IPEの果樹園2002

今週のReview

7/22-7/27

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この猛暑!! ○★△! $Щ@↑¥ ・・・!!! に耐えられる人は少ないでしょう。

税制改正やペイ・オフ延期論、株安・ドル安などの議論を追う余裕がありません。以下では、22日(月)に広島のオープン・キャンパスで話した内容(要旨)を公開します。テーマは、「君はグローバリズムを見たか?」 です。

<序>

人は、個人ではなく、社会として、非常に大きな力を発揮し、富を生産できます。それを理解することが、経済学の基本テーマの一つです。

皆さんはグローバリゼーションやグローバリズムを見たことがありますか?

グローバリゼーションとは、事実として起きていること、社会の変化過程そのものです。たとえば、あなたの友人が外国の企業に雇用されたり、あなたの加入している保険会社がアメリカの企業の株を買ったり、あなたの会社が中国に生産基地を設けたりすることが、グローバリゼーションなのです。

では、グローバリズムとは何でしょうか? 社会科学の概念で言えば、グローバリズムとはグローバリゼーションのイデオロギーです。イデオロギーとは、現実に対する意見であり、価値や評価を含む一定の理解の仕方です。この場合、それはグローバリゼーションを肯定し、それが科学技術の進歩や歴史の宿命として避けられないものである、と主張する立場です。多くの場合、イデオロギーはその時代の支配的な思想です。それは、事実を一定の仕方で支持したり、反対したりする立場を含んでおり、政治的な「虚偽意識」とも言われます。

<T>

代表的なグローバリスト(グローバリズムの信奉者)の考え方を示すものとして、トーマス・フリードマン(1999)『レクサスとオリーブの木』(草思社)があります。フリードマンはニュー・ヨーク・タイムスのコラムニストとして世界中を旅し、グローバリゼーションに関わるさまざまな事件を理解するために、鮮烈なイメージと言葉を積み重ねています。

彼がグローバリズムというイデオロギーを信奉しているのは、次の言葉によく示されています。

「この世界では、少しでもスピードの遅い会社、コストのかかりすぎる会社は、自分が何に轢かれたのかもわからないまま、路上に屍をさらすことになる

ここは高速道路だ、と彼は宣言するのです。だから、遅い車や故障した車は、後から来る高速車に踏み潰されて当然である、と。

フリードマンに言わせれば、グローバリゼーション時代に社会を冒す重大な病気に、「マイクロチップ免疫不全症候群(MAIDS:Mエイズ)」があります。

「冷戦後の時代に、むくみ、肥満、硬化を引き起こしたシステムは、すべて、冒される危険性がある疾患。あらゆる面で効率性を追求する、より高速で、よりオープンで、より複雑な市場を創りあげたマイクロチップと、技術、金融、情報の民主化がもたらした変化に対して、予防接種を怠った国や企業がかかる。」

ケインズ主義的な介入政策が効果を失う一方で、政府は、インターネットを使う主婦や学生からなる「電脳投資家集団」に気に入られるために、世界中でよく似た政策を採り始めました。すなわち「黄金の拘束服」がグローバルなファッションになった、と彼は言います。すなわち政府部門を縮小し、インフレ抑制や均衡財政を掲げ、関税はできるだけ撤廃すること。外国からの投資を自由化し、規制緩和と民営化を進め、さらに資本自由化も早く行うこと。汚職・腐敗を追放し、競争を促進して、国民に金融の選択肢を増やすことが優先される、と。

もう一つ、彼が唱えるグローバリズムに本質的な特徴とは、「歴史はアメリカを選んだ」という感覚です。たとえば、彼の「世界の五つのガソリンスタンド理論」では、日本、アメリカ、ヨーロッパが次のように描かれています。(発展途上国と共産主義国は省略します。)

