IPEの果樹園2002
今週のReview
12/31-1/5
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9月11日のテロ攻撃で呪縛を解かれた「国家によるテロ」は、アフガニスタンやエルサレム、チェチェン、パレスチナ、アルゼンチン、インド、東シナ海、そして多くの知らされていない独裁国家や諜報機関の内側で、勢いを得たことでしょう。金融バブルや戦争支援なども含めて、軍隊や政治家のすべての決定や行為の正統性と責任は、その正確な状況と目的に照らして、事後的に究明されなければなりません。そして、国際秩序を支配する法と自律的な民間団体による検証作業を最大限重視することで、非常事態を口実にした「国家によるテロ」を抑止して欲しいと思います。
しかし、安全保障と法秩序に関する合意が平和的な国際秩序を築くまでは、私たち自身がグローバリゼーションとテロリズムに、直接、対峙することになります。
日本という政治システムを介してグローバリゼーションと本気で向き合う際に重要なことは、私たちが次の4つの問題について自ら準備を重ね、国際的に合意を得られる解決策を積極的に示すことでしょう。すなわち、1.朝鮮半島の再統一、2.中国問題、3.日本問題、4.アジア経済統合、です。いずれも国際秩序の基礎を大きく作り変える問題ですが、日本の姿勢によってその後の方針が変わるという意味で、日本は新しい国際秩序の決定にはじめて参加するのです。
1.朝鮮半島の再統一:東アジアと太平洋の地政学に影響し、その経済再建計画と軍備削減(米軍を含む)について、その後の朝鮮統一国家と日中間のバランスや、アメリカとロシアの参加方式が重要になります。
2.中国問題:台湾海峡と中国国内の経済改革、共産党の政治システムがどうなるか、基本的には中国の内政問題ですが、台湾独立や軍事侵攻があれば、また中国内部の金融システム危機や保護主義への転換が起きれば、日本が深刻な影響を受けることも明らかです。さらに、直接投資による世界的な生産力集中が、内外の構造調整に及ぼす影響は言うまでもありません。
3.日本問題:急速に工業化した日本は、かつてアジアの中で孤立した国際分業構造を軍事的に再編しようとして失敗した後、アメリカの自由主義的国際秩序に協力して貿易や金融、資源、情報のネットワークを借用してきました。今また、金融システムの不安や高齢化する人口と海外投資が、デフレによる国内投資の減退とアジア規模の通貨不安を醸成しています。
4.アジア経済統合:独自の制度を持たず、市場型の発展を遂げてきたアジア地域が、貿易による相互依存の深化と通貨危機を経て、共通の政策を模索し始めています。アジアでも、独裁国家やイデオロギーの違いは重要でなくなるでしょう。しかし、統合化にともなう摩擦や社会不安に対して、互いの対話や協力関係が国内政治と同等に問題解決の重要な手段となるには、まだ多くの具体的な問題を、互いの譲歩や協調で、実際に解決し、新しい調整のルールを作らなければなりません。
こうした問題が日本に住む将来の世代にとっても重要であるだけでなく、先の戦争で日本軍に侵略されたアジア諸国にとっても重要であるということを、日本の指導者たちは考えるべきです。それゆえ日本がその姿勢を決めるに当って、国民の合意を形成するために何を議論したかを、彼ら(私たちの子孫と近隣諸国)が十分に知ることは、最も重要なことなのです。
政治指導者たちは、問題を如何に解決するか、オープンに議論し、明確な方針や目標を示なければなりません。そして、必要な手続きや制度的枠組みを整備するため、政治的にも経済的にも、将来に向けて投資しなければならないでしょう。日本が現在の失業問題や累積債務危機を打開し、経済を再建した後、再生する経済力や新しい金融秩序には、こうした問題の解決策がその一部として組み込まれていなければなりません。
グローバリゼーションに関して、昨年のForeign Policyから論説を要約しました。
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Financial Times, Friday Dec 21 2001
The choice for the superpower
Philip Stephens
世界経済のらせん状の減速は、最も弱い者を激しく襲う。大企業は縮小し、金融市場は低迷する。市場はもはや宇宙の支配者ではない。今や人々は政府が行動するように求めている。9月11日の記憶は当然薄れていく。その怒りは通りに戻ってくるだろう。アルゼンチンは例外である。しかし、警報でもある。
その標的は、もちろん、アメリカである。そして、それ以外の豊かな国々もだ。アメリカが世界中に軍隊を派遣する唯一の超大国なのか? それとも貧困国や破産国に関与を膨張しすぎたのか? アル・カーイダへの軍事作戦に対する強い支持は、関与の拡大を示唆している。
しかし、アメリカも軍事作戦だけで安全が取り戻せるとは考えていない。クリントン前大統領は、ロンドンでBBCのインタビューに答えて、豊かな国は子供や孫たちを鉄条網に囲んだまま過ごさせたくない、と述べた。そして、アメリカや他の工業諸国がグローバリゼーションを進めたことに誤りは無かった。自由貿易や、自由な資本移動は、実際に、貧しい者の生活を改善するだろう。多国籍企業や国際機関の経済帝国主義を非難するプロテスターは間違っている。
地球上の人口の半分は一日2ドル以下で暮らし、10億人は一日1ドル以下で暮らす。一分ごとに一人の女性が出産で死亡している。相互依存の進む世界経済の中でも、貧困の海に沈み、辺境に追いやられた膨大な世界の人口は、開発とグローバリゼーションを進めることを願っている。
イギリス蔵相のゴードン・ブラウンは、ワシントンで戦後のマーシャル・プランが備えていた度量と先見性を、テロ戦争後の平和のためにブレア首相の提唱した、新しい国際秩序に与えるべきだ、と訴えた。爆撃の後に、われわれは第二次大戦後にアメリカが示したのと同じ啓発された利己心から、かつての敵の中に繁栄と民主主義をもたらせるだろうか?
