◆ LAマラソン2017・・・トランピア探訪記
LAマラソンの朝,4時15分に呼んでもらったタクシーは来ず,私と息子は慌ててメトロの駅に向かいました.しかし,駅では早速,ゼッケンと荷物のビニールパックを手にする,同じようにマラソンの格好をしたランナーたちがいたのです.
まだ真っ暗でしたが、彼らはなかなか元気です。半分ほどしか聞き取れませんが、早速マラソンの話を楽しみ、トレーニングの予定など、情報交換しています。
「目標タイムは?」とPaulaは私に訊きました。「5時間」と,私が答えると、「え! あなたトレーニングしてる?」と言われました。・・・まったく。面目ないです。後で彼女のタイムを訊きました。3時間47分! ・・・まいったなあ。
ユニオンステーションに着くと、さらに何人ものランナーが歩いており、すぐ近くにシャトルバスが数台待機していました。大会のホームページでは、確か、事前にネットで予約して、受付会場でもらった黄色のリストバンドをつけておく、ということでしたが.大丈夫でした。胸に付けたゼッケンを示して、どんどん乗っています。
ドジャースタジアムに着くと、まだ暗い敷地に舞台があって、ロックバンドが演奏していました。カントリーやロックの名曲みたいです。入り口では、もちろん、セキュリティが荷物をチェックします。早朝の寒さもあって、防寒のために着ていたポンチョ代わりのごみ袋を捨て、走った後に着替える服を詰めた透明のビニールバッグを、ゼッケン番号に従って分類されたトラックに預ければ,ゴールまで運んでくれます.私と息子は,荷台の前に立つ女性にバッグを手渡しました。
さあ,準備完了です。
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なぜLAマラソンに参加したのか?
春休みに、読みたい本は山積みでしたが、1つでも読もうとしたら休みをすべて使い果たしても読み終わらないように思いました。何か論文を書くべきですが、その材料は乱雑なまま机の周りに集積し,事務的な書類と一緒に埋没しています。
それは,学ぶことや,教えることへの魂の問題です.
どこか,ハーフマラソンにでも参加して,気合を入れるか,と思いました.あるいは,雪の少ない地域で,山歩きはできないだろうか,と.
RUNNETのニュースが届いたのは,そんなときです.エントリー可能な大会一覧.・・・ロサンゼルス・フルマラソンがありました.しかも,開催日まで1か月を切っています.本当かな,と信じられない気持ちで,ホームページを観ました.
日本語ページから進むと,確かにエントリーできそうです.受付期間の数日で締め切りになるとか,抽選になる大会も多いのに,これはラッキーだな,と思い,最後のクレジット支払いの番号入力まで来てしまいました.ここで中断して,次にアクセスしたときにはエントリーできないかもしれません.手帳で予定を観て,・・・決めました.
大会本部のホテルリストを観ました.130ドルから,250ドル以上のホテルも ・・・高いよ.
そこで,今,うわさに聞くシェアエコノミーの助けを借りました.AirBnBでLAを探せば,・・・・ありました.100ドル以下で泊まれます.スタート地点のドジャースタジアムに近い.メトロの駅にも歩いて行ける.スーパーマーケットがある.・・・いいな.Google Viewで周辺の通りを確認したのはもちろんです.
インターネットで,こうしたことができます.大変な時代になりました.なるほど,ホテルも,旅行代理店も,トラベル・ガイドブックの出版社も,多くの雇用を失うでしょう.
さらに,航空券が必要です.日も迫っているし,ネットで検索して,後から気が付いたのは,日付変更線がある,ということです.・・・うっかりしました.マラソンの後,すぐに帰らないと卒業式に間に合いません.
なかなかむつかしい条件なので,代理店に相談しました.彼が提示したチケットは,思ったより少し高く,しかも息子とは別行動になります.・・・それはどうも,と迷いました.
過去に使ったことがあるので,KALのサイトで探しました.仁川と金浦の空港間移動をしなければなりませんが,条件に合ったチケットを見つけました.代理店には悪いですが,そのままネットで購入しました.e-チケットの通知や予約番号も取得し,座席の指定もすべて完了です.
