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IPEの風 3/9-21/09

学生たちと芦原温泉にゼミ旅行へ行きました.その帰りに,京都駅で伊勢丹の喫茶店・英国屋に入り,高橋さんと話しながら,自分が学ぼうとしてきたことの中身を反省しました.

・・・世界経済がこれほど深刻な危機に向かっているにもかかわらず,政治経済体制を批判する議論がまるで聞かれないのはどうしてか? かつて,マルクス主義や批判派の社会理論が主張したような危機が,まさに起きているのに,なぜ新しい社会を目指す声は上がらないのか?

私は,かつてのマルクス経済学や反体制派の政治理論で現在の危機を説明することができる,と思いませんでした.理論が現実を説明する力を失ったのです.ソ連崩壊や中国経済の(世界資本主義と一体化した)躍進は,過去の反体制的な議論を蒸し返す者に,「社会主義」や「反体制」(というイデオロギー)の犯してきた過ちを繰り返すのか,という問いに対して,強い説明責任を課しています.

すでに,過去の論争(プラン問題とか,転形論とか,国際価値論とか)との断絶を,私たちは意識し,それに代わるものを模索してきた世代であった,と思います.ミクロやマクロの議論を本格的に学ぶ者,法律や制度の特性を実証的に解明する者,経済学ではなく,歴史学や社会学,政治学などの分野で,自らの問題意識を継続したいと願う者,そして,現代の政治経済問題を追跡して,その意味を問い直す者,など,今も様々な研究者が模索し続けています.

大学における経済学や学会の研究報告に並ぶテーマを見ても,今や,社会や政治の意味を問うような議論は見られません.しかし,金融市場や労働市場におけるミクロやマクロの議論がいくら重要な貢献であるとしても,計量モデルや統計がいくら精緻に展開されていても,私はそれに満足できません.社会の成り立ちや政治的な選択,その歴史的な意味を問うことは,その時代の現実に即して,常に重要であり続けます.

しかも,アカデミズムから新しい批判理論は育たないだろう,と思いました.アカデミズムは旧来のレトリックを重視し,よく似たモデルを比較して互いに論争し,それを知的な技量として尊びます.現実に苦しむ人や,体制の及ぼす不正義に憤慨する人々の問題を表現するために存在するのではないのです.世界システム論や反システム運動,さまざまな帝国論,もっと最近の欧米の議論に,私は魅力を感じませんでした.A.G.フランクが晩年に目指したような世界資本主義論の方が,むしろ正直な試みではなかったか?

もし<経済学>が危機に対して真剣に応えるとすれば,それは本当に優れた指導的研究者が問題提起するか,政府に関与して問題の解決に乗り出すからでしょう.批判派の経済学は,現実に(歴史的に)存在する社会問題,政治的危機を捉えてきました.市場の均衡や合理的な個人のコスト・ベネフィットでは捉えきれない社会的軋轢を示し,正義を求めたのです.しかし今,私の周りでも,多くの先生が引退し,あるいは,亡くなりました.

新しい社会を目指す声は,もう既に存在しているはずです.アカデミズムではない,もっと軋轢に身を晒して,その不正義に抗し,強靭な思考を展開する使命を担う人々が,世界にきっと現れていると思います.アメリカで不思議な批判的研究を連発するマイク・デイヴィスや,イギリスの移民問題を調べた時に知ったクンナニ,あるいは,反貧困ネットワークの湯浅氏かも知れません.

・・・自分に何ができるのか,わからないけれど,と私は話しました.The Economistが示すような東欧経済の危機は,社会や政治の秩序を再び転換させる威力があるでしょう.日本の政治が,再び,大きく転換するチャンスを失いつつあるように見えても,最後には,この世界的な規模の危機の連鎖に呑み込まれるのです.

Reviewは時間がなく、大まかに列挙しただけです。何かの役に立てば幸いです。

アイスランド調査旅行の考察は,こちらです.

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