全く異なった仕方ではあるが、グローバリゼーションへの反対運動と9月11日のテロは、同じメッセージを残した。最も豊かな諸国が国境の壁を崩壊させたのである。彼らはより繁栄し、しかも脆弱になった。豊かな諸国は近隣におけるグローバリゼーションの結果に備えなければならない。
Financial Times, Friday Dec 21 2001
The euro's painful birth
Eric Lonergan
人口変化はヨーロッパの現在の成長率を低下させている。もし人口の減少を阻止できなければ、ヨーロッパはさらに10年間低成長を余儀なくされる。一般に、ヨーロッパの経済問題は供給側の要因から起きていると考えられており、企業や労働市場の改革、規制緩和が求められている。しかし、ドイツとイタリアでは人口減少が国内需要を停滞させており、この問題は無視されている。
発達した経済では、出生率と消費の増加率とが明確な関係で結び付く。アメリカ、イギリス、オーストリアは、この10年間で最も急速に消費を増やしたが、出生率も最高であった。他方、日本の消費は出生率とともに大きく落ち込んでしまった。家計を成し、家族が増えるときに、健康・教育・子育てのサービスと、さらに住宅や耐久消費財も購入する。逆に、高齢者は住宅をすでに持ち、サービスを消費する割合も低い。他方、労働力の供給とGDPの関係は十分明確ではない。
需要の不足を説明する鍵は、人口変化が通貨政策の効果に及ぼす影響である。労働力人口(20〜60歳)に対する若年者(0〜19歳)の比率は、出生率と融資への需要とをつなぐ。なぜなら、もっとも借入れに多く依存するのは、子供を養育する若い家族であるからだ。このことが、日本よりもアメリカで通貨政策が効果的な理由である。若年依存人口比率がアメリカでは50%、日本では30%であるから、アメリカの個人部門の借入れは金利に対してより敏感に反応する。日本の通貨政策は、家計が融資を求めないので、効果が無い。
政府はこの傾向に何か対策を持つだろうか? 日本ではすでに通貨政策に代わるものが実験され始めている。銀行システムを介した信用創造ではなく、日銀は家計のバランス・シートを直接の目標にして通貨を供給している。それゆえ日本は、ヨーロッパのような慢性的な問題になる前に、解決策を見つけるかもしれない。移民受け入れは出生率低下に対する解決策の一部であるが、それだけでは不十分だ。ある意味ではユーロ圏の拡大が、最も有望な対策かもしれない。
Bloomberg, 12/22 11:14
Argentina Embarks on Dangerous Descent Into Disorder
By Tom Vogel
それは漸く起きた。群集は、自国の破滅をよそに隠匿と売名に耽る政治家たちに、憤激した。政治家たちは、経済危機に対処することで全力を尽くさなければ、自分たち身に何が迫っているかに気付いただろう。
しかし、ここから先への道は見えてこない。アドルフォ・ロドリゲス・サーが議会によって暫定大統領に指名されるようだが、何一つ重要なことは決まっていない。しかもアルゼンチンには時間が無い。債務支払いを停止するのか? 通貨を切り下げるのか? 数日中に政治家たちは決定しなければならない。
暴動の拡大は危機が一時的なもので、合理的な解決策があるという楽観を後退させている。
4年に及ぶ不況と13ヶ月の危機、そして3週間の資本規制の末に、多くの人が職を失い、企業も倒産した。公務員の給与は削減された。カヴァロ経済大臣が国外への大量の資本流出に対して資本規制を科したときに、多くのアルゼンチン市民は、すでに解決策が無く、事態は急速に悪化していくと確信した。そしてさらに事態が無秩序へと落ち込む前に、デ・ラ・ルーアとカヴァロは辞任した。
決定的な瞬間は、水曜日の夜に、デ・ラ・ルーアが30日間憲法の諸権利を停止し、治安維持部隊を街に投入したときであった。多くのアルゼンチン人はこれを無視し、再び、街頭に結集した。
「こうした反発がもっと早く起きなかったことに驚く。」と国際関係論の教授Pamela Starrは述べた。「アルゼンチンで危機がもっと早く起きなかった理由は、デ・ラ・ルーア政権が崩壊した場合に何が起きるかを、アルゼンチン市民が恐れていたからである。」「彼らは軍事政権が復活することを望まなかったのだ。」
