今週の要約記事・コメント
1/15-1/20
IPEの果樹園 2001
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1月第1週のThe Economistは休刊でした。今週号も2週間遅れで、同様に紹介します。そこで、今回はFinancial Timesの記事が中心になります。
富の分配問題こそ、政治経済の基本です。そのすべて、とは思いませんが。社会的に獲得される価値あるものは、誰かに帰属し、誰かの支配に従うのです。なんにでも値段がつき、機会費用を重視する市場では、確かに分配問題も「限界原理」で処理できる、と思います。
しかし、もちろん、なんにでも値段はつきません。機会費用は一つではないし、常に安定してもいないでしょう。制度や秩序が変化する際には、市場以外のすべての力を使って、それを決める覇権が争われます。
「市場の制御」は理念として後退し、グローバリゼーションへの抵抗か調整援助か、閉鎖的なポピュリズムか、あるいは大陸規模の地域ブロック化を目指す連携か、無数の投機に翻弄された世界の通貨的混乱か、中央銀行家たちの孤高の国際協調か… 異なったシナリオと、それをいろいろな意味で支持し、あるいは破壊する、政治的にさまざまなモデルが競争し始めています。
それがどのようなモデルであれ、富と権力の分配について、社会的に価値あるものの再生や集合的管理について、合意を必要とするでしょう。技術的な条件、政治制度と民衆の意識、政治指導者が語る言葉の影響力、国際機関と巨大企業が分配問題に関わる程度、競争社会への集団的規範、経済的・制度的弱者への配慮、革新と波及をめぐる資源再配分メカニズム、その他、異なった条件で、各社会は理想の答えを模索しています。
しかし企業でも社会でも、短期的に最も重要な要因とは権力者そのものです。誰が権力を握り、何をその目標とするのか、その人物の思想と行動が社会モデルを決定します。それゆえ権力者の思想を明らかにして、社会の成員が彼を選択しなければなりません。また、社会が全体として達成した価値の追求に見合って、彼を評価しなければなりません。
しかし、長い目で見れば、市場が権力を決める、と言えるかもしれません。どのような権力者も、結局、すべて死ぬでしょう。あるモデルが生き残れるかどうかは、市場が決めるのです。
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Financial Times, Tuesday Jan 9 2001
Editorial comment: Pegged out
主要国が固定為替レートを維持したブレトン・ウッズ体制は政治的経済的な緊張で1970年代初めに崩壊した。30年を経て、新興経済において、同じことがおきつつある。
固定為替レートは発展途上諸国にとって最善の選択であった。彼らは通過を主要国の通貨に結びつけることで、投資家や輸出業者に確実性を与え、しかも自国通貨と独自の金融政策に一定の弾力性を保持した。
しかし、次第に、固定為替レートの有利さは、通貨制度崩壊のリスク、という深刻なコストを伴うと分かってきた。たとえどれほど膨大な外貨準備で守ろうとしても、固定レートは投機に弱かった。しかも、もし通貨が大幅に減価すれば、企業や銀行が固定レートで契約しているから、そのダメージは莫大なものになる。
最近の研究で、IMFのス主席専務副理事スタンリー・フィッシャーは、固定為替制度が本質的に不安定で、その制度がなくなることは避けられない、と述べた。それでも変動制が適当な国とは、中国のように、為替管理が行われ、世界的な金融システムに統合されていない国か、トルコのように、デフレ過程で外部からの規律を必要とする国だけである。
このことは、近年、IMFが固定為替レートの国を安定化するために融資し、非常に高くついたことを思い出させる。もし、本当に固定為替レートが過去のものとなれば、IMFの役割はもっと重要でなくなるだろう。民間部門の債務処理が整備された国に融資し、構造改革プログラムでも助言を与えるにとどまる。