(日本):5ドル/ガロン

「制服と白い手袋。終身雇用の4人の男性がガソリンを入れ、オイルを交換し、窓を拭いてくれる。スタンドを去るあなたに、親しい笑顔で、手を振ってくれる。」

(アメリカ):1ドル/ガロン

「自分でガソリンを入れ、自分で窓を拭き、タイヤに空気を入れる。4人のホームレスが、あなたの車のホイールキャップを盗もうと狙っている。」

(西ヨーロッパ):5ドル/ガロン

「たった一人の男性が当番で居る。彼はしぶしぶガソリンを入れ、ニコリともせずにオイル交換する。それが組合協約で決められた彼の仕事だから。窓は拭かない。店員は一週間に32時間しか働かず、一日当り90分の昼食休憩をとり、その間はスタンドを閉めてしまう。彼は毎年夏に6週間の休暇をもらって南フランスで過ごす。通りの向こうでは彼の弟二人と叔父が、玉当てのゲームに興じている。三人とも、この10年間、働いたことが無い。それは失業保険の額の方が、前の仕事の給料よりも高いからだ。」

グローバリゼーションとは、誰も彼もがアメリカのガソリンスタンドに向かわざるを得ない、という現象です。それが優れているからとか、それが好まれているからではなく、それが市場に選別された結果であるから、と彼は主張します。

<U>

輸送費用や通信費用の劇的な削減やインターネット、情報の民主化、冷戦終結など、条件が変化したことを指摘する以外に、「グローバリゼーションの理論」というものはありません。

経済学の考え方には特徴があると思います。経済学はAdam Smith の『国富論』(1776年)によって誕生したと言われますが、その最も基本的な概念は「(社会的)分業」でした。彼は、この考え方を示すことで、個々の市場参加者が社会的な変化による富を享受できる仕組みを、明らかにしたのです。そして経済学は、200年以上も前から、グローバリゼーションを問題にしていたことが分かります。

「たとえば、日雇い労働者が着ている毛織物の上着は、その外観がどれほどごつごつでざらざらしたものであろうとも、大変な数にのぼる職人の協働の生産物なのである。・・・そればかりでなく、これらの職人のある者から、その国の非常な遠隔地方に住むことの多い他の職人たちへ原料を輸送するのに、どれほど多くの商人や仲立ち人が従事しなければならなかったことか! ・・・しばしば世界の果ての果てからもちきたされる薬剤を集積するために」

経済学では、私たちが直面するコストや市場競争、均衡化を議論することと、社会の構造や調整メカニズム、全体の変化について(すなわちグローバリゼーションについて)、その是非を論じることとが、有機的に結び付いています。たとえばDavid Ricardo の比較生産費による自由貿易論がその典型です。

Ricardoは、どれほど貧しく、生産性の低い国でも、また、どれほど豊かで、生産性の高い国でも、世界市場に参加して自由貿易を行えば利益を得ることができる、と主張しました。簡単な数値例を考えましょう。日本と中国が、衣服と自動車を生産しており、その生産条件を、同じ労働投入(たとえば労働者10人が1ヶ月働く)によって生産できる商品の量で示します。

日本では、1000着の衣服、もしくは、5台の自動車を生産できます。他方、中国では、500着の衣服、もしくは、1台の自動車を生産できます。どちらも日本の方がより多く生産できる(生産性が高い)ので、輸入する必要は無いように見えます。(中国は何も輸出できない?)

しかし、「比較優位」に従って、日本が自動車を5台輸出した場合、それを中国で2500着の衣服と交換できます。なぜなら、中国では1台の自動車と500着の衣服とが、同じコスト(労働投入)で生産できるからです(労働だけをコストと仮定しています)。この2500着の衣服を日本に持ち帰れば、1000着で自動車5台を手に入れることができます(輸送費や関税は無視しています)。その結果、衣服1500着が余分に手に入るわけです。中国は、衣服を輸出することで、余分の自動車を手に入れます。

なぜ、こうしたことが可能なのか? と思うでしょう。この利益はどこから来たのか? 誰かから奪ったのか? 答えは、世界的な規模で「社会的分業」を再編成し、より効率的な生産を行うことで、世界の富が増えたのだ、ということです。「比較優位」は、日本の場合、どちらも生産性の優れているニ財で、より大きく優れている自動車にあります。他方、中国では、より生産性の劣る程度が少ない衣服にあるのです。日本は衣服を輸入し、それによって労働者を自動車の増産に再配置します。他方、中国は衣服を増産します。

もしこれらを正しく理解できれば、皆さんは世界を全く違った形で理解できるでしょう。

「完全な自由貿易のもとでは、各国は自然にその資本と労働を自国にとって最も有利であるような用途に向ける。個別的利益のこの追求は、全体の普遍的利益と見事に結合される。・・・そして利益と交通という一本の共通の絆によって、文明世界の全体にわたる諸国民の普遍的社会を結び合わせる」Ricardo(1817)『経済学原理』

では、なぜ今も完全な自由貿易が実現しておらず、世界は一つの共和国にならないのでしょうか? なぜ「オリーブの木」は切り倒されずに残っているのでしょうか?