すなわち、中流階級と下層階級にとって、もはやデ・ラ・ルーア政権以上に悪い政治状態は考えられなくなったことを意味する。問題は、次に何が起きるか、である。不幸なことだが、改善する前に、一層の悪夢が訪れるだろう。
この前、1989年にアルゼンチンが暴動に揺れた際には、沈静化まで2ヶ月以上かかった。それは当時のアルフォンシン大統領が行っていた経済政策の失敗に抗議したものであった。
カヴァロを非難するのは易しい。しかし、それだけでは公正を欠くだろう。債務や経済停滞、失業、社会不安は、カヴァロが3月に復帰する前から始まっていた。しかし、彼の政策は問題を解決するより悪化させてきた。採取ル削減や資本規制で、経済の悪化が加速した。
テクノクラートたちの議論にも、政治家たちの内紛にも欠けていたのは、平均的なアルゼンチン市民たちがどれほど苦しみ、その我慢が限界を超えるのはいつかについて、十分に注意することだった。
この暴動が政治家たちの顔面を叩き、目覚めさせたことは良いニュースだ。しかし、政治指導者たちが本当に眼を覚ますためには、もう一度叩かれる必要があり、あるいは、それでも足らないというのは悪いニュースだ。街頭で店が焼かれているにもかかわらず、デ・ラ・ルーアは暴徒を非難し、それが政治的な陰謀で起きたと主張した。組合の指導者や野党のペロニストの支持者たちが、暴動を煽った様子もある。しかし、暴漢の群れだけで、国中の通りが同時に多数の抗議の群集に埋まることは無い。
アルゼンチンの労働者の約60%は、いわゆるインフォーマル経済で、記録の無い、現金払いの仕事に従事している。カヴァロが資本規制と週に250ドルの預金引き出し規制を導入したことは、こうした労働者たちの現金と仕事を奪ったのだ。
経済・金融問題の解決策を政府が直ちに示さなければ、彼らは再び街頭に出る。アルゼンチンの苦しみはまだ長く続くだろう。
New York Times, December 23, 2001
Money Talks, Sovereignty Walks
By RICHARD W. STEVENSON
10年前に、アルゼンチンは経済を蝕むハイパー・インフレオションを退治するために自国の通貨に対する支配を事実上放棄した。ドミンゴ・カヴァロが開発した制度では、ペソとドルの価値を1対1で拘束し、それを維持するために何でもすることを約束した。その制度はなかなか上手く行った。インフレは収まり、直接投資が流入した。
しかし、問題があった。1990年代後半にドルがますます強くなり、多くのアメリカ人にとっては重要でなかったが、輸出ができなくなったアルゼンチン人を破滅させた。職が失われ、債務が累積した。それに対してアルゼンチン政府は、長期の安定性や繁栄を約束して、短期の犠牲を求めた。そして先週、その犠牲は大きすぎたことがわかった。暴動によってデ・ラ・ルーアとカヴァロは失脚した。
アルゼンチンの経験は、国民通貨を放棄することが、経済的にも、政治的にも、如何に難しいかを示している。世界経済において主権維持のために格闘しているのはアルゼンチンだけではないし、多くの国が市場の要求と国民国家の伝統を妥協させることに苦心している。
アルゼンチンは崩壊したが、EUは各国の経済主権を超国家機関に移譲する野心的な実験の最終段階にいよいよ突入する。12ヶ国で共通通貨を採用するのである。カナダやメキシコでもドル化の話があるし、中国の一部である香港は通貨をドルに固定している。
為替レート政策がどれほど神秘的であるとしても、同じように、人々と通貨との結び付きは強烈で、感情的であり、歴史的遺産や自己認識と結び付いている。しかし、世界経済では、貿易と国際資本移動と投資家の信頼が発展途上国の貧困解消と工業諸国の経済成長維持に不可欠である。それゆえ通貨政策や為替レート政策は、単に強い通貨か弱い通貨か、どれと固定すればよいかを選択するよりも、はるかに複雑である。