何百億ドルもの救済策が必要なくなれば、ブッシュ次期大統領のIMF批判もやわらげられるかもしれない。
<コメント>
固定為替レートがなくなるのは、資本管理を採用しないからです。もし、国際的に合意されたルールで、資本管理が採用される条件と、その手段、それが再び自由化される手順を明確にできれば、各国はより自由に固定制と変動制とを選択できると思います。言い換えれば、資本市場は選択的に利用できるのです。資本家の気分から、より独立した政策の基準を、政府は国民に問えるでしょう。
アラン・グリーンスパンが先手を打ったように、IMFもブッシュ政権に予防線を張る必要があったのかもしれません。
Financial Times, Tuesday Jan 9 2001
Thailand's populist billionaire
Amy Kazmin
北部の農村出身の通信王、タクシンが、タイの首相になるだろう。このタイの移動電話網を支配し、三つの通信衛星を持つ男が、同じ才覚を用いて、タイの貧しい人々を豊かにすると約束した。有権者達は、まだ、1997年の経済危機による困窮に沈んでいる。彼らはタクシンこそ彼らの救済者だと確信したのだ。
こうしてタクシンが率いるタイ愛国党は史上かつて無い大勝で、議会の過半数を制した。またこの選挙は、改革に苦悩するアジアの他の諸政府に、明確なメッセージを送った。支配政党の長引く改革は、結果を出すのが遅すぎる、と。
選挙結果に対して、地元の投資家は歓迎し、株価が3.2%上昇した。しかし、外国投資家や改革派の政治家はそれほど楽観的ではない。タイ愛国党のナショナリスト的なポピュリズムは、3年に及ぶ困難な改革を逆転させるものだ、と見ることもできる。あるいは、タクシンはマレーシアのマハティール首相に続く政治家であり、政治の浄化や民主化、外国投資家にとって悪いニュースである、と言う者もいる。
タイ愛国党政府は、自由市場や小さな政府という、ドグマ的な宣伝を捨てて、かつてのアジア・モデルに少し戻ることになるだろう、と専門家は指摘する。特に、タクシンの勝利は、独立した政治家の監視機関を採用した最近の改革に圧力をかけるだろう。国立反汚職委員会は、タクシンが脱税のためにメイドや運転手の名義を利用した、という疑いをかけている。もし有罪となれば、タクシンは5年間、政界を追放される。しかし、彼自身は疑いを繰り返し否定している。
民主党政府が進めた改革も、その進展は遅く、このままでは止まってしまう。最大の問題は破産法の不備である。銀行や債務者は倒産させることができず、リストラを無視している。タクシンはこの問題に触れなかった。旧債務の処理を行う強力なハンマー、強制的な破産法、がなければ企業の再編は始まらない。愛国党がこうした改革に耐えられるか、が注目される。
<コメント>
アジアにおけるポピュリズムの展開に注目します。アジアのポピュリズムは、ラテン・アメリカとは異なったモデルを示すでしょう。タクシン氏が、通信産業の利益と農民の貧困解消を、本気で、改革によって結びつけれると考えているのか、単なる政治的な宣伝に終わらず、通貨危機後の新しい改革案を示して欲しいです。
New York Times, January 10, 2001
RECKONINGS: Getting Fiscal
By PAUL KRUGMAN
今では自由市場の伝道者として有名であるが、彼の仕事の大部分において、彼はマネタリズムとして知られた保守的原理の王様であった。基本的にマネタリストは、政府が短期の経済管理から手を引くことを求める。それは何よりも、不況の際に減税や支出増加という財政政策を用いない、ということである。
金融政策の航路を管理せよ、というフリードマンの見解まで受け入れる経済学者は少ない。貨幣の安定供給は、残念ながら、経済の安定性を保証するものではないからだ。しかし、財政政策ではなく、金融政策が不況と闘う手段である、という立場に、ほとんどすべての経済学者は同意する。
ほとんどすべて、というのは、新政権に入る人々を除く、という意味だ。ジョージ・W・ブッシュ氏の任命する人々は、乱暴なケインズ主義の経済政策に変心したようである。それが、穏健な共和党員でさえ、やりすぎと思うような、減税を正当化するからだ。