<V>

現実のグローバリゼーションは、経済学が示すほど、合理的でも調和的でもありません。グローバリゼーションは幾つかの特徴で語られます。たとえば、@アメリカ化、A情報と輸送の革命、B金融ビジネスの拡大、C冷戦終結、D中国の世界市場参入、E富と権力の集中、F環境破壊、G経済危機と民主主義の欠如、などです。

グローバリゼーションは、公平でも中立でもなく、それぞれの社会で分配や権力の問題を避けて通れません。たとえ効率性や富を目指した変化であっても、失業や移住を強いられる個々の参加者にとって、必ずしも容易に受け入れられるものではないのです。一方では、何十億円もの所得を得る企業経営者やスター選手がおり、他方では、公園のホームレスや通貨危機に苦しむ国が増えています。

「かつて地域共同体をまとめる中心的存在だった野球場は、もはや、異なる社会的地位の人々をひとつにするような共通の公共空間ではなくなった。」 フリードマン、前掲書

IMFとアメリカ財務省が、グローバリゼーションの下で通貨危機に陥った国に対して求める政策の基準を「ワシントン・コンセンサス」と呼ぶことがあります。ジョセフ・E・スティグリッツ(2002)『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店)は、グローバリゼーションの扱い方について、支配的な思想、すなわち「ワシントン・コンセンサス」が示すグローバリズムは正しくない、と批判しました。それは世界の貧困を減らすことにも、社会的安定を維持することにも、失敗したからです。

外国からの投資も、貿易の自由化も、そして特に金融の自由化を、スティグリッツは無条件に支持しません。なぜなら、そのスピードや順序は、各社会にとって望ましいものでなければならない、と考えるからです。自由貿易を否定するわけではなく、それが意味する雇用の調整に時間とコストがかかれば、貿易の利益は制限されると考えるのです。

ロナルド・ドーア(2000)『日本型資本主義と市場主義の衝突』(東洋経済新報社)は、グローバリズムに対抗する価値観を明示的に表現しようとした興味深い試みです。それを、「日本型資本主義」あるいは「福祉資本主義」と呼びます。

ドーアは、ある種の価値観に基づいて「変化の過程とその原因」を分析した、と言います。「この価値観とは、『良い社会』とは何か、を判断する前提条件から帰結したもの」であり、「マーケティゼーション(市場化)とフィナンシャリゼーション(金融化)は憂うべき現象である」という彼の信念である、と言います。

「彼ら(改革派、もしくはグローバリスト)が求めているのは貧富の差を拡大すること、無慈悲な競争を強いること、社会の連帯意識を支えている協調のパターンを破壊することである。その先に約束されるのは、生活の質の劣化である。」

経済学の本当のテーマは、「良い社会」の実現、であると思います。グローバリゼーションによって実現される社会が、単に世界市場の勝者であるからという理由で、これをすべて正当化できるとは思いません。現実の正しい理解と、社会的に望ましい基準を示すことが、常に、経済学を激しい論争に導くのです。

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ただしFT:Financial Times, NYT:New York Times, WP:Washington Post, LAT:Los Angeles Times, ST:Straits Times, IHT:International Herald Tribune, BL:Bloomberg


FT July 9 2002

Flying blind

10年前に中央銀行家たちに希望リストについて質問すれば、その上位には、インフレ期待を抑えること、金融システムをショックに対して強くすること、新興市場の伝染を抑えること、などが挙がっただろう。昨年、これらはすべて実現したように見える。しかし、中央銀行家たちは安心できない。

