*****************************

IPEの種 3/28/2005 アルゼンチン

・・・カメラは出すな.タクシーの窓は開けるな.ドアにはロックしろ.流しのタクシーには乗るな.

1914年以前のグローバリゼーションにおいて,アルゼンチンは国際金本位制の優等生であり,イギリスからの投資によって鉄道などのインフラを建設し,世界で5番目に高い所得水準を実現した国であった,と言われます.それが今では,1990年代の「新自由主義」政策が失敗し,国民の40%が貧困線以下の暮らしを強いられている,と.

・・・賑わいを取り戻したフロリダ通りには多くの芸人が居ました.二人でギターを弾いていた男性から,彼らのCDを15ペソで買いました.経済危機で多くの音楽家たちが失業した,と聞きます.

ブエノス・アイレスでインタビューしながら,次第に繰り返すようになった質問があります.

@     なぜ「兌換法」を早期に廃止しなかったのか?

A     そもそも「兌換法」は必要だったのか?

B     「兌換法」に反対する者はいなかったのか?

C     2001年に「兌換法」から離脱する他の方法はなかったのか?

D     危機について,誰が責められるべきか?

E     切下げとデフォルトによって,誰が利益を得たのか? 誰が損失を被ったのか?

F     その後,なぜハイパー・インフレーションを回避できたのか?

G     なぜ急速に回復したのか?

H     経済はこのまま安定化し,持続的な成長に向かうのか?

I     再び,債務とインフレ,切り下げとデフォルトの危機を繰り返すのか?

J     次の危機を回避するために,アルゼンチンが学ぶべき教訓とは何か?

K     主要諸国(アメリカ)や国際機関(IMF)に何ができたか? 今後,何をするべきか?

・・・以前は多くの中産階級がいて,アメリカやヨーロッパへも海外旅行を楽しんだようです.しかし今では,下落した物価が多くの外国人観光客を集めています.

T

何の危機か? それは「兌換法」の危機でした.1991年に経済大臣のカバーロが導入した「兌換法」( “Convertibility Law” あるいは “Convertibility Regime” と呼ぶ人もいました)こそが,2001年末のアルゼンチン危機の全過程を,直接に,条件付けています.アルゼンチン・ペソとアメリカ・ドルとが1対1で交換されたのです.この法律によって,ペソとドルは同じものになりました.しかし,もちろん,アルゼンチンがアメリカに経済的(そして政治的)に統合されたわけではありません.

アルゼンチンの産業構造はアメリカと異なり,貿易品目や貿易相手国も異なり,インフレ率も景気循環も異なっていました.言うまでもなく,両国は最適通貨圏を形成しません.そして,アルゼンチン政府は,特に州政府は,勝手に赤字を増やして支出し続けたのです.資本が流入する限りは.

・・・赤信号で交差点に並ぶ自動車の前に,少年は駆け出して来て笑顔でお辞儀します.彼の見せる芸はボールのお手玉でした.高く投げ上げたり,肘や肩で飛ばしたりしながら,いくつかのボールを回して,一瞬に終わります.そして,運転手たちの手が小銭を差し出してくれるよう,真剣な,そして不安なまなざしを走らせます.間もなく,信号が変わるまで.

「兌換法」は,カレンシー・ボードに近い仕組みで政策を縛りました.すなわち,かつて植民地が通貨の発行を輸出によって得た外貨の増減に応じて調整したように,ドルの外貨準備がなければ通貨を供給しなかったわけです.また「兌換法」の下では,景気の良いときにはバブルが放置され,景気が悪くなると切下げや財政赤字による刺激策が取れない,という意味で,ショックや不均衡が増幅される性格があると分かっていました.

当時のIMF主任エコノミストであったM.ムッサは,だからアルゼンチン政府は,何よりも生産性の上昇を重視し,経済の弾力性を高め,特に,好景気の時期に巨額の財政黒字を準備しておくべきだった,とその簡潔な報告で指摘しています.(Michael Mussa, Argentina and the Fund: From Triumph to Tragedy, IIE, 2002.)

・・・教会には子供を連れた多くの物乞いがいました.観光地には花売り.そして,多くの警察官.