そして,ビザ申請です.ESTA(電子渡航認証システム)が導入されて,私は初めての渡米でした.トランプのアメリカへ入国することに,少し恐怖を感じます.こうして集めた個人データの集積から,テロリストなど,犯罪者を追跡しているのでしょう.しかし,・・・・突然,空港やホテルで,拘束されることもあるのではないか?
国境を超えるとは,そういうことなのでしょう.国家は治安を維持し,経済状態を健全に保つ責任があります.観光やビジネス,移民や貿易取引も,戦争から社会福祉まで,国家の関わる介入・監視対象です.・・・健全で,有能な国家を,私たちは求めます.
パスポート・ナンバーなど,さまざまな情報を入力し,クレジットカードで1人につき14ドルを支払う,という申請を終えて,アメリカ政府の承認を待つことになります.
2日前になって,荷物を確認するために詰めていました.リュック1つだけの弾丸マラソン旅行です.地球の歩き方のサイトで,持ち物チェックリストを参考に,息子に示すリストを作りました.しかし,大事なものを忘れていました.旅行保険です.
ネットで検索し,2人分,家族として加入しました.
最後の最後は,ドル紙幣.空港で2万円だけ両替です.160ドル余り,と円安を実感しました.
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さあ、LAXだ、と思いました。火星旅行ほどではありません.ESTAのおかげで,コンピューター端末に向かっての確認作業でした.
入国審査の担当者は親しみを感じる男性職員で,初めての渡米ではない,目的は? という問いに,LAマラソンです,と答えたのですが,通じなかったです.これは発音の問題なのかな,と先々を心配しました.
Fly Away Busの停車場を見つけて,バスを待っていると,シャトルの運転手が寄って来て人々を集め始めました.これは違うよ,と思いましたが,待つより,早く行けるというので,次々に乗っています.無認可のタクシーではないようです.息子も乗ってしまい,私は値段を確認して,乗ることにしました.
ブイブイ飛ばして,確かに少し早く着いたかもしれません.多くの車線がある立体交差を潜り抜けながら,アメリカの高速道路が老朽化している,という話を私は思い出しました.どこで支払うのか? と,きょろきょろしていると,逃げると思ったのか,運転手にリュックを掴まれ,2人で20ドルを支払いました.
第1日の目標は,大会本部で参加を確認し,ゼッケンをもらうことです.Sports Expoの会場にもなっているConvention Centerを探しました.ユニオンステーションからメトロで行けるはずです.
私の誤算は,メトロの駅に路線図や説明のパンフレットがなかったことです.事前にスマホにダウンロードしておけばよかったです.Picoという駅だとメモしたので,Gold Lineの全く違うPico / Alisoの駅を目指し,周りを探しましたが,そんな建物はありません.結局,間違いだと分かりました.
歩くうちに公園がありました.最初に尋ねた男性は,英語に全く答えることなく,次の女性も,スマホで親切に現在地を示してくれましたが,英語は片言でした.このあたりはヒスパニックの住民が多い地域なのだ,と実感しました.
生徒たちが集まって歩く姿を見つけました.その向こうに,学校がありました.校舎は高い壁と頑丈な柵に囲まれています.先生と思える女性に尋ねると,彼女は笑顔で大きくうなずいてくれました.コンベンションセンターなら,これは違う駅よ,と.
それからユニオンステーションに戻り,また違うBlue LineのPico Stationに向かいました.おかげで少し,Metroの乗り方が分かったかも知れません.
あらかじめeメールで届いたBib Numberとパスポートを示すと,ゼッケンと大会パンフレットがもらえました.ウェアにとめる安全ピンもしっかりくれます.参加賞のTシャツはサイズに応じてもらえます.ビール券は要らない.これで完璧です.
やれやれ.息子と一緒に,近くの店でSmash Burgerを食べました.
時刻を観て,Santa Monicaはあきらめました.リトル東京で日系のスーパーマーケットを訪ね,食糧の買い出しです.しっかり食べないと,42キロは走れません.