BISの年報は、現在のインフレ率が安定し、消費者や労働者のインフレの期待が鎮まったこと、9・11、エンロン、パレスチナなど、ショックへの市場の反応、アルゼンチンのデフォルトについても金融システムが信頼性を維持したこと、を強調する。

では、なぜ中央銀行はそんなにびくついているのか? それは、要するに、世界が彼らにとって安全な場所では無いからだ。政策担当者も投資家たちも、金融システムに深刻な被害をもたらしうるはなはだしい不確実さに直面している。以前よりもある種の問題は繊細になっており、多くの分野で政策担当者たちは視界を失ったまま飛ぶしかない。

インフレが収まるだろうと先進経済の人々が思えば、需給の不一致がインフレの統計に示されるまでにより長い時間がかかる。そのために現在と将来との不整合性は大きくなる。それが中央銀行の判断を難しくするのだ。インフレを引き起こさないのであるから、資産価格の上昇を見過ごす誘惑が働く。中央銀行が行動しないことで「非合理的な富裕感」が煽られ、バブルにつながる。

しかし一旦バブルが破裂すれば、日銀が苦しんでいるように、低インフレ経済のほうが問題は手に負えない。金利はゼロ以下に下げられず、金融政策が効果を失うからだ。

金融市場でも見通しは決して明るくない。BISは繰り返し、「株価やドルの価値は長期的な懸念材料だ」と繰り返してきた。より最近の関心としては、住宅価格や世界債券市場の持続性が指摘されている。そして、こうした市場のいずれかで調整が始めれば、「世界の経済見通りにマイナスの影響を与えうる。」と。新興市場の脆弱性を示す多くの徴候もある。

BISは、これ以上内ほど正直に、問題の解決のために何をすべきかは分からない、と述べている。しかし、自体が良好に見えるときに、正しい問題を回避してしまう人間性を考えれば、その分析には意味がある。


LAT July 10, 2002

John Balzar:

China is moving to challenge the West in economic clout.

中国は私が予想したものと全く違っていた。これが中国か? 道路にはアウディが溢れている。ホテルの駐車場にはフェラーリが一杯! ティファニー北京店の開店パーティー。商業地域にはいたるところに派手な銀行が建つ。どこもかしこも携帯電話の呼び出し音が狂ったシンフォニーをなす。オリンピック開催を勝ち取るために、大通りや公園を磨き上げた。

ひとびとは共産主義の平等について語り、過去の植民地支配の終末を同じく過去のこととして語る。決して止めようの無い、自信満々の彼らが、路地の乞食について指導者の言葉を語る。「先に豊かになる者がいても良い。残りの者は彼らに従うのだから。」

私は標準的な西側の自負心を持って2週間の中国訪問を体験した。まさに、中国はわれわれの「潜在的な市場」として輝いている。しかし、別の見方もできる、と直ちに理解した。中国は世界を彼らの市場と見なしているのだ。その規模と決意からすれば、西側企業が中国の拡大する製造業部門に殺到するにつれて、彼らの見方の方が早く実現するだろう。「重要な問題は、世界経済が供給基地として中国に依存すれば、その供給が途絶えたときに大きなショックに見舞われることだ」とJeffrey E. Gartenは言う。

「言い換えれば、世界の製造業に占める中国の地位は、じきに、世界の石油市場に占めるサウジ・アラビアの地位に近づくだろう、ということだ。」

資本主義と自由市場とは、単に物質的な進歩ではなく、中国人に自由ももたらす、とわれわれは思っている。しかし、すべての人がそう信じているわけでは無い。Barry Lynnは、中国が世界の工業生産で支配的な地位を得て行けば、西側も中国の指導者に逆らうよりも、彼らを支持しなければならなくなる、という。

企業を訪問する際に、私たちは中国人の職員にささやかな記念品を持って行くように助言された。ただし、記念品は自国で作られたもので、自分が住む地域の特質を象徴するような物が良い、と。アメリカのギフト・ショップを歩き回ったが、それは難しい注文であった。南カリフォルニアを示唆して、しかも中国やその他の外国で作られたものではない物。私の旅行仲間は、切手を買ったり、あるいは、まさにドル紙幣を封筒に入れたりした。何の印象も与えないだろう、と私は思う。