確かに,とんでもないハイパー・インフレーションと高金利,為替レートの暴騰や急落,資本の流出入に翻弄される経済状態と比べれば,たとえその水準や変動がアメリカ経済の状態によって決定されるものであっても,ドルの為替レートや金利水準に自国通貨を縛ることは大きな改善でした.「兌換法」は,インフレ抑制策(そして外国からの借入れや投資の奨励)として,圧倒的な支持を得たのです.

・・・当時は誰もが「兌換法」を支持していた.「兌換法」がなくなることなど,考えられなかった.そんなことが起きれば,全てはおしまいだった.・・・その廃止を唱えるなんて,無意味だ,と.

1995年にメキシコ・ペソ危機の波及を回避して,まさに得意の絶頂であった時期に,既に危機は始まっていたようです.1997年のアジア通貨危機がロシアに及んで,LTCM危機に代表されるような国際金融市場のパニックが投資家たちの心理と資本の流れを逆転させ,金利が上昇しました.ついにブラジルも切下げを強いられ,アルゼンチンの競争力は決定的に損なわれて,不況が深刻になりました.

・・・同じビルの横に立って,盲人ステッキで支えた手の平に小銭が載るのを待つ,決して動かない夫人が居たのを覚えています.

政府も,銀行も,企業も,ドル建の債務を,しかも巨額の債務を負っていたことが,危機から抜け出す道を閉ざしました.もし「兌換法」が廃止され,ペソを切り下げれば,ペソの収入に頼ってドル建債務を返済する彼らの実質負担は大きく増大します.すなわち,デフォルト(債務不履行)に陥り,破産するしかない,と分かっていたのです.

政府は最後まで「兌換法」を維持する,と主張し続けました.政府がデフォルトを回避するには,新規の債券発行ができない以上,不況で税収が落ち込むにもかかわらず,支出(公務員の給与や雇用)を削って財政黒字を捻出し,既存債務に支払い続けるしかなかったのです.それは不況を悪化させました.それが維持不可能だということは,誰にも明らかでした.

・・・鉄道の駅周辺にはスラムがありました.空港に向かう高速道路からも,崩れた外壁ばかりが密集するスラムが見えました.

それでもカバーロは「兌換法」を延命し,デフォルトを先延ばしにして,最終的な危機を拡大したわけです.ペソの固定する対象にドルだけでなくユーロも組み入れました.IMFの融資を危機前の予防的措置として追加しました.課税と補助金を駆使して,為替レートを輸出向けに限って安くしました.銀行が保有する大量の債券を長期のローンに転換しました.財政均衡を守るように法律で規定しました.

その過程で銀行は,アルゼンチン政府の発行する債券や政府への融資に頼る結果となり,もはや政府と一緒に斃れるしかない,と思われました.そしてついに,「兌換法」の維持や銀行そのものに不安を感じた預金者たちが,一斉に,預金を引き出し始めたのです.預金の流出とドル準備の減少を止めるため,カバーロは預金封鎖を断行し,それが民衆の激しい反発に遭います.

街頭デモがますます激しくなり,もはや打開策も尽きたように思われたとき,IMFは交渉を打ち切り,デ・ラ・ルーア大統領とカバーロ経済大臣は辞任しました.「兌換法」がついに破棄されたのです.2001年のクリスマス.国会の玄関に放火され,大統領が何人も代わりました.切下げとデフォルトの後,ペソの価値はさらに急落し,金利が急騰します.2002年のGDPは11%も減少し,失業率は公式にも25%まで達したのです.

U

なぜ国際社会は,これほど明確に予見できた危機を放置したのか? それは回避できたはずの危機でした.インフレ抑制策としての固定レート制,もしくは「兌換法」が求める,それに見合った離脱のための政策やショックへの準備を,アルゼンチン政府が怠ったのです.

もしアルゼンチン政府がそれを行えないなら,IMFやアメリカ政府が強く要請するか,もしくは「兌換法」を廃止するように強く求めるべきであった,と言えるでしょう.その結果を知った,今であれば.しかし,当時,そのような提言は受け入れられませんでした.他国の為替レートや金融政策について,まして財政赤字について,強制的な提言を行える制度はありません.たとえ,それが必要であるとしても.

アルゼンチンに限らず,通貨危機において,その破壊力を増している条件に「ドル化」があると思います.もしアルゼンチンで,あれほどドル化が進んでいなければ,危機は起きなかったでしょう.実際,「兌換法」はドル化を抑えるために導入された,という見方もあったようです.そして,「兌換法」を救済するために,完全にドル化することでリスク・プレミアムを下げる,という刺激策が真剣に検討されました.