チャイナタウンはちっとも中国ではなく,リトル東京もちっとも日本ではない,ということがわかります.それはアメリカの都市のダウンタウン.社会を支える中産階級はすでに去って,アメリカ風のビジネスと移民労働者たちが暮らしています.アジア系も,アフリカ系も,ヒスパニックもいますが,建物に閉じ込められたような自動車と広い道路だけの景観を,生活するには寂しい場所だと思いました.
あまり大した買い物もせず,柔らかい食パンとスライスチーズ,などを持って,宿泊を申し込んだお宅へ向かいました.メトロです.マップがないので,何度も反対方向に乗りましたが,バスと違って,間違っても安心です.本数も多い.
Jimさんのお宅は緩やかに丘を登る道にありました.さらに道路から20段ほどステップを登ります.なるほど,これかな,という部屋が途中にあり,住宅はその上にあります.私が玄関に立つや,ドタバタ,がさがさ,シャー,といったような小さな騒ぎが起きて,ドアが少し開きました.
カジュアルな格好で.長身のJimが現れ,その下から,わらわらと子供たちが3人も現れて,後ろでは犬が走り回っています.それらを部屋に押し込んで,Jimは親しく挨拶してくれました.これはいい,と私は嬉しくなりました.(なお,子どもたちの2人は隣人だそうですが.)
下の部屋の鍵を開けて,備品を説明してくれました.ケトルやミニ冷蔵庫はもちろん,洗濯機や乾燥機まであります.バスルームは広く,シャワーですが,しっかりお湯が出ました.申し分ありません.
その後,私は駅の反対側に降りて,歩道を少し歩き,大きなスーパーマーケットにも行きました.日が暮れる前に,どんな店か見ておきたかったのです.バターとハムを買いました.すごく安い.
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2日目は,LA観光です.あるいは,トランプランド.・・・トランピア探訪記?
朝はケトルでお湯を沸かし、持ってきたティーバッグでお茶を淹れて、食パンも少し食べました.バターはとってもおいしかったです.このあたりの地理にも,治安にも不案内ですから,朝のランニングというわけにはいきません.
外が明るくなり始めたので,メトロの駅まで歩いて、Santa Monicaへ行くことにしました.土曜日の朝にはFarmer’s Marketがある、とネットの記事で知っていたからです.地元の農家が集まり,食べる物も売っているそうです.メトロを1度乗り換えて,1時間以上かかりますが,快適なLA見物でした.
サンタモニカの駅はピア(桟橋)の正面,コロラドアヴェニューにあります.
その朝,空はあいにくの薄曇りでした。まだ閉まっていましたが、通りには多くのきれいな商店やレストラン、ホテルが並びます。テレビで紹介されるアメリカの豊かな面を眺めて,海岸まで歩きました.観光名所のピアですから,朝でも多くの人がいます。なるほど,明日のマラソンに向けて,ゆっくりジョギングする人たちがいました.
ピアの基礎部分には波がしぶきを上げて散り,杭のあちこちに海鳥がいました.それはカリフォルニアの当たり前の風景ですが,太平洋の向こうに,日本や中国があります.ここにはトランピアの片鱗もありません.少なくとも,見た目には。・・・北朝鮮と対峙して、核ミサイルが飛来するのを恐れる人は、まだ、いないのです。
ピアの先端まで歩いて、海釣りをする人を観たり、釣った魚を海に投げる様子を観たりしながら、写真を何枚か撮りました。巻いたミニマットを持って、ランニング姿の男女が集まって来るのは何かな、と思っていると、どうやらピアでヨガの講習会があるようです。ジョギング+ヨガ、というのが人気なのでしょう。
ファーマーズマーケットは、気さくな人たちが屋台を構え、カラフルな野菜やフルーツ、花などを売っていました。私ははちみつを売る店を見つけ、息子はパン屋さんでブリオッシュを買いました。しっかりしたブリオッシュの皮がおいしい、と、歩きながら一口食べて、2人で満足しました。息子が行きたがったSuper Dryの店を見つけましたが、まだ開店まで少し時間があります。私たちはPono Burgerのお店を探し、たっぷりのレモネードを飲みながら大きなハンバーガーを食べました。
Hollywoodにも行きました。メトロを乗り継いで、と思ったら、途中でメトロが停まり、全員にバスへ乗り換えるよう案内がありました。バスにも乗って、着いたハリウッドでは、映画スターたちの名前と星印を観ていると、・・・突然、バットマンか、スパイダーマンか、よくわからない真っ赤な扮装の男女に息子が巻き込まれ、驚きながらも、それはダイナミックなサービス産業の一部でした。面白い写真を撮っていいから、チップをはずんでよ、というビジネスです。
なるほど、周りを観ると、ほかにも、ちっとも似ていないマリリン・モンローや、「自由の女神」も歩いていました。トランプに先立つ「オルターナティブ・ファクト」かもしれません。あるいは “snake oil” ・・・日本なら、「ガマの油」売り?
