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「卒業生から大学に物申す」/証券奨学同友会報2000(第19号)

昨年(1999年)度から、文部省の科学研究費補助金を受けて、大卒者を対象とした大学教育と卒業後のキャリア形成に関するかなり大規模な調査を実施している。現在まだ継続中であるため、詳細についてはご報告できないが、少し感じたことを述べてみたい。

近年、少子化を背景に、大学は急激な変革を余儀なくされて右往左往している。思いつくままに関連する話題を挙げてみても、入試の多様化(軽減化?)、大学院重点化、国立大学の独立行政法人化、社会人教育、大学生の学力低下、予備校・専門学校との提携、自己点検・自己評価など枚挙に暇がない。私自身、学部生から大学院生、そして教員へと立場は変化したものの、この10年程一貫して大学に籍を置き続けて、その雰囲気や取り巻く環境の変わり様には戸惑うばかりである。私にとっては最早「職場」であるから、この件に関しては問題意識を持たざるを得ないが、大学を離れて久しい卒業生の方々の目には、一体どの様に映っているのだろうか。特に母校の動きは、いつまでたっても気になるものである。自らの声がなかなか届かないもどかしさと共に、苦々しい思いで見つめていらっしゃる方も多いかもしれない。

この調査自体は、計量的分析を前提としているため、大半が選択回答式の設問で構成されている。唯一、末尾に自由回答欄を設け、全体的な意見を募ったところ、予想以上に熱心な記述が見られた。調査票の整理をしながらざっと目を通してみて、手厳しい意見の数々に青くなったり赤くなったり、現場にいる者としては随分と考え込んでしまった。統計処理には全く向かないが、その客観性の乏しさを補って余りある程、経験に裏打ちされた「現実」に圧倒されたというのが正直なところである。

意見の内容は、実に様々であった。今回は、いくつかの私立大学文科系学部の卒業生に調査対象を限定しているのだが、きっぱりはっきり「大学で学んだことが実社会で直接役立つことはない」とする意見は確かに多い。その延長線上に、マスプロ教育批判があったり、実務経験のない教授陣を憂慮したり、他学部との連携のなさやパソコン・情報処理関連教育のお粗末さ、実戦力のつかない語学教育などの指摘が存在している。不況の影響も大きいのか、最近顕著な「実学志向」の発露と言えるだろう。反面、大学が就職予備校に成り下がることへの危惧、学問を追求する場としてあり続けることの重要性、さらには人格形成や人的ネットワーク構築の場としての存在価値を強調する意見も根強い。どれもこれも相応に説得力がある。しかし、これだけ大学に求めるものが多様化してしまっては、とても同時に並び立つものではないし、対応できるものでもない。どないせえっちゅうねん。この関西弁がまさにピッタリなのである。

いずれにしても日々直面しているのは、教員個人あるいは学部・大学としての研究・教育に対する理念と、学生個人あるいは社会的要請とのせめぎあいであり、通常はそれに経営的判断が加わって一層の複雑さを増す。どこに均衡点を見出すかはケース・バイ・ケースであるが、これからは時代の流れに逆らわない柔軟性と共に、完全に流されてしまわないバランス感覚が、判断の拠り所としてどうしても必要になるだろう。その意味でも、このような調査に寄せられた忌憚のない意見は貴重であり、個人の研究レベルで完結させるのではなく、成果を広く社会にフィードバックする責任があるとさえ感じている。地道な努力を怠らず、大学も、そして私自身も、当分は必死で足掻かなければなるまい。

最後に、思わず心が波立った2つのコメントを紹介したい。いずれも40歳代、無職の女性によるものである。

「大学在学中、卒業直後も、私には夢があり、またそれに向かって進んでおりました。結婚自体も何の影響もないように思われました。しかし、第1子の妊娠・出産から、一度仕事というものから遠ざかった途端、以後16年、日々の子育てと雑用に追われ、社会復帰とは程遠い毎日を送っています。現状を責任放棄するわけにはいかず、私は一体大学で何を学んだのかと自問自答する時、他人には自分の出身大学を言うことさえ恥ずかしいことに思えます。このような私にとって、はっきり申し上げて、このアンケートは私の立場をあからさまに再認識させられるようで残酷でさえあります。私のような立場の人間にも再入学が許され、再びチャンスを与えてくれるような大学制度であったら、と考えます。」

「キャリア形成ということに関しては、男性でも中年以降の再就職は難しい中、中年女性にとって(国内屈指の難関私立大学・文科系学部名)卒という肩書きは、専門職にでも就いていない限り、邪魔になりこそすれ、プラスになることはまずありません。」

学生時代には意識の端にも上らなかった性別が、容赦なく自覚させられるようになって、肩肘を張らざるを得ない辛さや息苦しさも少しは分かるようになった。だからなのかもしれない。読んでいてやるせなかった。やるせないという表現が最も相応しいように感じた。研究者として情緒的に過ぎるのは決して誉められたことではないが、このような気持ちの揺らぎもまた見失ってはならないと肝に銘じている。



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