ブッシュ政権から示された最新の見解は、主席経済顧問であるローレンス・リンゼー氏が先週末にフリードマンを逆立ちさせたことだ。すなわち、金融政策は効果がなく、財政政策が最も優れたものになった、と。「金融政策と財政政策を比べるのに、典型的なクレジット・カードの利用者を考えてみよう。先週の金利引下げは、毎週ドル紙幣2枚分を助けるが、ブッシュ氏の減税は4万ドルの年収から1600ドルを、毎週ドル紙幣を32枚も与える。」
しかし彼の主張は、三つの点で、疑わしい。1.彼は、ブッシュ氏の減税策が普通の家庭に与える効果を誇張した。2.彼は、金利引下げの小さな部分的効果だけを取り上げた。それはもちろん、住宅債務や企業の債務に対する支払を減らす。
最後に、最も重要なことだが、彼は金利引下げの作用を曲解した。その主要な効果は、すでに存在する債務への支払が減ることではなく、より多くの借入を促し、投資を刺激することにある。債券にとどまっている貨幣を実物資産に振り替えるのである。だから、ビル・クリントンが増税しても、金利引下げが先の不況からの回復をもたらしたのである。
リンゼーは、いんちき経済分析を披露した。こんなことを新しい主席経済顧問が本当に信じているとしたら大変だ。しかし、心配は要らないだろう。これは減税を支持するための経済学を馬鹿にした奴がやったことだ。結局、たとえ経済が過熱していても、リンゼー氏は減税を擁護しただろう。
さらに、それは良い前兆ではない。クリントン政権は、経済分析や報告で正直なことが一つの美徳であった。前任者たちと違って、一般に彼の経済顧問たちは、事実を捻じ曲げたり、都合の良い、疑わしい議論を振り回したり、政策を売り込むために脅したりしなかった。
明らかに、これからは違うだろう。次期政権は間違いと分かっていることでも平気でしゃべり、気に入った政策を売り込むためなら、保守的な経済原則さえ捨ててしまうのである。
Financial Times, Thursday Jan 11 2001
Taking other people's money
Martin Wolf
ストック・オプションは1990年代にアメリカ企業の重役たちに莫大な富を与えた。問題は、それが優れた経営への刺激策であったのか、それとも1990年代の株価上昇に応じた株主収奪に過ぎなかったのか、である。
ストック・オプションは優れてアメリカ的な現象である。1997年、アメリカの15億ポンド(25億ドル)以上の年間売上を示す企業の幹部が得たストック・オプションの中央値は、250万ポンド(420万ドル・4億6000万円)であった。アメリカのビジネス・モデルが賞賛されるに連れて、ストック・オプションも世界中に広まりつつある。
しかし、重役への報酬は厳しく疑ってみるべきだろう。ストック・オプションは、株主が経営者の利益を自分達と同じにする方法であるが、経営者が株主の所有物である企業を搾取する方法でもある。そして、後者の方が真実に近いだろう。
株主は、彼らの所有する企業で何が行われているかを知らない。しかし、経営者は内部にあって、企業の価値を高め、あるいは外部にいる株主から自分達にその価値を移転することができる。自分の所得を最大化する経営者は、しばしば、後の方の選択を行うだろう。富の移転が富の創造と結びついているなら、彼らはそれを弁護できる。
J.K.ガルブレイスは『1929年の大恐慌』で、<ベズル> “bezzle” という造語を用いた。景気が良ければ、人々は安心し、信頼しており、貨幣もあふれている。ベズル化率が上昇し、発見率は低下する。そしてベズルが急速に増加する。しかし、ストック・オプションはもっと巧妙で、合法的な富の移転である。それは「誘因」という名目で正当化される。
企業にとって、ストック・オプションのコストは莫大である。たとえばハイテク巨大企業のオラクルは、2000年会計年度に、ストック・オプションの実行で利益が失われるのを防ぐため、27億ドルを支出していた。それは年間収益の27%、純所得の43%に相当する。
