」と、心身共に「ホッ」とする。キャンパスの内に、このような身も心も安らげる空間が存在することが時々不思議に思えてくることさえある。

 我茶道部は創立以来41年の歴史を持つ。当然ながら、今年は41年目の年、茶道部の歴史の最先端の一年になるのである。同志社茶会も終え、この一年を振り返ると、活動内容における多くの問題点、また活動を行っていく上での意見の相違があった。平たい言葉で言えば、いろいろクラブ内でもめごとが起こったということになるのかもしれない。でも、それはそれでいいことだと思う。部員ひとりひとりが、茶道部をこう考える、こうあってほしいとそれぞれに茶道部に対して熱い姿勢をもっていれば、自然、個人個人の分子がぶつかり合ってエネルギッシュな活動へつながる。そこから様々な問題点・課題が生まれてくるのは当然のことといえよう。それらのひとつひとつに我々は、前向きな態度で取り組んでゆかねばならない。そして、よりよい方向へと茶道部を発展させてゆきたい。

 ある人のたとえを聞いた。「舟は波風を立てねば進まぬ」。そのとおり、舟は波や風をおこしながら進んでゆくものだ。茶道部という舟も同じである。創立42年以降の未来の大海の中を茶道部という舟は、うねりを上げて、風をおこしながら、大きく前進してゆくものであろう。

父のメモ  (産経新聞 夕刊 2004年5月19日 夕焼けエッセイ)

塚越 一彦

 出張の都度、小学5年になる長男が電車の時刻を丹念に調べてくれる。長男は電車が大好きだ。時刻表を私の目の前に広げ、お薦めの電車を指で示してくれる。

 今春、父の一周忌の法事が九州の実家で行われることになった。その出立前に、長男が一枚のメモを私に手渡した。メモには行きと帰りの電車の時刻と列車名が、乗り継ぎも含めて書いてあった。私は不思議な感覚にとらわれ、そのメモに見入った。

 生前、父は私が帰路につくとき、必ず電車の時刻メモを渡してくれた。長男のメモは父のその書き方とまったく一緒だった。彼は私が父に書いてもらったメモを何度となく目にしていたのだろう。しかし、そういった事実より、私は長男の中にある非科学的な父の存在を信じたかった

 私には舌をかむ癖がある。はたからはガムでもかんでいるように見えるらしい。父から譲り受けた妙な癖だ。普段は舌をかんでいる自分に気づくと、すぐにやめてしまう。しかしこの日は、舌をかむ自分をあえて意識しながら、車窓の過ぎ行く風景を眺めていた。

 駅に着いた。昨年まで出迎えてくれた父の姿はない。一人タクシー乗り場へと向かった。そのとき携帯電話が鳴った。「お父さん、今、着いたところでしょ。お土産忘れないで。バイバーイ」。長男からの電話はそれで切れた。

 葉桜の動きが春風を伝えてくれる。その向こうに父と登ったふるさとの山並みが見えてきた。

呼び名  (同志社大学キリスト教文化センター チャペル・アワー案内 2004年12月7日)

塚越 一彦

 「ほらほら、お父さんにみてもらいなさい」。 妻が私の方に目をやりながら、子どもたちに話し掛けている。家事で忙しい時、子どもの相手をするようにとの妻からの合図であり、ごく日常の会話だ。でも、いつ頃か、妻に「お父さん」と呼ばれるようになったのだろう。

 長男が産まれるまでは、「一彦さん」「淳子さん」と名前で呼び合っていた。産まれてしばらくは、「パパ」「マ マ」で子どもに語りかけ、お互いもそのように呼んでいた。そして、二人の子どもの成長とともに、「お父さん」 「お母さん」に変わっていった。

 この年になって、妻が私のことを「一彦さん」と名前 で呼ぶことはまずないであろう。今の場合も「ほらほら、 一彦さんにみてもらいなさい」という言い方は、妻はけっしてしない。また、少し妙でもある。名前を使うなら、 「一彦さん、みてあげて」と、妻が直接私に話し掛ける方が、自然な流れのように思える。

 「お父さん」「お母さん」と呼び合うことで、夫婦の間の会話が、子どもを媒体にして間接的に交わされることが多くなったことに気付く。夫婦といえども、他人同士が暮らしていくには、ある程度の距離感が必要なのかも知れない。

 あと20年もたてば、孫がいてもおかしくない。私は「おじいちゃん」、妻は「おばあちゃん」と孫に呼ばれ、 また、お互いもそのように呼び合っていることだろう。 私たち夫婦も確実に老いを迎える。「おばあちゃん、おばあちゃん」と呼ばれて、今の子どもたち以上に孫に手を焼いている妻の顔と姿を想像し、私は、つい、にんまりとほくそ笑んでしまった。

 しかし、さらにその先にまで思いを馳せてしまった時、 私は、おおいに後悔した。おばあちゃんが、大きくなった孫たちに話し掛けている。
 「ほらほら、仏様にもみせてきなさい」と。
私は、すでにその場にはいなく、仏壇から様子を伺う存在になっていた。呼び名も「おじいちゃん」から「仏様」に変わっていたのだ。