ドル化が進むのは,もちろん,自国の通貨や銀行,金融市場に問題があるからです.通貨の価値がしばしば急激に失われ,銀行システムが何度も破綻したような国では,人々は安心してその通貨を利用できません.しかし,金融市場が発達すればするほど,そして金融取引が国境を超えるに連れて,金融資産をめぐる競争が起きます.おそらく世界で最も発達した金融技術と,巨大な金融市場を持つアメリカは,ドル建債務・資産を売買する点で圧倒的に有利でした.

裕福な資産家たちが早くから海外にドル資産を蓄積したのは,インフレだけでなく,国内の政情不安や政府に課税されることを嫌ったからでしょう.私は「兌換法」が,資産家だけが行ってきた資本逃避やドル化を庶民にも開放したのではないか,と思いました.

政府が最後に選んだのは,「ドル化」ではなく,「ペソ化」でした.アルゼンチンはアメリカではない,ということを認めるしかないからです.あるいは,アルゼンチンの通貨は金融市場で調整される単なる指標ではなく,現実の経済活動・雇用や資源配分・所得分配,生活水準を決めるものだ,ということを無視できなくなったわけです.

1990年代前半の繁栄とは何だったのか? 「新自由主義」として,あるいは「ワシントン・コンセンサス」として批判される1970年代や90年代の政策の中身を,私はまだ調べていません.確かに,保護主義と輸入代替に頼った戦後の工業化政策が,石油ショックや累積債務問題によって反省を迫られた,と学生たちに説明してきました.しかし,こうして危機に至ったことをもって,貿易自由化や民営化,外国資本の流入を,それこそが諸悪の根源であった,と説くことは間違っていると思います.

国際資本市場によってエンロンが輸出された,とP.ブルースティンは書いています.アルゼンチンがいずれ破綻することは,十分な経験と明晰な判断力を備えたプロの投資家であれば,早くから分かっていたことなのです.しかし,彼らはそれを公言しませんでした.なぜなら,自分のボーナスや地位を失いたくなかったら,企業の利益を損なうようなことはできないから,と.(Paul Blustein, And the Money Kept Rolling In (and Out): Wall Street, the IMF, and the Bankruptcy of Argentina, PublicAffairs, 2005.)

通貨危機のたびに,IMFは批判され,モラル・ハザード論がはびこりました.あるいは,為替レートに関しては「コーナー・ソリューションズ」やトリレンマ論,二極化論,が主張されたのです.私はこうした形式的な合理主義を信用しませんでした.

1995年か96年に「兌換法」から離脱すべきだった,という意見があります.2001年の時点でも,もしヘアー・カット(債務削減)と経済改革が断行されていたなら,危機の結末は回避できただろう,と言われます.そして,デフォルトになってからも,IMFのクルーガー副専務理事は「国際破産法廷」を提案しました.すべては実現することなく,危機によって弱者が多大な犠牲を強いられました.責任ある地位を占めていた者たちが政治的決断を逃げたのです.

ペロニズムやポピュリズムと呼ばれるラテン・アメリカの政治運動は,しばしば社会的な弱者や貧しい労働者の救済を政府に求めて,街頭の直接行動に訴え,政治権力を握ります.しかし,その政策がどれほど支持者の利益を約束したものであっても,財源は限られており,それゆえ財政赤字に繋がります.中央銀行が政府の債務を購入し続ければインフレや経常赤字になります.輸出産業に課税すれば競争力を損ない,切下げを繰り返します.あるいは,さまざまな方法で外国から借金して輸入する内は一時的に問題を回避できますが,資本流入が止まればデフォルトになるでしょう.結局,貧困や不平等はさらに悪化したのです.

・・・IMF事務所を探していると,抗議活動をするグループが近くのビルの玄関を取り囲んで歓声を上げていました.それはIMFへの抗議ではなく,最近合併した航空会社に雇用の保障を求める運動であったようです.

危機後の経済は,債務の支払を免れましたが,輸入は途絶え,たとえ輸出が伸びても,国内の資産がペソ化された人々の消費は冷え込みました.銀行システムが機能不全に陥った一方,企業は政治的な駆け引きに成功して(?)債務を大幅に免れたようです.その政府も,弱者への救済策を乱発してハイパー・インフレになだれ込む,という不吉な予想を良い意味で裏切りました.緊縮的なマクロ政策を維持したことが,その後の為替レートや物価・金利の「正常化 (“normalization”)」によって示されています.