アルゼンチンにとって見通しは暗い。「経済政策が余りに正気で無いために、むしろ牢屋に入ることが正しい答かもしれない」とMichael Mussaは言った。アルゼンチンは最後には拘束を破り捨てたが、どのような新しい政府も、ペソを切り下げるなら、その利益を受けるとともに、多くの新しい問題を解決しなければならない。輸出業者は儲かるが、債務の多くがドル建の債務者は大きな苦しみを強いられる。政府の対外債務がデフォルトになれば、外国資本が借りられなくなる。
ヨーロッパの単一通貨への動きは、経済的であるとともに政治的であった。それは域内の貿易や投資を促すだけでなく、アメリカに対抗するユーロ圏を建設するために進められた。しかし、アルゼンチンと違って、ヨーロッパの通貨統合はまだ危機において試されていない。ヨーロッパの団結心が、深刻な景気後退や外交的・軍事的亀裂に耐えられるほど強力であるとは限らないのだ。
Financial Times, Thursday Dec 27 2001
Editorial comment: Dangers ahead for Argentina
Adolfo Rodriguez Saaの新しい政権は、デフォルトとは別に、第三の通貨"argentino"の発行を計画している。そしてペソをドルに固定したまま、ペソ建の国内債務を新しい通貨に変更することはしない、という。この通貨は、1)真に通貨として流通する。2)賃金の支払いに使用され、その場合、1ペソと1argentinoとを等価で計算する。
これは変動レート制への巧妙な移行手段かもしれない。しかし、それが上手く機能するとしたら、大統領や新しい財務大臣が説明したような仕方ではそれが使用されない場合に限る。たとえばRodriguez Saa大統領はこう言った。「切り下げは労働者の給与を減らす。それと違って、われわれは第三の通貨で流動性を供給しようとしているのだ。これは誰も傷つけず、アルゼンチンの家計に利益をもたらす。」
これは危険な、たわごと、だ。新通貨の主要な目的は為替レートの実質的な切り下げでなければならない。すなわち、賃金のドル価値を減らすことである。ところがFrigeri財務大臣も、新通貨の価値が目減りすれば補償する、という。もし賃金のドル価値がこのように維持されるとしたら、argentinoの価値は暴落するだろう。
さらに、完全な通貨の無秩序に至る危険は一層深刻なものである。アルゼンチンのように流動性が枯渇した経済で、財政赤字と若干の金融緩和が行われるのは受け入れられる。しかし、緩和は「若干の」規模に限られる。歳入を超えて人々の欲求を満たすために大幅な通貨の増発を行えば、そこには無秩序が待っている。新通貨はハイパー・インフレーションの業火で瞬く間にその価値を燃え尽くす。
政府は、argentinoがペソ(とドル)に対して減価しても補償してはならない。また政府は、新通貨の発行を、購買力で目標を示した独立の中央銀行に委ねなければならない。もし国内資産と債務をargentinoに転換し、ペソを廃貨できれば、新通貨の減価を管理することはもっと容易になるだろう。
さらに政府は、対外債務の新しい返済条件を交渉しなければならない。返済可能な水準について合意されなければならない。これは技術的な問題に見えるが、決してそうではない。政府のすべきことはまさに政治的である。政府は大きな機会と危険がともに存在することを認識し、国民に対して、アルゼンチンには経済再建のチャンスがあるけれども、通貨の増発に頼ってはいけないことを、説明しなければならない。さらに、成長を取り戻すにはドルで測った賃金を引き下げる必要があり、そのためには国内の債権と債務のドル価値を一斉に切り下げることが役立つこと、理想的には新通貨への切り替えが重要であることを説明しなければならない。
アルゼンチンは絶望的な厳格さと放埓なポピュリズムとの循環から抜け出すことができる。しかし、それは政治の成熟度に懸かっている。もし政府が真剣に取り組めば、そしてその場合にのみ、外部からの支援が得られるだろう。
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Foreign Policy, March/April2001
Trading in Illusions
By Dani Rodrik
