応仁の乱

虎屋と御所

 

虎屋は奈良時代の奈良に創業を求める伝承をもち、後陽成天皇(1586〜1611)の在位中より御所の御用を承った禁裏御用菓子屋です。


明暦3年(1657年)に朝廷から「近江小掾(おうみしょうじょう)」を許され、寛文12年(1672年)には「近江大掾(おうみだいじょう)」を拝領し、明治維新まで代々虎屋近江大掾を名乗りました。虎屋では拝領のお礼として、禁裏御所や宮家に五重物や桐箱一折などの菓子を献上し、出入り業者や知己から扇子箱、鯛、蛤、晒、樽(酒)などが送られた記録があり、その返礼もふくめて多額の出費があったようです。また、虎屋では受領名は禁裏から授けられているので、「口宣案(くぜあん)」(勅命を伝える文書)や「宣旨(せんじ)」(天皇の命を伝える公文書)を所持しています。


寛永12年(1635年)、明正天皇(女帝)の父君後水尾院への行幸にあたり、虎屋が納めた菓子に「いりかや ようかん あるへいたう らくがん 大まん まめまめ」(『川端道喜文書』)などがみえ、多種の菓子を作っていたことがわかります。江戸時代を通じて公家や大名以外にも手広く顧客を持ちカステラ、金平糖や、煎餅、飴、うどん類まで手がけ、さまざまな御用におうじる菓子司であったようです。

 元禄8年(1695年)の菓子の注文をとるための見本帳には、美しく彩色をほどこし菓名をもった74種の菓子が描かれていて、町人文化の花が開く元禄頃には、「藤はかま」「伊勢さくら」などの優しい名前の菓子も登場します。しかしなんといっても、虎屋といえば饅頭と羊羹です。


そのまんじゅうについては、聖一国師の話があります。円爾弁円(えんにべんねん)は、宋に渡って臨済禅を修めて帰国しました。円爾弁円は後に、国王の師たるにふさわしい僧侶の称号である国師号を日本ではじめて与えられ、聖一国師と呼ばれました。また国師は京都に東福寺を開き、御深草・亀山両上皇や北条時頼の帰依をも受けていました。その国師は、帰国後京都へ上る以前、しばらく九州博多に滞在されています。そして国師は托鉢の途中、厚いもてなしを受けた茶店の主人栗波吉右衛門に、宋で学んだ饅頭の製法を伝授したといいます。この饅頭は、酒種を使うことから酒皮饅頭とも、吉右衛門の屋号から虎屋饅頭とも言われています。この虎屋饅頭の伝統は現在に受け継がれています。また、国師が吉右衛門に書き与えた「御饅頭所」の看板は、戦前に虎屋に移り、大切に保管されています。