・・・中央銀行の正常化を目指す政策は巧みであった,と言われます.ペソの価値がどこまでも下落する,という不安が続く中で,為替市場に介入するだけでなく,100%の金利を付した預託証券を発行し,市中のペソを吸収したのです.

アルゼンチン経済は,あらゆる分野の輸入代替,海外に逃避していた資本の還流と不動産投資,建設コストの低下による建設ラッシュ,食糧・農産物の輸出増,外国人観光客の増加,などで急速に回復してきました.まさに今,債務組替えに「成功」した政府は,自分たちの強硬姿勢が正しかったと自慢しているでしょうが,批判的な見方や慎重な姿勢が残るのは当然です.

・・・議員会館へ向かうとき,公共料金の値上げに反対する大規模なピケ・テロが,ラッパや太鼓を鳴らして近づいてきました.このままでは議事堂や議員会館が閉鎖されるかもしれない,と考えて,私たちは予定より早く防護の鉄柵をくぐりました.

危機後の社会において,政治的な支配を強めたのは左派のペロニズムです.景気回復を支えた生産設備の余力は尽き,新しい民間投資は左派のイデオロギーを警戒しています.おびただしい貧困や不平等を解消する成長や再分配を安定的に実現できる国民的政府は,まだ決して確立されていないのです.インフレが顕著になれば,アルゼンチン社会が危機から何を学んだか,あるいは何も学ばなかったか,分かるはずです.

V

いくつか興味深い話を聞きました.(以下は,記憶に残っている極一部です.)

Jose Luis Maia (Ministerio de Economia y Production経済省マクロ経済計画局長): 要するにIMFやムッサは間違っている.当時は内戦の危機にあった.彼らの分析は単純すぎるし,政治的な現実を無視している.債務削減は必要だ.成長が回復できなければ,いかなる債務も返済できないのだから.

Juan Luis Bour (FIEL:ラテン・アメリカ経済研究所長): 預金封鎖は激しいデフレ効果をともなった.なぜなら,アルゼンチンでは多くの取引が課税を逃れるためにドル化され,現金決済されていたから.政治的な介入ではなく,法によって市場が機能しなければならない.民間投資に好ましい環境がなければ,長期の成長は望めない.

John R. Dodsworth (IMF事務所長): IMFは,債権者にも債務者にも加担していない.交渉に関しては中立だ.ムッサの批判は分かっている.しかし,たとえ交渉が十分な政策変更を期待できなくても,融資を拒むことは直ちに危機を意味しただろう(それはできない).危機を回避できるかどうかにおいては,政治と制度が非常に重要である.

Andrew Powell (Universidad Torcuato Di Tella 元アルゼンチン中央銀行主任エコノミスト): ドル化の論争には自分も加わった.デ・ラ・ルーア政権の弱さが決定的な行動を取れなかった最大の理由だ.アイケングリーンの債権者協会に関する集団行動条項の追加は,マージナルな改善にしかならない.今回の債務削減は成功だった.政府だけでなく,IMFにとっても.もし可能なら,国際破産法廷も有益だろう.

Enrique Peruzzotti (Universidad Torcuato Di Tella 教授): ピケ・テロ・グループと違って,街頭行動に向かった民衆は既存の政治家すべてを拒否していた.民衆の抗議活動は,その後の政治論争や政党再編,新しい政治指導者の誕生に結び付くものではなかった.ペロン党が単独の支配を確立したことは皮肉だ.今のように景気がよければ,抗議は消えてしまう.

Adriana Arbelbeide (Banco Frances スペイン系外資銀行): 銀行は融資や投資については考えているし,互いに相談もするが,マクロ政策のあり方を要求するようなことはない.外資系銀行も自己資本を補ってきたし,長期的な展望を持ってアルゼンチンに投資している.危機だからと言って,すぐに撤退するようなことは無い.

・・・目抜き通りの角にありながら,シティ・バンクは完全に防護の鉄壁で閉ざされていました.

Ruben Cortina (CGT:労働組合・国際部長):インフレ抑制策としての「兌換法」を支持したのであって,その後の失業や支出削減策を支持したつもりはない.「兌換法」はボックス政策であった.それを継承する政策が必要だった.もっと生産性を高めて雇用を増やすように,労働者の訓練や貧困解消に政府は取り組むべきだ.