低開発、発展途上、開発、記事ではこんな風に手軽に諸国を分けている。しかし、中国は少なくとも三つのうち二つを示す。摩天楼を建設するクレーンの森。Guangzhouの山頂公園から北京の街を見れば現代中国がガラスに覆われた塔として立ち上がるのを見るだろう。

私のガイドブックには、「本物の」ロバが牽く車に乗って、北京の外へ50分出れば、そこにはthe Great Wallがある、と書いてある。しかし、この本が書かれてから、田舎は整理され、カリフォルニアを真似たような核家族用の住宅が広がっている。

これが今日の中国である。その力強い変化に備えるべきだ。


WP Wednesday, July 10, 2002

Capitalism and Conscience

昨日のブッシュ大統領のウォール街における演説で、その中心となる考えは、企業経営のスキャンダルはもっぱら道義上の問題である、としたことだ。「良心を欠いた資本主義など存在しない。品性を欠いては豊かさも無い。」ブッシュ氏はこんなふうに講釈した。「われわれは(経営者として)品位ある男女を必要としている。野心と破壊的な強欲とを区別できる者を。」

お話としては害も無い。しかし、国民的な名誉の基準を作ればビジネスが規制できると思うなら、お粗末だ。アメリカは、ブッシュ氏がなんと言おうと、道徳的に相対主義の国である。この国がダイナミックで多様である以上、道徳的な合意の形成は難しく、ましてや強制などできない。このことはビジネスにおいて一層真実である。アメリカ企業が日本の年金基金やベルギーの歯医者から資金を調達し、中国やチリで子会社を経営し、さまざまな信条や文化の労働者を雇って、世界的に競争しているのに、ブッシュ氏は、「われわれの国の価値」を反映させろ、と言うのか?

企業にはたった一つの目標しかない。金を儲けることだ。これは非難ではない。われわれの市場システムは、利潤を最大化することによって、同時に集団的な善を最大化する。利益のために越えてはならない境界線はあるが、それは法律が定めるのであって、個人的な道義心では無い。倫理は、何が独占的な行為か、簿外出資かについて、何も言わない。

ブッシュ氏の本当の試練は、彼が企業の行動を規制するルールの変更について何を言うかである。この点で、彼は議会の論争を超えていないし、他の分野でも弱い主張があるだけだ。

ブッシュ氏の顧問たちは世論の動向を読んで、会計規則を総点検するより、悪人を捕まえることに情熱を示すほうが良い、と考えたのだろう。会計基準を触るのは強力なロビーの反対にあうから気が進まないのだ。彼の演説は、その最良の手段である上院の改革案を批判する内容であった。政府はレトリックと政策の両方で、ギャップを埋める必要がある。


NYT July 11, 2002  

ECONOMIC SCENE

Tough Talk on Corporate Ethics, but Where's the Regulatory Bite?

By JEFF MADRICK

ブッシュ大統領が言うような新しい規則、株式市場を監督しているような独立の機関を設ければ、それで十分か? 経済学者の本能は、企業の幹部たちがごまかしや詐欺に駆られる、間違った誘因を与えられていないかどうか、に注意を向ける。大統領は、これらの誘因に直接の対策を講じるべきだ。

George A. Akerlof と Paul M. Romerは、会計基準が緩ければ重役たちが会社を「食いものにする」ことが合理的であることを示すモデルを作った。そのもっとも顕著な例は1980年代のS&L危機であった。

ストック・オプションが同様の刺激を与えることもよく知られている。1930年代に、Adolf Berle と Gardiner Meansは、経営者が利潤を最大にするよりも自分の地位を守るために会社を経営している、という懸念を示した。この問題は、会社の株式をより安価に買えるというオプションを彼らに与えることで解決できる、と思われた。

しかしオプションは、経営者を、短期的な利益のために不当に大きなリスクを冒すようにした。それが成功すれば彼らは大儲けし、失敗しても彼らの損にはならない。投資が完全に失敗する前に、自分たちは逃げ出せる。それはウォール街の短期志向をも強めた。

