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IPEの風 11/16/09
ベーシック・インカムの公開講演会です。会場に入りきれないほど多くの人が集まりました。これほど多くの人がベーシック・インカムに期待するものとは何でしょうか? 私は、A.カレツキーが、昨年来の金融危機について、道義的な問題への関心がよみがえるだろう、と指摘していたことを思い出しました。(Anatole Kaletsky, “9/15 is another date we should never forget,” The Times, September 18, 2009)
会場には多くの女性、小さな子供を連れた女性も集まっていました。山森先生の本が見事にさまざまな論点を紹介していますが、ベーシック・インカムは、豊かな社会に住みながら貧困を強いられる人びと、あるいは、もっと自分の好きな道で生きたいと願う人々、に強い刺激を与えるのでしょう。まじめに働くことは、この社会の富に対する権利を生じさせる、と誰もが感じているからです。
しかし、私が聞きたかったのはロナルド・ドーアの話でした。ドーアの本は、どれも、根本的な問題を提起して、社会的・政治的に見て望ましい、しかも実現可能な答を示そうとします。ドーアがベーシック・インカムをどう考えているのか、それを知りたいと思いました。
彼の話は、雇用や賃金というより、人としての「尊厳」を守ること、でした。
1930年代の大恐慌と不況を、ドーアは中学生として経験したそうです。仕事を失った人々、貧しくて牛乳も買えなくなった人々、彼らの「恥」の感覚を知った、と言います。(生活保護ではなく、ベーシック・インカムの利点は、この「負け犬の烙印」を取り除くものだ、と主張されています。ただし、この点をドーアは講演の最後で疑っていますが。)
ドーアは、このシンポジウムの主催者が用意したドイツのビデオをどう思ったでしょうか。絵描きの男性が建物の壁に好きな絵を描くことで暮らす、というのは、ベーシック・インカムで本当に可能になるでしょうか? それはロマンチックですが、現実を無視していると思います。つまり、誰が畑を耕し、服を縫い、トラックを運転するのか? という問題がどうしても残るのです。
ドーアが発展途上諸国(そして、日本)で観察した「学歴社会」(学歴病)も、言ってみれば、技術や知識の普及により、人々の間で雇用や所得を分配する方法が極端な歪みを社会に生じていたわけです。工業化を始めるのが遅いほど、近代部門の高い生産性や所得は、労働者を選別するシステムを必要とします。それが「学校」や「学歴」であれば、実際に必要な能力とは別に、とにかく選別するための難しい問題や、そもそも意味のない暗記などを強いる「受験勉強」が蔓延します。また、タクシーの運転手も掃除のおばちゃんもみんな大卒(さらに大学院卒)となり、他方、入学した者は、卒業できれば資格が得られるのであれば、卒業することだけを気にして、勉強しません。こうして大学卒の価値が急速になくなってしまう「学歴インフレーション」が生じます。
他方、『働くということ』や『貿易摩擦の社会学』で、ドーアは産業社会の将来を懸念しています。「学歴社会」とは逆に、技術変化やグローバリゼーションが、面白くて、高い所得を得られる、まともな仕事を豊かな国から減らしてしまう、と考えたからです。退屈で、苦痛なだけの仕事を、しかも低賃金でしなければならない人が増える一方であれば、これは住みにくい社会になるでしょう。
だから、T.H.マーシャルの議論を紹介して、ドーアは市民権が拡張されてきた歴史の果てに、ベーシック・インカムを位置づけようとしたように思います。(ちなみに、私はT.H.マーシャルを移民論の文脈で使いました。)