世界的経済統合の提唱者たちは、発展途上諸国が通商と資本にその国境を開放しさえすれば利益が得られる、という、ユートピア的な繁栄論を広めている。この中身の無い約束が、貧しい諸国の関心や資源を、経済成長にとって必要な国内の革新から奪ってしまう。
スラムの住民がどうだとか、犯罪や貧困の中で浮浪者層が増えることなど、どうでも良い。「投資家心理」や「世界市場における競争力」に注意して、正しい政策決定を急ぐべきだ、と。それは、驚くほど行き渡った国際的な合意事項となっている。貿易や国際投資に対する国内市場の開放は、もはや単なる開発戦略ではなく、人類に秘められた経済成長への最高の触媒なのである。
世界市場への参加は、単に市場を開放することだけでなく、特許制度から銀行監督まで、長大な要求リストを満たす必要がある。経済統合に必要な包括的制度の改革を実現することで、参加のリスクは最小になり、その利益は最大になる、と。こうして世界市場の統合化は、事実上、あらゆる開発戦略を不要にする。
しかし、こうした論調は世界の貧困層にとって悪い知らせである。その根拠の怪しい主張が政策の優先順位を歪めてしまうからだ。国際的な統合を強調することで、貧しい諸国の政府は人的資源や行政能力、政治的資本を緊急に必要な開発問題から奪い取る。すなわち、教育、保健、工業力、社会的結束、などである。それはまた、開発戦略を決定する機会を萌芽的な民主的機関から奪ってしまう。
確かに世界市場は技術や資本の源泉である。しかし、グローバリゼーションが発展をもたらす近道ではない。開発戦略が成功するには、外部から輸入された実践が国内の制度改革と結び付く必要がある。統合論者は、こうした国内の真剣な努力を閉め出す恐れがある。
統合化を選択した多くの国が示したことは、開放性がその成果を保証するわけではない、ということだ。ラテン・アメリカやアフリカの1980年代の経済成長率は、自由化への取り組みにもかかわらず、輸入代替政策が支配していた1960年代、70年代よりも低かった。他方、最も急速な成長を実現したのは、中国やインド、その他の東・東南アジア諸国であった。彼らは、貿易や投資の自由化も行ったが、同時に非正統的な手法で、すなわち初期の高度成長を経てから、漸進的、継続的に自由化を行った。
こうした期待はずれの成果に、世界的統合論者たちは、国境を開放するだけでは十分でない、と主張する。たとえば貿易自由化には、税制全体の改革や社会的セイフティー・ネットの整備、行政機構の改革、労働市場の弾力化、技術導入や専門職への教育・訓練支援、さらには世界的な保健と教育のサービス提供などが必要であると言う。金融自由化についても、G7の金融安定化フォーラムは12項目を不可欠の基準とし、さらに追加的な基準を59項目も示した。またIMFもG7も、為替レート制度について二極化した解決策(「ハード・ペッグ」もしくは「純粋な変動制」)を促している。
このようなリストは、所詮、失敗の言い逃れではないのか? 危機を自由化の結果ではなく、それに必要な改革が遅れたことのせいにしているだけである。バングラデシュは行政の改革や政治不安が続いたために、貿易自由化にもかかわらず貧困が解消されないのか? アルゼンチンは構造改革が不十分であったから、貿易・金融の自由化にもかかわらず市場の信頼が失われたのか?
現実には、政府は少ない財源をどのように使用するか、困難な選択に直面している。世界経済への統合を最優先することは、重大な機会費用を伴っているのだ。たとえば、発展途上諸国の政府は、少女たちへの初等教育や中等教育に対する予算を削って、銀行検査官や会計士を訓練するために支出を増やすべきなのか? 自国の法整備や国内制度の改善ではなく、外国から法律を輸入するためにエネルギーを注ぐべきなのか? 政府は、たとえWTOのルールに違反するとしても、医薬品の模造を促し、「無認可の」供給業者から低コストの薬を入手すべきではないのか?
そして、「市場の規律」に従うことで政府が失う社会的な保護政策や、貧困対策はどれほど高価な被害をもたらすか? まず何より、金融取引の自由化は為替レートへのコントロールを失わせる。政府はむしろ汚職追放に努力すべきではないか? そして外国投資家による買収工作や貧しい者を苦しめる汚職を取り締まるべきではないか?
