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IPEの種 7/24/2006

例年になく梅雨明けは遅れて,毎日,雨が降り続きます.夜半,冷たい風が吹くと,このまま秋になるのかな? と不安になります.

前期の講義が終わって,久しぶりに図書館で雑誌を閲覧しました.私にとってIPEの雑誌と言えば,Foreign Affairs, Foreign Policy, International Economy, International Organization, Review of International Political Economy, World Politics, などです.

中国(やインド)について,今も,その奇跡的な成長やキャッチ・アップを予想する者と,過熱や危機,政治的崩壊,環境破壊,世界不況,などを懸念する者がいます.Minmix PeiForeign Policy, March/April 2006)は,ロシアの富豪たちは,結局,国家の自然資源を略奪したに過ぎないが,中国の共産党エリートたちは,繁栄する民間経済に寄生し,腐敗を蔓延させ,不平等と環境破壊,不動産ブームによって成金になった,と批判します.それゆえ停滞,もしくは政治的な破局に向かうだろう,と.しかし,Andrew J. NathanForeign Affairs, July/August 2006)は,権威主義体制の下でも成長は維持できるし,中国の政治指導層に分裂の兆しはない,と考えます.

自由貿易について,批判派の政治学者や社会学者だけでなく,P.サミュエルソンやA.ブラインダー(Foreign Affairs, March/April 2006)も真剣に再考し始めています.かつて製造業から雇用が失われたように,今やサービス部門で,電子的に移動可能なサービスは急速にインドや中国に「アウトソーシング」されます.農業に雇用された労働者が84%から2%以下にまで減少したように,貿易は経済・社会構造を大きく転換します.ただし,アメリカはこの点でヨーロッパや日本より優れている,と.(そして『モダン・タイムズ』のような非人間的労働から解放される!?)

経済学は社会科学の中でもっとも完全な科学に近い,という自信過剰をMises Naimは批判しました.現実の重要な政策決定について,経済学者の意見が一致することは珍しい(ほとんどありえない)のです.むしろ経済学の正しさを過信することが,政策判断に深刻な過ちをもたらすかもしれません.

現実の変化を経済学は説明できません.成長率を予測する座談会やゲームを観ても,中央銀行によるインフレ率の予測を観ても,それは科学ではありません.政府は選挙前の失業率や株式相場を気にして動きます.金融市場は,貿易赤字や外貨準備を心配し,中央銀行の発言や為替レートの変動に一喜一憂します.しかし,誰もそれらを適当な水準に安定できないし,一年先どころか,一ヶ月先も,数日でさえ,確かなことは分かりません.

かつて,政治と経済,国家と市場,は分離されていました.安全保障と市場競争は,概ね,互いを侵食しなかったのです.今では,その分離を前提とした秩序が崩壊し,その上,個々の主体が生存競争を行うジャングルの法則に回帰しつつあります.国際収支と国際通貨がそうであるように,市場が示すゲームのルールで競争する一方で,エネルギーや国境紛争,核の管理,通貨危機など,何が正当なゲームのルールか,をめぐって争いが起きます.

それは完全に無秩序なのか? そうではないでしょう.たとえば,将棋や囲碁を考えます.そこには明確なゲームのルールがあり,明確に合意された基準で,勝敗が決まります.しかし,未来を予測することはできません.155手目をどこに打つか? 予測することはできません.かつてジョセフ・S・ナイJr.は,冷戦後,多極化した国際政治を「3層のゲーム」と考えました.しかし,それぞれの層が独立でないとしたら,それは一つのゲームに混じり合います.

「アジアの巨人たち,中国と日本は,地域の経済活動のおよそ4分の3,地域の軍事費の半分以上を占めている.経済的に深くつながり,この5年間で両国間の貿易は倍増したが,その関係は緊張を増している.」「現在の中国と日本の関係を,第一次大戦前のイギリスとドイツの関係にたとえる者もある.・・・ある意味では,ますます政治に関する大衆の意識が強まり,第二次大戦の記憶によって増幅されたナショナリズムが再生する中で,両国は敵対的な姿勢を取っている.相互の経済的に有利な取引だけでは,こうした緊張をうまく抑制できない.パワーと恐怖の認識が移り変わることこそ,ツキディデスが見た,戦争の古典的理由である.」(Kent E. Calder, “China and Japan’s Simmering Rivalry,” Foreign Affairs, Vol. 85, No. 2, March/April 2006.

同じテーブルの周りに,多くの競技参加者が座ります.彼らは一斉に,将棋と囲碁とチェスとオセロを始めます.あるときは飛車だった駒が,次の瞬間にはナイトになり,またあるときには囲碁の白石と黒石になったものが,次の瞬間にはオセロになって敵の石に変わります.確かに,それは完全な無秩序に近いでしょう.しかし,ゲームを支配する原理は何か? 同じ人間が,あるいは,国家や権力集団が,このゲームの主体である限り,「支配的なゲーム」があるはずです.

誰もが安全保障を覇権国と共有する時代は,将来も,再現しないように思います.単なる国家ではなく,さまざまな分野の,国家を超えたリヴァイアサンとビヒモスが争うわけです.ただし,それが国家による戦争を必要としない,市場による社会的危機も頻発しない形で,体制の選択や,革新を普及させる,賢明な合意を基礎にする,と空想する自由はまだあります.

昨夜の衛生映画劇場は,チャップリンの『モダン・タイムズ』でした.製鉄工場,造船所,百貨店の警備員,ウェイター,喜劇歌手,そして囚人.何度も失業しながら,孤児の少女に迎えられ,「よし,自分たちの家を建てよう!」と励ましあって腕を組み,歩み去るシーンで終わります.

(注) 7月末から820日まで,大学のサーバーが閉じられます.

「今週のReview」も夏休みにします.あしからず.

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