生活保護に比べて、ベーシック・インカムの導入を促す条件が二つある、とドーアは指摘します。一つは資産を調査することが難しいこと。ベーシック・インカムは虚偽報告やプライヴァシーの問題を回避できます(今、検討されている子供手当も?)。もうひとつは、市場によって決まる賃金が余りにも低下してきた(あるいは、余りにも上下に両極化してきた)という事情です。そのような社会で人びとが「尊厳」を持ちながら、技術変化による豊かな社会を維持できるとしたら、ベーシック・インカムのような仕組みが必要でしょう。
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ベーシック・インカムを支持する保守派は、むしろ、福祉国家の解体、管理コストと国家介入の削減を目指しています。他方、左派は所有と権限(市民権や社会参加)、勤労意欲・倫理を問題にします。貧困だけでなく、富(と、その分配)を問い直す姿勢が必要です。
今なお、ベーシック・インカムが実現できないとしたら、それは市場社会という現実の中で、フリー・ライダーを排除できず、財源が問われ、経済の効率性を無視することなどできない、と多くの人が知っているからです。ドーアも、勤労倫理の問題、経済効率を実現する問題は避けて通れない、と考えました。グローバル化し、移民が増える社会においては、ベーシック・インカムを導入するための積極的な「政治(運命)共同体」が失われてくる、と認めます。
しかし私は、たとえば、農村の小さなコミュニティーでなら、フリー・ライダーもなく、ベーシック・インカムは実現できる、と思いました。シンポジウムでは、実現可能な「ベーシック・インカム」に近い制度として、さまざまな議論が出ています。それらを整理し、延長すれば、こんな風になるでしょう。
ベーシック・インカムT すべての子供と母親に基本所得を。・・・少子高齢化や、家庭内暴力、離婚問題、育児や、女性の社会参加が制限されている問題を解決できるかもしれません。
ベーシック・インカムU すべても教育と医療を安価に。・・・すでに福祉国家が実現した面もあるでしょう。今はむしろ削減され、価格原理が復活していますが。
ベーシック・インカムV すべての子供と老人に基本所得を。・・・ベーシック・インカムの部分的導入です。そして、次第に、対象の年齢層を拡大していくこともあるでしょう。
その意味で、年金制度の充実と最低賃金の引き上げは、部分的なベーシック・インカムと同じです。既存の税制や支給額に関する批判としては、何もベーシック・インカムを特別視する必要はありません。しかし、ベーシック・インカム論争の隆盛を嫌う<正統派>の経済学が見ているのは、「ソフトな社会主義」であり、「マルクス主義者のトロイの木馬」なのです。
ベーシック・インカムW すべての参加者に社会の基本所得を。・・・どれくらいの額になるのか、わかりませんが。まず低額で導入し、引き上げるのでしょう。
ベーシック・インカムX すべての参加者に基本的な義務と所得を。・・・たとえば、兵役の義務や公共の用務に従事すること。社会資本の形成に貢献すること。
ベーシック・インカムY すべてのコミュニティーに基本所得を。・・・むしろ、その社会の標準的な所得を、コミュニティーを通じて、全員に与えるほうがわかりやすいように思います。
ベーシック・インカムZ すべての政治経済共同体・国家が雇用と生活を保障し、株式保有を。・・・原始共産主義や、宗教的な共同体、軍事的な植民のイメージです。しかし、これはもっと現実的なアイデアかもしれません。
ドーアは、財源として企業が毎年、新株を発行して、それを基金・財源とすることを提案していました。その理由は詳しく知りませんが、「日本型資本主義」を拡張するように見えます。会社自体を運命共同体と考えるなら、個々の企業でベーシック・インカムを実現できるでしょう。実際、NPO・NGOには、そのような原理がすでに適用されているのではないでしょうか?