世界市場への参加資格を支持する見解は、開発政策の優先順位を無視しており、しばしば経済学の原理とも無関係である。たとえば、反ダンピング、補助金、報復措置、農産物、繊維製品、貿易関連知的所有権などのWTO合意は、先進工業諸国の極一部が示す重商主義的な関心を示すだけである。しかも、金融に関する国際合意や基準の多くは、企業統治や金融に関するアングロ・サクソン型の内容を強く反映している。それは、ドイツや日本、韓国が豊かになる過程で採用した、異なる金融発展の経路を閉ざすものである。
要するに、「グローバリゼーション最優先」の戦略は、開発に優しい他の戦略を排除することを意味している。
輸入関税と経済成長との関係について、唯一言えることは、経済が成長するにつれて関税は除去された、ということだけであろう。今日、豊かとなった諸国は、ほとんど例外なく、保護措置に守られて近代的成長を開始したのである。確かに、経済学の文献には、国際比較によって成長を開放型の貿易政策と結び付ける研究があふれている。しかし、よく見れば、こうした研究は信頼できないことがわかる。成長が遅れた諸国では、貿易よりも、制度の非効率性や地理的要因、マクロ政策の失敗が重要であった。
資本自由化の根拠はさらに疑わしい。理論的に、資本の自由な移動を支持する根拠は明確だ。しかし現実には、資本市場は生来の不安定であって、バブルやパニック、近視眼的行動、自己実現的予言、に満ちている。メキシコ、タイ、トルコなど、金融自由化が金融危機をもたらした例は多く存在し、逆の例は十分に信じることができない。突然の大規模な資本逃避が起きる可能性は、政府に賢明な政策を強制する、と主張される。しかし、こうした「市場の規律」論も、国際資本市場が如何にムードの変化に支配され、ファンダメンタルズと関係ないかを見れば、まったく無意味である。市場が強気のときは政府の慢性的な赤字を助長し、市場が悪化すると外国投資家を引き止めるために政府は不適当な政策を強いられた。
テキストに見られる自由貿易の説明は強力である。しかし、戯画化された自由貿易論を振りかざして非現実的な開発戦略を説く連中は、理論的にも、実証的にも、自由な貿易が経済成長を保証しないことを忘れている。長期の経済成長を実現した国は、世界市場における機会を、国内の制度や投資家の能力を引き出す戦略と組み合わせることに成功した。そのような戦略は、典型的な統合論よりも容易な面と、困難な面がある。成長を制約する要因は国によって異なり、それを克服する戦略に標準的な答えは無い。しかし、それが克服できれば、比較的単純な政策が大きな経済的利益をもたらし、成長の好循環が起動する。
日本は明治維新で国営企業を利用した。中国は町や村の企業を育成した。モーリシャスは輸出加工区を作り、台湾は優先的な投資分野に優遇税制を用いた。韓国の融資補助や、ブラジルの1960年代、70年代には幼稚産業の保護が成功した。政府は、ワシントンや金融市場の顔色をうかがうよりも、自分たちの解決策を求めることだ。
Foreign Policy, September/October 2001
The Globalization Backlash
By John Micklethwait and Adrian Wooldridge
l 「グローバリゼーションは大企業の勝利を意味するのか?」
「ナンセンス。」:実際には、大企業の生産額の比率は減少している。グローバリゼーションは、むしろ、新興企業の勃興を容易にした。巨額の資本や技術、政府との関係は重要性を減らしている。たとえば、モトローラ社はどのような点でも世界のワイヤレス市場を支配するはずであった。しかし、フィンランドで10年前までトイレットペーパーを作っていたノキアが、良い電話と良い経営だけを武器に、モトローラ社を打ち負かした。
企業が政府よりも重要になった、というのも間違いだ。西側諸国の政府は西欧のGDPの40%を消費する。ビル・ゲイツも、ジャック・ウェルチも、政府や国際機関の決定に従わされた。GDPは付加価値だけを計測しており、企業の利潤に対応する。この比較方法では、GMもウクライナと並ぶ程度である。
l 「グローバリゼーションは環境を破壊するか?」
「本当はそうではない。」:すべてのビジネスは環境に対する負荷となる。しかし、環境に対する影響を比較すれば、多国籍企業の方が、現地の零細企業よりも環境に配慮している。また、確かに短期的には環境規制の弱い国へ工場が移転されるだろうが、長期的には経済成長が環境規制を改善するだろう。環境保護は追及すべき価値の一つに過ぎず、豊かな国が発展途上国に成長を犠牲にして環境保護を行うよう強制することはできない。環境規制は「共有地の悲劇」という問題を内在しており、グローバリゼーションを責めるだけでは解決できない。また、貿易は環境保護技術や環境保護に優れた民間企業の拡大を促す。
l 「グローバリゼーションは地理を無意味にするか?」