Carlos Patricia Baex Silva (AARA:預金者協会・弁護士): 住民が自然発生的に集まって銀行に抗議した.インターネットで呼びかけて参加者を増やした.しかし,労働者の抗議活動や,返済を拒否された海外の債権者との連携はあまり進んでいない.

Ezeguiel de Freijo (SRA:農牧業組合・エコノミスト): 農牧業は,「兌換法」による実質的なペソの増価によっても打撃を受けていなかった.なぜなら輸出価格も,投入物である肥料や機械などもドル建であり,労働者の賃金は重要でない.また,切下げによっても利益を得ていない.輸出税によって政府に奪われた.自分たちは経営者の債務を代わりに支払ったようなものだ.

M. Cristina Ehbrecht (ADEBA:地場銀行協会): 危機後の景気回復においては,外銀よりも地場銀行の方が情報を詳しく入手でき,有利であった.為替レートやマクロ政策を要望することは無い.融資の規制緩和を求めている.ドル化に後退することは無いだろう.今では法律が,外銀であるからといって預金を本社が保証しているわけではない,と明示することを義務付けている.

Leila Nazer (UIA:経営者団体・エコノミスト): UIAの会長は,2001年10月,「兌換法」の弾力化を明確に求めた.その後,大幅な切下げによる輸入代替であらゆる産業が潤った.確かに,債務の負担が軽減されたことも大きい.インフレ的な拡大や切下げに頼るつもりは無い.競争力を維持する為替レートをどのように維持するか,地域協力や国内マクロ政策に関する要望は何も示していない.しかし,農牧業者に輸出税を課す政策は正しい.

Claudio Lozano (CTA:左派労働組合・国会議員): これは戦後三度目の「金融的蓄積」であった.そのたびに大量の資本が流入し,投機的な利益をあげて,不況になれば資本逃避が起きた.大量失業や貧困が示すように,その社会的コストは甚大であった.IMFの融資は協定に違反している.対外債務はすべて返済できる.海外に逃避した資産を取り戻すべきだ.資本逃避は規制する必要がある.あれは,ドゥアルデとわれわれで行ったクーデタのようなものだった.

Marcela Cristini (FIEL主任研究員): FIELはインフレ抑制策として固定レートの採用を提唱し,「兌換法」の導入を支持した.1995年には「兌換法」からの離脱をも提唱した.この国には多くの資源があり,オーストラリアやカナダと同じ潜在能力がある.しかし期待は繰り返し裏切られた.それを実現できない根本的な理由は,政治が分散していることだ.政府は団体の利益に密着しており,中央銀行は独立していない.近代的な政府や制度を確立しなければならない.

宮一弘(東京三菱銀行支店長): かつてと違って,銀行融資は国際金融市場の主要な形態ではなくなった.シンジケート・ローンを通じて幹事行が融資条件を交渉できる場合と違って,今では危機に対する異なった処理は検討できない.90年代の投資は実際に生産性を改善した.銀行は,当時の儲けをその後の危機で全て失った.アルゼンチンの経験を経て,投資家も債務国政府も,より慎重な姿勢に変わるだろう.しかし債務国政府への政策指導や,債権者への集団的な情報収集,対応策の検討は,成果を上げていない.

そして何より,JETROの三浦さんに現地の情報を教えてもらって,肉料理とアルゼンチン・タンゴも満喫できたことが楽しかったです.民族的なポンチョや帽子をかぶった男たちが,笛や打楽器で奏でた美しいフォルクローレに感動しました.

・・・再び訪れたアルゼンチンでは,通りで物乞いや芸を披露していた多くの子供たちが学校へ行き,大人たちには雇用の機会が豊富に存在している.それが政府や中央銀行による経済運営の目標となっていた.政策を競争する複数政党が確立され,経営者や農牧業者,労働組合が安定した経済運営と国民全体の長期的利益について話し合っている.・・・そんな未来も可能でしょう.

アルゼンチン国民が本当に貧困解消を目指すなら,Bour氏を経済大臣に,Cristini氏を中央銀行総裁にしてはどうでしょうか? 「市場による改革を支持するが,市場で全て上手く行くとは思わない.貧困救済策も重要だ.ただし,それが政治家に利用されてはいけない」と,Cristini氏は語りました.

*****************************