本当の改革は、こうした間違った誘因を是正することでなければならないし、新しい規制を必要とする。大金を盗んだ企業の幹部がたまに捕まるだけでは済まない。国民の莫大な貯蓄が間違って配分されている。それはもっと長期の投資に回されて、多くの雇用を生むはずであった。他方、多くの年金基金や個人の貯蓄が破綻した。

1.   会計規則を厳格にして、守らせろ。

2.   企業の会計に責任を持つ幹部会は、経営者と完全に切り離せ。

3.   オプションは必ず収益からの支払であることを、株主全員に報せろ。


FT July 12 2002

A Washington insider

By Gerard Baker

ブッシュ政権を担ってきた史上最強の副大統領であるチェイニー氏も、いよいよ議会で追及の声が高まってきた。チェイニー氏は、まだ若い頃、禁漁期間に釣りをして罰金を支払わされた。そのとき、彼は友人にこう言って怒った。「25ドルも罰金を払っただけじゃないぞ。あいつらは俺の釣った魚も取りやがった。」

彼がHalliburton 社の重役をしていた頃、Arthur Andersenの助けで、会社の利益を水増しして株価を吊り上げた、という疑いがある。SECが調査をしましたが、政府は直ちに訴える利益が無いとしてこれを止めさせた。

こんなときにブッシュ大統領が経営者のモラルを強く求め、厳罰を訴えても、ダブル・スタンダードと見られるだけだ。チェイニー氏が1996年にAndersenのためのプロモーション・ビデオで話した内容がインターネットで公開され、また国民感情を逆なでする。チェイニー氏はその中で語っている。「彼らAndersenが私たちにしてくれる素敵なこととは、まさに会計規則どおりに、私たちの会社の経営を評価し、助言してくれることなのです。」

チェイニー氏が担ってきたブッシュ政権での役割を考えると、最近の変化は非常に重大だ。彼は、エネルギー企業の優れた経営手腕を高く評価され、またワシントンのインサイダーとして、ブッシュ政権のNo.2となった。第二次ブッシュ政権の「最高経営会議」式政策運営の要として、すべての重要な決定に加わり、実際に重要な決定を行ってきた。オニール財務長官を含めて、政府の重要な人選はチェイニー氏がブッシュ大統領の耳にささやいたから決まったのである。

9・11の大統領の行動や、アラファト追放を決めたのも彼であり、結局、副大統領に相応しい人物を聞かれて、ブッシュ氏に自分を指名したのも彼だった。

チェイニー氏は、結局、政府を公開することに熱心ではない。彼のしていることで国民が知るべきことは少ししかないと信じている。企業の経営幹部たちもそうであった。彼が影から政府を動かす手法も、今後、より厳しい追及にさらされるだろう。


NYT July 12, 2002  

How a Clear Strategy Got Muddy Results

By DAVID E. SANGER

(コメント)

ブッシュ大統領は、テロ事件のあとと同じように、ウォール街でも「犯罪者を捕まえる」と演説しましたが、その後もダウは下落し続けました。二つの介入には大きな違いがあるようです。

大統領と金融市場との関係はどうあるべきか? 大統領や政治家が金融市場に細かい介入をしても効果は無いだろう、と言います。もちろん、本当の危機に際しては、政治と市場の言葉は一致するでしょう。しかし危機でもないのに、今はブッシュ政権のいつもの安全保障チームが経済政策にまで口を出したようです。

Jeffrey E. Gartenは、どの大統領も市場を説得して、問題を簡単に解決できる、と思いがちであった、と言います。「しかし市場は余りに巨大で、余りに複雑であり、政治とは異なるリズムで運動している。」にもかかわらずホワイト・ハウスは「市場ではなく政治のタイミングで」反応している、と。実際、通貨市場への介入について、一つの教訓とは、市場の気分に逆らうな、ということです。売りと買いがエネルギーを出し尽くして、コースを逆転する圧力に耐えられなくなる瞬間を待つのです。