メトロの駅を出たあたりで、キリスト教関係の布教パンフレットをもらいました。交差点には、20人ほど人が集まって、信仰を誇示する?プラカードを掲げ、スローガンを叫んでいます。ここは白人の町。トランプを支持する貧しい白人少数派が自己主張できる、親しい空間なのかもしれません。
ダウンタウンの中心部、The Last Bookstoreのあたりは、そうではないな、と思いました。有名な古本屋がある、と知ったら、行ってみないわけにいきません。メトロのPershing Squareから少し歩くだけで、前の歩道には汚れた荷物を置いてたたずむ人もいます。この書店は名物となりましたが、その周辺地域は、南や東に行くほど、「治安」の問題を抱える地域、Skid Rowなのです。
この「天使の町」の歴史や人文地理学、政治社会学は、広く、深く、研究されていると思います。トラック運転手の労働組合から研究者に転じたMike Davisは『水晶の都市』という本を書いています。帰国後、The Economistの記事を読みました。都市の過剰開発を嫌う住民たちの運動が、ゾーニング規制や厳しい高さ規制をもたらし、結果的に、この町の人口密度を抑えたまま、広域的な開発とますます自動車に頼る社会を築いたのです。郊外都市のような近隣コミュニティーを守るため、と称して政治家たちが実際に求めていることは、「出ていけ “Keep out”」である、と紹介します。
たっぷり歩いて足が疲れ、明日のマラソンが心配になりました。しかし、まあいいや。息子と駆け回って、天使の町、ロサンゼルスを楽しみました。
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日系スーパーと,サンタモニカのブランド店と,大量に安価な商品をさばくスーパーマーケットは、まったく違う価格帯、顧客の所得水準を示している、と思いました。
なぜこんなに違うのか? と息子は尋ねました。私の推測は、一方は高賃金で、他方は低賃金で働くから、ということです。高賃金の職場は、低賃金の職場と混じり合わず、そこで生活する人々は高価格のブランド店やネットショッピングを楽しみます。低賃金の職場は、移民や安価な輸入品と厳しい競争にさらされて、そこで生活する人々は安価な商品をスーパーマーケットでまとめ買いします。
かつて、イギリスの移民たちと「人種暴動」の問題を調べていたとき、地方政府の報告書で、住民たちの生活空間が分割された状態を、人々が「立ち入り禁止地区 “No-Go-Zone” 」と呼ぶことに驚きました。あるいは、かつてW.A.ルイスは「人種差別と経済発展」を論じましたし、世界銀行の報告書は、内戦や組織犯罪と成長との密接な関係を取り上げました。
アメリカ国内には、こうした問題が歴史的に存在しており、グローバリゼーションによって、社会的・政治的に再編され、再活性化しているのではないか、と思いました。
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ラジオのパーソナリティー(番組進行役)のように、どこかからマラソンの朝を祝い、ランナーたちを励ます騒がしい解説が、薄明のスタジアムを流れてきます。いつの間にかアメリカ国家の詠唱となり、帽子を取り、胸に手を当てる人たちもいました。国家が終わると歓声です。
先行して、6時30分、車椅子の選手たちがスタートし、いよいよレースは始まりました、自分たちがいつスタートしたのか、よくわかりません。6時55分の日の出に合わせてスタートした参加者の先頭は、きっとチャイナタウンに入るころ? 私たちも、ゆっくり、スタートラインを超えて集団移動していたわけです。
私の目標は5時間を切ることでしたから、最初は抑えて走るつもりでした。そして、中盤をやはり抑えたペースで維持して、30キロで余力を残すこと、そのあとゴールまで、できれば歩くことなく、走り抜けたい、と考えていました。