「これも間違い。」:真実はその逆である。無形資産が重要になり、価値のある人々に接近することが優先される。すなわち、ハリウッド、シリコン・ヴァレー、ウォール街など、さまざまな優秀さに集約点に世界経済は組織される。企業は世界的なネットワークによりこれらの拠点を結び付ける。企業が世界中を移動して拠点を持たなくなる、ということも無い。ロサンゼルス周辺はアメリカの主要製造地帯であり、人的資本や機械化による高労働コストを補い、デザイン・生産・流通の三つの機能が集中していることで、その価値を失わないのだ。
国境線は、通常思われている以上に重要である。アメリカとカナダを見ても、EU加盟諸国間を見ても、まだ国内取引と比べて大きな差が残っている。
l 「グローバリゼーションとはアメリカ化のことか?」
「必ずしもそうではない。」:自由主義的な価値は、アメリカだけが独占しているわけではない。確かに、ヨーロッパも次第にアメリカ的な価値観を受け入れつつあるが、ヨーロッパ諸国がアメリカ化することは無いだろう。労働法でも、企業買収でも、中東政策でも、EUはアメリカと同意見ではない。
大衆文化のアメリカ化も必ずしも正しくない。文化的な影響は相互に進んでおり、アメリカとイギリスを見ても、ハーリー・ポッターのように、アメリカに対するイギリスの影響は今も強い。要するに、消費者は世界中の文化を自分で選択して消費できるようになった。どの国が勝つかではなく、そのために自分たちの価値や地域社会を捨てる必要は無いのだ。
l 「グローバリゼーションは労働基準最低限への競争か?」
「ノー。」:これは四つの点で間違いだ。1.労働コストがすべてではない。労働の価値が重要だ。それは労働力の生産性にも依存する。実際、直接投資FDIは、世界最低の賃金を提供する国ではなく、アメリカや先進諸国に主に流入している。2.多国籍企業と本国との関係は今も重要である。3.多国籍企業の方が、しばしば、労働条件や熟練の育成、健全な労使関係の維持に熱心である。4.グローバリゼーションはゼロサム・ゲームではない。多国籍企業や先進国が豊かになることは、貧しい者や労働者を苦しめているわけではない。
l 「グローバリゼーションは非民主的な国際機関に権力を集中させるのか?」
「ノー。」:WTOやIMFのような国際機関は、批判者が思うよりも、はるかに小さな権力しかもたない。WTOは通商政策の裁定メカニズムであり、IMFは通貨危機の管理機関に過ぎない。政府はよほど困ったときしかIMFに頼らない。
国際機関の行動は、各国政府に制約するだけでなく、今や26,000にも達するNGOに制約されている。WTOの加盟国は、1948年にGATTが成立したときの23カ国に比べて、今や142ヶ国に増加している。国際機関が加盟国を通じて有権者に説明責任を負っているのに対して、他方、NGOは僅かな参加者以外に誰にも責任を負わず、民主的な原理を無視している場合も多い。
l 「グローバリゼーションは逆転不可能か?」
「大げさな妄言だ。」:1.グローバリゼーションは不均等で、矛盾した性格を持つ。現代の技術は、人々の愛国心や、偏狭さを助長することもある。2.人間は、アダム・スミスが看破したように、遠くの大災害より、自分の指を切り落とされることの方が激しい痛みを感じる。3.歴史が示すように、100年前のグローバリゼーションは、今以上に逆転不能と信じられていたが、完全に崩壊した。
Will Globalization Go Bankrupt?
By Michael Pettis
世界的な統合化を進めたのは、政治でも、インターネットでも、WTOでも、もちろん、マクドナルドでもない。グローバリゼーションは、金融的な拡大によって、もっぱら実現されてきた。信用の膨張は経済統合の時代をもたらし、信用逼迫はにわかにそれを押し潰した。
急速な技術変化、大規模な資本移動、国際貿易の急増を結び付けた、われわれが経済のグローバリゼーションと呼ぶ事態は、過去200年間に、何度も起きたことである。それぞれの時代に、技術者や企業化が英雄となり、世界を変えることで莫大な富を得た。彼らは先進的な技術をビジネスに応用し、世界中に広めた。情報伝達や輸送の技術は、世界を「圧縮」したのである。
しかし、グローバリゼーションを進めたのは科学や技術、政治や文化ではなく、商業や金融であった。技術進歩の時代は、金融市場の拡大や国際貿易の拡大と同時に起きた。特に、世界の主要金融センターで、突然、金融的流動性が増大することが、すべてのグローバリゼーションの触媒となったのだ。それは、1820年代にイギリスの金準備が突然増加したとか、1980年代に非流動的なモーゲージ・ローンが流動的なモーゲージ債券に転換されるという金融革新が起きた、などである。
世界的な統合化に続いて、流動性の縮小はグローバリゼーションを予期せぬ停止に追いやった。安易な資金調達は、リスクを好む投資家に富をもたらし、資産価値の上昇や新しい投資が行われる内は、急速な市場の拡大を支持する自由主義的なイデオロギーを反駁不可能にした。しかし、突然、条件が変化し、金融センターからの資本供給は逆転したのだ。投資家は危険な投資計画から資金を回収して安全な資産に移転しようとした。銀行は融資条件を厳格にし、新規融資を拒否した。資産価値は暴落した。グローバリゼーションのコストは、社会的混乱、所得の不平等、外国のエリートによる支配として、受け入れられないものとなった。グローバリゼーションを支持した政治的・知的基盤は動揺した。そして、グローバリゼーションに対する大衆の批判は抑えきれなくなった。