もし、東西ドイツ再統一や将来の南北朝鮮再統一、あるいは、東アジア共同体で、ベーシック・インカムが導入されれば、政治経済制度の大きな転換が、貧困や、失業に伴う尊厳の喪失を避ける形で、実現できるでしょうか? ・・・私は、そう思います。
家族も、分業も、国家もない。ベーシック・インカムを願う人々が想像する世界では、今と異なる労働・富の分配メカニズムが正当な社会秩序として認められていると思います。そして人は、もっと自由に、家族や職業、政治体制を移動できます。
ある意味で、私もすでにベーシック・インカム論者です。(「グローバル社会の日本モデル」、拙著『グローバリゼーションを生きる』、58-59頁)
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講演会のあった日の夕刻、立食パーティーがありました。私が一つだけ、ドーアに尋ねたのは、『学歴社会』において、ドーアが能力による選別を早期に行う提案でした(これは、ちょっと、ハクスリーやオーウェルのディストピアを連想させます)。もちろん、その意図は、能力の高いものを早期に選別することで、学ぶこと自体の楽しさを回復させる(選別機能を分離し、無意味な受験勉強から子供たちを解放する)、ということです。
これに対して、ドーアは、選考はそれほど幼いときではなく、IQよりもっと多様な人間性と基準で選ぶことを提案した、と答えました。なるほど、そうであったかもしれません。
・・・私はドーアにもっと質問し、話し合ってみたかった、と思います。
ベーシック・インカムは、1時間700円のコンビニの労働者を一掃します。ドーアは、(シンポジウムにおいて)それで良いと答えました。そして、コンビニの労働者の賃金も(ベーシック・インカムより)高くなるでしょう。その結果、おにぎりの値段は120円ではなく、たとえば、300円になるでしょう。それでも、こうした労働は多方面で必要ですから、それは物価の上昇につながるでしょう。日本はデフレなので、それもよいのでは、と。
もしベーシック・インカムで、労働者の20%か30%がそのような低賃金(派遣・パート)の現場で働かなくなれば、彼らは何をするのか? ドーアは老人介護を例に挙げました。老人たちは介護をもっと必要としています。しかし、彼らには貨幣所得がないのです。もしベーシック・インカムがあれば、彼らの介護に対する需要は急増し、介護労働者の賃金(その後のチャンス)も改善するでしょう。若者の失業を解消することができます。
企業が国際競争に負ける、という問題も、そのような分野は国内生産を諦めるか、技術革新に投資して生産性を高めるか、新製品を作る方がよい、と考えます。ドーアは、その社会が望むなら、輸入品を数量規制してもよい、と指摘しました。技術革新を導入するためにも、ベーシック・インカムがある経済は労働者の移動性・適応力が高く、優れているだろう、と私は考えます。
小沢先生に、私は一つだけコメントしました。ベーシック・インカムは、それが及ぼす二次的、三次的な効果まで考えるべきではないか? もしベーシック・インカムが貧困や失業、派遣労働者のような働き方をなくそうとしても、それらをもたらしている市場の圧力は、もっと違う形で現れるでしょう。それが解決できなければ、問題が残る、と(これは、ちょっと、ケインジアンを批判したマネタリストに似ていますが)。
たとえば、中国からの安価な輸入品が増えたことで、日本の多くの商品の価格が下がってしまい、十分な賃金や雇用を維持できないのであれば、ベーシック・インカムの導入は、ますます多くの失業につながるかもしれません(あるいは、技術変化、派遣労働者制度の普及、教育の荒廃、企業や家族、学校に関するイデオロギーの変化・・・ かもしれません)。
財源問題でベーシック・インカムを否定しようとは思いませんが、それが「富の再分配」に過ぎないのであれば、ベーシック・インカムは貧困の社会的分担になってしまいそうです。むしろ労働意欲を高め、富が増大する仕組みとして、ベーシック・インカムは新しい社会を議論するべきです。
ドーアは、実現するための問題点を示しました。すなわち、1.「負け犬」の烙印を消せるか? 2.「勤労精神・労働倫理」と経済効率の実現に矛盾しないか? 3.グローバル化や移民の増大とともに、人びとの連帯感が低下し、富の大幅な再分配を支持しなくなるのでは? ・・・つまり、失業することはなく(あるいは、あっても社会的に非難されず)、市場競争と異なった労働倫理によって効率性を実現し、グローバル化する社会でも人びとの連帯感が高い、そのような社会なら、ベーシック・インカムは可能なのです。
雨の中、幼い子供の手を引いて集まってくれた若いお母さんたちが新しい社会の誕生を期待する、そんな議論を喚起できたとしたら、ベーシック・インカムは歴史的な論争の始まりを告げたわけです。
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