しかし、息子はもっとはりきって、4時間半のペースランナーを追いかけました。風船をいくつも付けた4:30のサインを立てて、彼女は走っています。それは厳しいよ、と私は注意したのですが、聴く耳持たず、です。7マイルほど一緒に走って、私は次の給水のときに相談しよう、と言いましたが、そのまま彼は走り続けました。
私にとっては、これもこたえたように思います。キロ7分のペースで予想した序盤が、キロ6分に変わったからです。10マイル(16キロ)ですでに疲れて、一層のペースダウンや、歩く時間を取るようになりました。20マイルくらいからは太ももの裏が何度か痙攣し、膝も痛くなってきて、そのたびに歩道や芝生に寄りました。ときには立ち停まって、足の筋肉を伸ばすことで、何とか歩き続けていました。
途中の景色を楽しめたのはウォルトディズニー・コンサート・ホールまででしょうか。ハリウッドもわかりましたが、LA北部の豊かな住宅地が主なコースでした。沿道の市民が、椅子やシートの上で、ランナーを観ながら楽しく話し合っています。あちこちに私設エイドがあり、バナナやオレンジ、水やスポーツ飲料を配ってくれました。
“The Simpsons” や“Snoopy”の漫画みたいに、まだ幼い少年たちが、テーブルを中央分離帯の芝生に出していました。テーブルには “Fresh Lemonade” とへたくそな文字で大きく書かれています。これはおいしそうだ、と私が立ち停まって、1杯ほしい、と手を出すと、彼らは大慌てで紙コップに入れてくれました。これが、アメリカで古典的な、子供たちの社会参加なのです。私は素敵な元気をもらい、きっと彼らも大いに盛り上がってくれたでしょう。
それとは別に、これもありがたいものですが、私が足を気にしてトボトボと歩いていると、これは大変、と婦人が寄ってきて、心配しながら励ましてくれました。 “You are my hero.” “You can
do it!” というわけです。これは、頑張ります、と感謝しつつ、アメリカ的な激励だなあ、と思いました。
次第に陽射しは強くなり、ホースで水を撒いてくれる人もいました。しかし、風は冷たく、乾燥しており、塩分やエネルギーを補給することが大切だったかもしれません。だれか目立つランナーを見つけて、ついて行こうとするのですが、足が動かなくなりました。1マイルの早さですが、25キロまでは11分台、30キロで12分50秒、35キロで15分34秒、40キロでは16分を超えています。
まあ、似たようなランナーも多くいましたから、彼や彼女とともに走り、励まされた感じです。
終盤、チアリーダーの少女たちが並んで、声援してくれる通りが続きます。それは良いのですが、余りに盛り上がっていると、もうゴールが近いのか、と錯覚してしまいました。くたくた、よろよろのおじさんにも、にこやかに水の入った紙コップを渡してくれる嬉しそうな少女たちを観るのは、アメリカ人にとっても楽しい眺めなのでしょう。
フィニッシュしたあと、完走者の大きな記念メダルをもらいます。そして、防寒シートをかけてもらい、何とか最後までたどりつけたな、と安堵しながら、水のボトルをもらい、バナナをもらいました。多くの観衆が集まっていましたが、危惧したほどセキュリティが重圧になってはいませんでした。一人で参加した人は、ちょっと寂しくなる瞬間かもしれません。しかし、マラソンは、そういうスポーツなのだ、と私は思います。
右膝は痛くて曲がらず、足や腰は固く張って、足首がギシギシときしんでいます。私は息子を探して、ピアの方に歩いて行きました。
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やっと再会できた息子は、意外に元気で、4時間半のペースランナーについていけなくなった後、5時間ランナーを観て奮起し、彼女について最後まで走り切ったそうです。記念写真も一緒に撮って、元気な奴だな、と感心しました。
マラソンを終えて、私は日系アメリカ人ミュージアムも観たかったのですが(日系人の苦難を知るのは良いことだし、行くのが簡単で、しかも、ゆっくり休憩できる)、息子はグリフィス天文台を望みました。確かに、ロサンゼルスを高台から一望してみたい、と私も賛成し、メトロからシャトルバスを乗り継いで、北の天文台へ向かいました。