「この政権の経済政策は真空状態だ」と、David Haleも言います。「誰の言葉を聞くべきか、市場にはわかっていない。それは明らかにオニールでは無いのだ。」

ブッシュ氏は過去の大統領による市場介入から学ぶべきだ、と言います。F.D.ルーズベルトはウォール街と多くの問題を起こしましたが、銀行休日の宣言においては、金融危機の回避に成功し、銀行の規制について議会と合意しました。またクリントンは、1998年のアジアとロシアの金融危機に際して、ニュー・ヨークで「半世紀ぶりの世界危機だ」と宣言しました。それは大騒ぎしすぎだった、と記事では判断していますが、その後のヨーロッパや日本との協調介入は、危機の収束を促しました。

Daniel Yerginによれば、F.R.ルーズベルトは市場の個々の変動には介入しなかったし、クリントンは非難すべき「クローニー・キャピタリズム」が外国に居た。その点で彼らは、政府介入の効果を期待できた。しかしブッシュには、どちらの利点も無い、と。


WP Friday, July 12, 2002

Who Wants This War?

By Michael Kinsley

(コメント)

New York Times が政府の対イラク戦争に関する計画を暴露したことはショッキングなことでしたが、それに対して国民から強い反応が聞かれないのはさらに驚きです。戦争は、政府が言うように、アメリカ国民の生活に関係の無い、実害の無いものなのでしょうか?

確かに、ブッシュ氏のフセイン討伐は不思議な政策手段です。誰がイラクとの戦争を望むのか? という問いに、明確な答はありません。アラブの同盟諸国も、クルド族でさえ、この戦争を手放しで歓迎していません。アメリカ国民は、些細なことであるかのうように、無関心を装っています。大統領となったブッシュ氏が、エディプス・コンプレックスにより、父親の受けた屈辱を晴らすためにアメリカ国民を戦争に巻き込むのだ、というのなら別ですが、戦争を積極的に支持する者を政府の外には見出せません。

なぜ戦争計画がリークされたのか、それも分かりません。もしかしたら、ブッシュ氏は戦争計画を漏らすことで世論を喚起し、同時に、フセイン政権に戦争による破滅を回避するために自ら退陣するよう迫っているのかもしれません。その場合、民主主義国家が戦争を交渉手段としてどの程度利用できるのか、が問題です。宣戦布告するのは議会かもしれませんが、現実の戦争は予測できない衝突から拡大します。

軍事力を用いてもフセイン政権を打倒するべきかどうか、これから国民は長い討論に参加しなければならないでしょう。政府は、「透明性」を高め、国民と世界への「説明責任」を果たして、戦争という選択の事後検証にも耐えられるような、新しい政策を掲げて、議会で争うでしょうか?


The Guardian, Monday July 15, 2002

Germany should regard Brown as flexible friend

Larry Elliott

今やドイツに関心が集まっている。ユーロの価値は上昇しつつある。ドイツ再統一は10年も前のことだ。その後、アメリカ・モデルは頂点を極めたが、一連のスキャンダルによって、バブルの副産物でしかなかったと非難されている。ドイツの伝統的価値、すなわち長期的視野、質の重視、信頼による経営は、再び注目されている。

しかし、ドイツは低成長と大量失業に沈んでいる。ヨーロッパの社会モデルの美徳と、ドイツの模範を称揚するどころか、アングロ・サクソン資本主義の採用に向けて摸索し続けている。敵対買収や破産、経営効率化、などである。ドイツ経済の弱さは、安定と成長に関する合意、と誤って呼ばれている国際合意の最大の脅威となっている。

何が間違っていたのか? 右派の答えは、ラインラント資本主義がいつでも悪い、ということだ。競争を抑え、微妙な社会階層を守り、協調型社会を重視する余り、「弾力性」(要するに、解雇)を抑制した。だからドイツは、と彼らは言うのだが、規制緩和と組合の解体、福祉国家を切り捨てるべきだ、と。アメリカ型に、変身せよ。

もしそれが正しいのであれば、ドイツ・モデルはすべて間違いであったことになる。高度な熟練労働者を育てたことも、研究開発に投資したことも。ドイツ企業は最高級の技術で製品を提供し、販売後もその製品にサービスを提供した。しかし、今や、生産コストを引下げ、安く売ることに徹しなければならない。

こうした議論は、アメリカの「奇跡」が色あせるに連れて、説得力を失うだろう。安く売るだけでは、発展途上国と勝負できない。われわれはむしろ、製品の質やデザイン、性能の点で、より上位の商品を生産しなければならない。ドイツ・モデルは、この種の仕事に適している。