 妻がこちらを向いて、ほくそ笑んでいる。その時、二人の子どもが私の膝の上に飛び込んできた。

 

2009年春の再出発  (荒川NEWS NO.346 2007年 July Wide Scope)

塚越 一彦

 1959年の生まれである。今年でちょうど満50才を迎える。彼岸の休みを佐賀の実家で過ごし、翌早朝に電車で京都に戻った。いつものように博多駅で新幹線に乗り継いだ。日が差し込む窓際の席に座った。父親の法事を執り行ったこともあってか、いつになく自分が過ごしてきたこの半世紀あまりを、しずかに振り返っていた。

 半農半漁の小さな町で育った。家の窓からは有明海が見下ろせた。春は潮干狩りを楽しみ、夏はハゼを釣った。冬になると牡蠣打ちに行った。海の向こうには、大牟田の工場が見えていて、その煙突から白い煙が立ちのぼっていた。家は残り三方を雑木林に囲まれており、小道の脇には、ゼンマイ、ワラビが芽を出した。夏には林の中のクヌギの木を巡回した。虫かごの中のクワガタの数と蚊にさされた個所を数えるのが日課だった。つややかなシイの実が薄緑色のからを破り、秋空を突き刺した。山ツバキの蜜の甘さは、メジロが教えてくれた。新幹線の車窓には、いつもの見慣れた風景が映っている。

 中学を卒業すると、友の多くは農業あるいは漁業としての家の仕事を継いだ。仲の良かったひとりは、大阪の会社に就職した。駅に見送りにいった日のことを覚えている。友は照れ笑いをしていた。おばあさんが泣きながら、いつまでもその手を離さなかった。電車が夕暮れの中に消えていった。寝台のない夜行列車だった。夜の車窓には、不安げな彼自身の顔が映っていたに違いない。記憶のひとつひとつがデジタル画像のように脳裏に浮かんでは消えていく。

 地元の高校を卒業して、同志社大学に入学した。京都での生活がはじまった。何もかもが新鮮だった。私の場合、いや多くの人がそうであるかもしれないが、大学入学の前後で、記憶の色合いが少し異なってくるように思える。それまでの「思い出」という感じから「人生の積み重ね」とでも言いあらわせるのだろうか。学生時代には、いろいろなことを学び、いろいろな思いをし、そして、多くの人と出会うことができた。

 同志社の正門をくぐると、良心碑がある。教育の原点は「良心」にある。創立者の新島襄は誰よりも「良心」を高く評価した。「良心之全身ニ充満シタル丈夫<ますらお>ノ起リ来ラン事ヲ」。この文言が「良心碑」に彫られている。学生の時、特に良心碑を意識することはなかったように思う。その前で足を止めることもなく、刻まれた文言を繰り返すこともなく、毎日その前を通り過ぎていた。でも、その良心碑に見守られて過ごした時間が、自分の中に何かを残していってくれた。新島の文言は、知らず知らずのうちに、ここに集うすべての人たちに優しく注がれているのだろう。

 年を追うごとに、「良心」の言葉が自分の中で大きな存在になっている。この言葉に励まされ、勇気づけられる機会が増えた。自分がとった行動と判断を、あるいは自分がとろうとする行動と判断を、この言葉で確認することも多くなった。それぞれの人の立場とその思いに気づかせてくれるのもこの言葉である。良心碑に刻まれた言葉は、もちろん、戒律でもなければ、いましめでもない。それらとは最も遠く離れたところに存在するものだとさえ思う。その文言は、ひとりひとりの心に、優しく、静かに、そして力強く語りかけられる。自分をより自分らしく、そしてあるべき自分の姿に導くかのように。

 同志社大学に着任して14年になる。これまでに170名近い学生と、研究テーマを通して、ともに学んできた。彼らは、将来へ向けて重要なそして人生のなかで最も多感である20代前半のこの時期を、研究室で過ごし、卒業していく。教員は学生がはじめて身近に接する大人のひとりになり、彼らの記憶にとどまっていくのかもしれない。自分の職務の特殊性を認識すべきだ。良心碑のもと、学生とともに切磋琢磨し、学ぶ姿勢を続けていきたい。

 卒業生は今日をどのように過ごしているだろうか。楽しいことばかりであるはずはない。悲しいこと、辛いことも、すべてを個々の人生として背に負いながら、生活していることだろう。塵労の中、ときに、同志社で過ごした学生時代を、研究室で過ごした日々を思い出すこともあるのだろうか。

 取り立てて人に話すべきような信条は持ち合わせない。しかし、ふと振り返ると、水に沈めた木片が、勢い余って水面に飛び出すかのように、「良心」の言葉が、自分の人生の中から、浮かび上がってくる。この言葉の温かさと重みを噛み締める。自然と涙することもある。この言葉を知りここで多くの人に出会えたのは実に幸せだと思う。深く感謝したい。

 京都駅に降りた。空気は意外と冷たかったが、とても澄んでいた。遠くに大文字の山が見渡せる。木々の葉のひとつひとつのうごきまでもが見えるかのように、古都の空気はどこまでも澄んでいた。

 2009年、春、「良心」の言葉とともに、人生の後半を再出発したい。

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