LAの北部は、ちょっとヨーロッパ風の、裕福な町だと思いました。夕日を目指して登る自動車が渋滞しており、少し時間を気にしましたが、バスは少し優先されています。大富豪の邸宅や寄付として、この高台が残ったことにも、ゲッティとともに、アメリカの成功物語を感じます。
立派な施設に私たちは満足し、荷物を預けていたJimさんの家に戻って、お茶でも飲むか、と言ってくれたJimさんに、お礼を言うのにも適当な言葉が思いつかず、バタバタと夕暮れの駅からユニオンステーションへ向かいました。2泊5日(機中2泊)のアメリカ旅行は終わります。その厳しさは、マラソンというより、私のグレートレースでした。
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LAXへのFly Awayリムジンバスはうまく見つかったのですが、運転手は私たちをKALのターミナルで降ろさず、最後まで行って、仕方ないからここから歩いて戻ってくれ、と言いました。・・・え? それはひどいな。
外国での旅行は失敗だらけだ、と息子に言い訳しつつ、私たちは疲れた足を引きずって建物を延々と戻りました。カートを取って荷物を載せよう、と思ったら、ここにもクレジットカードを通す装置が付いています。なんてことだ、と怒って私は歩き続けました。
余談ですが、ソウルへ向かう機中で観た映画『マリアンヌ』に感銘を受けました.マリアンヌという女性が本当は誰なのか、それを知らなくても、2人は戦争に逆らって深く愛し合いました。娘も生まれます。戦争が結び付けた2人ですが、その死は、愛する者がいるからこそ、世界の他のすべてのものに意味がある、と思わせます。主人公が崩れ落ちる姿に、悲痛な、映画の美学を感じました。
帰国の旅には、もう1つ不安がありました。ソウルにおける空港間移動です。仁川空港から金浦空港まで、KALのリムジンバスがある、とネットで読みました。これならクレジット払いで両替も不要です。しかし、機中で気づいたことですが、到着時刻がまだ午前4時台。こんな時間に走っていますか、と尋ねたアテンダントは、ないと思う、と答えました。
外国の旅行では、深刻な失敗を避けて、滑り落ちるのをどうにか止めて、目的を達成できることが成功なんだ、と私は息子に言いました。何より、無事に生きて帰ることです。
幸い、ここでも夜間のバスがあり、空港関係者も並んでいるのを見つけました。料金は7500ウォンで、私は急いで14USドルだけ両替し、15000ウォンを支払いました。思ったより早く着いた金浦空港では、しばらくして開いた店で韓国料理も楽しみました。
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LAマラソンが直前までエントリー可能であったのは,もしかしたら,トランプの入国制限など,不穏な情勢にランナーたちが敬遠したのかもしれません.
関西国際空港からリムジンバスで京都駅に着いた私は、卒業式のために白のワイシャツを買う必要がありました。そして、日本のジェントリフィケーション(高級化・都市再開発)を体験したのです。
伊勢丹百貨店のエスカレーターを上がり始めたものの、6階の紳士服売り場は遠く、ここでは高そうだ、とやめて、京都駅の地下街に向かいました。しかし、どうも食べ物屋が多く、男性の服は売っていません。
あるお店で尋ねると、ここには女性向けの店ばかりで、1軒だけ男性の衣装を扱う店でも、若者の服しか置いていない、と言われました。つまり、「あなたは女性ではないし、もちろん、若者でもない。」というわけです。
・・・ええい、観光地の歪曲された消費ビジネスめ! と悪態をつきながら伊勢丹へ戻り、たどり着いた6階で、私は再び唖然としました。・・・ワイシャツの値段は、1万5000円もしたのです。
LAでも京都でも、“Keep Out!” と、政治が言い、市場も言います。
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