もしドイツ・モデルがその美徳を維持するなら、経済実績も改善する必要がある。また、アメリカ市場への輸出に大きく依存している現状を変えるべきである。だが、ドイツ・モデルは進歩的で、より人間的であると主張するには、400万人もの失業者を労働市場の硬直性ではなく、何か他の理由で説明しなければならない。すなわち、東西ドイツの再統一と、EMUである。

ドイツは、東ドイツを再統一する(特に通貨を1対1で交換した)コストとして、およそ為替レートが20%は過大評価になっていた。しかし、その直後にEMUでヨーロッパ諸国間の為替レート調整が不可能になった。調整は、貨幣所得を引き下げることによってしか行えなかったのだ。

ドイツ・モデルが再び機能するための条件は、マクロ経済への刺激策である。それは貿易相手国(特にフランス)に対して為替レートを減価させ、金利を引下げ、財政支出を増やすことである。しかし、ユーロの誕生とECBは最初の二つを不可能にしてしまった。さらに、安定性と成長に関する合意によれば、ドイツの財政赤字がGDPの3%以上になれば、罰金を支払わされる。この合意は修正されるべきである。

この点で、ドイツはブラウン英蔵相の修正提案を支持する理由がある。イギリスの住宅価格高騰を考慮すれば、イギリスの加盟はユーロの金利を引き上げることになるだろう。それは、ドイツの最も怖れる変化である。


IHT  Monday, July 15, 2002

Is the First World turning soft? 

Barbara Crossette

(コメント)

「なぜバンコクの人々は、違法な井戸を掘り、地盤沈下をますます酷くするのか? タイ政府の役人は、その理由は『われわれがソフト国家だからです』と、微笑みながら答えた。」

「ソフト国家」とは、1968年に出た『アジアのドラマ』でGunnar Myrdalが用いた概念です。Myrdalは、産業革命前の、非西欧社会、特に南アジアで、多くの人々が法律を無視し、軽蔑することをこう呼びました。しかし、アメリカで続出するスキャンダルは、アメリカも「ソフト国家」になった、アメリカの「第三世界化」を示唆しています。

アメリカでは、ますます多くの豪邸と、高い塀が建てられています。これが「ソフト国家」に対するアメリカ・モデルではないでしょうか? 塀によって、貧者を外へ排除するのです。テロに対しては、十分な証拠や裁判も無しに被疑者を拘束します。銀行は金儲けに夢中で、相手の身元も確かめず、その金がどこで、何に使われても、知らぬ顔です。アジアのクローニー・キャピタリズムでは、まともな判断が無視されていました。

NYTのインド特派員Bernard D. Nossiterは、「ソフト国家」が時代や地域に関わらず発生し、軍事的な独裁や混沌ではなく、無気力、冷笑、停滞、恥知らずな利己主義によって、大国が崩壊する危険を強調しました。

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The Economist, July 6th 2002

Asia’s economies: Five years on

The lost (half) decade

(コメント)

アジア経済の回復は目覚しく、特に内需による成長の維持が注目を集めています。為替レートも固定制に戻ることは無く、アジアは再び成長の条件を回復したのでしょうか?

The Economistは慎重な評価です。なぜなら、成長が十分な国内の改革を伴っていない場合が多いからです。一方では韓国の改革が賞賛され、財政政策による刺激策もその効果が持続すると合格点を出します。他方、タイやインドネシアが同じような財政刺激策で成長を持続できるとは考えません。

アジアが成長を回復するには、この不安定な財政・金融条件を整理するだけでなく、中国との市場競争にも対応しなければなりません。国内経済の自由化と調整のための弾力化、そして必要な技術や資本の輸入、という基準で、アジア経済の回復を国によって選別する立場です。

しかし、債券・株式市場の活用を説くのは、アジア通貨危機の教訓を何に求めているのか、疑問を感じます。危機は、国内投資家にとっても、市場の透明性や企業の説明責任を強く求めた、という指摘に、各国の改革を支持する論調から外れて、むしろ不満を感じました。