新しい技術が資本を引き寄せただけでなく、世界中の「周辺的な」経済圏にも資本は流入していた。その規模が小さいために、資本流入は強い影響を及ぼし、通貨が増価し、実物経済の成長が起きて、さらに国際投資を引き寄せた。政治指導者たちも、市場が上昇している限り、改革を支持した。なぜなら、資本流入と成長が、国内で改革に反対するエリートたちを説得する、十分な資源を政府に与えたからである。
一般に主張されるのとは異なって、資本流入は経済改革に従って起きたのではない。資本流入こそ経済改革の条件であった。それによって、財政赤字は容易になり、自由貿易に反対する産業にも低コストの資本を与え、新しいインフラを整備し、旧来の政治的・経済的エリート層が富を増やす資産価値の増加が可能となった。だから政府は外国投資家の好む「改革」を唱え、外国の経済顧問を招いて改革案を作らせたのだ。1990年代に、アルゼンチンがカレンシー・ボードを、ロシアが「ショック療法」を、中国がWTO加盟を推進し、世界中で貿易自由化が支持されたのも、これと同じことであった。
しかし、金融は拡大することもあれば、必ず、縮小することもある。実際、金融的な縮小はその拡大の結果であった。成長期には、金融機関が過度に膨張し、金融市場のゆがみを拡大し、外部のショックに対して脆弱にする。資産価格の上昇が、弱小な債務者を生き延びさせ、担保による融資が銀行の担保価値下落によるリスクを増大させる。そして、金融的な縮小過程や、グローバリゼーションの逆転過程は、歴史的に示されたように、極端な混乱をもたらした。すなわち、銀行が破綻し、株価は暴落する見込みが高かった。
市場の崩壊は、多くの場合、人々に金融市場の取引やその価値を疑わせ、銀行家の行き過ぎた振る舞いを非難することが政治家や新聞の流行となった。低開発地域への資本流入が止まれば、政治家たちのグローバリゼーションに対する支持も失われた。ポピュリストが再生し、内向きの政策が復活した。保護主義が支配的となって、資本逃避が起きた。
それはすでに再現されつつあるのか? 新たな金融引締めは行われたし、ハイテク・バブルは崩壊し、ラテン・アメリカや東欧、南欧、中東の成長期待は失望に変わった。アメリカ議会は銀行や投資家の責任追及に忙しい。貿易や資本取引の自由化は後退し、ラテン・アメリカのポピュリズムも復活しつつある。グローバリゼーションに反対する政治家や理論化が力を付け始めた。
最近のグローバリゼーションは、こうした歴史を変えたわけではない。われわれの感性は、今も極端に自分本位でしかない。グローバリゼーションへの反動が突然やってくることも避けられない。
Foreign Policy, January/February 2002
We Three Kings
By Caroline Atkinson
数十年ぶりの深刻な世界不況への流れを阻止するために明確な行動をとったのは、3人の内、たった一人であった。アメリカ連銀のアラン・グリーンスパンは、アメリカ経済が悪化の兆しを見せ始めると金利を異例の速さで続けて下げた。
しかし、ECBのヴィム・ドイセンベルク総裁は、金利を下げるとしても非常に遅く、しかも慎重であった。それでも、日銀の速水優総裁が金融緩和に対して氷のように冷たい態度をとったことに比べれば、ドイセンベルクは速やかに行動したと言えそうだ。
グリーンスパンが他の二人より優れていたと言うより、世界最大の中央銀行の権力や世界的規模の影響も、自国経済の事情から切り離せず、必然的にその国の政治や制度に制約されている、ということである。ドイセンベルクは、新しい地域通貨の誕生とバラバラの12ヶ国で構成される新しい中央銀行の運営、という任務に制約されている。景気が悪化しても、ECBはインフレ・ファイターとしての信認を築かねばならず、しかも外国為替市場でユーロは常に試されている。
アメリカの政治家達は、サマーズ元財務長官のように、金利引下げをFedに要求すればするほど、Fedは金利を下げず、むしろリスクを高めて債券市場の長期金利が上昇してしまうことを学んだ。ECBはインフレ抑制にその権限が明確に絞られている。ECBは、前身の各中央銀行のように、政府に財政政策や労働市場改革、年金制度の改革を通じて、地域経済の強化を求めている。ECBがインフレ抑制の優れた経歴を示すまで、大胆な金融緩和は行えない。
他方、速水総裁の率いる日本銀行は、かつて権力を振るった大蔵省からの独立性を、最近、正式に与えられた。速水は独立性を、政府からの国債購入を拒否することで示そうとしている。また、政治家からのインフレ目標導入を求める声も、財務省による円安政策への協力も拒否している。確かに中央銀行の独立性は譲れないだろうが、日本経済の置かれた特別な危機的状況を考えれば、もっと想像力を働かせるべきだ。国債の購入や円安、インフレ目標も、排除すべきではない。皮肉なことに、金融政策がデフレ解消に失敗している結果、どこよりも改革を必要とされる日本で政治家達は長期的な経済の悪化を無視して、短期的な争いに耽る口実ができた。
世界経済は、こうして、通貨政策の国境を越える権力を、国内政治や制度の奴隷にしている。