その可変的部分が企業に与えるコストに見合っていない点で、一般に、ストック・オプションは危険な高額報酬の一つである。最適な報酬は、固定的部分と業績に応じて変化する部分とを常に含む。可変的部分は、それが経営者に与える誘因(インセンティブ)で判断される。可変的要素が企業にもたらした追加的価値が、企業の追加的コストと一致しなければならない。
ストック・オプションは、以下の三つの理由で、明らかに間違った誘因を与えている。1.企業幹部たちのごくわずかしか、彼らの活動と株価の変化が起きる時期との間に、直接のリンクを持っていない。2.たとえ重役たちが株価に影響を与えても、それは株価そのものの動きによってではなく、たとえば競争企業との相対的な株価の変化によって測られるべきである。3.ストック・オプションは、株価が上昇しているときに重役達が企業とリスクを共有し、下落するときにはある程度しか共有しない、という意味で、企業にとってのリスクを増やす。
ストック・オプションには、優秀な労働者を企業に引き止める効果がある、とも言われるが、同じ効果は気まぐれな株式市場に頼らなくても実現できる。ハイテク部門の株価暴落は、そのような効果を破壊してしまった。今まさに、労働者を留める誘引が必要であるにもかかわらず。
結論は単純だ。ストック・オプションは優れた誘因ではなく、巧妙な富の移転である。最高幹部にとっても、オプションで得られる報酬は彼の努力を超えた出来事の結果である。ストック・オプションは、株価上昇の贅肉に過ぎない。徹底的に再考すべきだ。
Financial Times, Thursday Jan 11 2001
The IMF's agenda for the new year
Horst Koeler(managing director of the International Monetary Fund)
昨年はY2K問題で、輸送、通信、エネルギー・システムが混乱しないことを祈ることから始まった。新しい年も、近い将来に予想される政治的・経済的な安定性への脅威がひしめいている。アフリカ、アジア、中東で未解決の問題があり、アメリカや他の工業諸国では株価が下落している。それでも人々は不安を乗り越え、世界中で活動を広げてきた。
協調行動の必要はますます強く意識されている。中でも緊急の課題は、世界経済の成長を維持することである。
アメリカには金融政策と財政政策を行う余地がある。現在の景気減速を不況にしないように、先週、金利が引き下げられたのは正しかった。また、IMFはヨーロッパと日本に成長を促し、構造改革を進めるように、また、その一層の加速を助言してきた。そして、国際資本市場の借り手と貸し手には、経済の不確実性が増すことに備えて弾力性を高めるように促した。こうした正しい行動が採られるなら、世界経済を悲観する理由は無い。
さらに広い意味で、グローバリゼーションが人類全体の利益になる方法を、国際社会が見出さねばならない。IMFは、この点でも、22の重債務諸国に対して債務免除を行った。ユーゴスラビアのIMF復帰を歓迎し、緊急融資を行った。通貨危機の予防と管理に就いても、サーベイランスと政策条件を組み合わせて、IMFの能力を高めつつある。アルゼンチンとトルコに行った融資は、明確な調整政策を合意した。それが実行されれば、資本市場の信頼を高めるシグナルとなるだろう。
多くの点でIMFはリスクを冒して行動している。しかし、これはIMFに認められた権限の範囲内で、変化する状況に対応していると確信する。
将来に向けて、IMFが改革すべき最も重要な領域は、国際資本市場をより深く理解し、金融部門の専門意見を吸収することである。われわれの目的は、加盟諸国が国際資本市場の機会を利用しながら、それに関わるリスクを最小限に留め、資本市場の浮動性を減らす建設的な方法を見出すことである。
ますます相互依存する世界では、その繁栄は、共有されなければ、維持できない。債務免除はその一部でしかなく、発展途上諸国みずからが統治の改善や紛争解決、社会的・人間的向上、活気ある民間部門を目指して努力すべきである。国際社会は、貿易や投資の機会を高めて、その自助努力を支援しなければならない。それゆえ、IMFは多角的貿易交渉の早期実現を、先進工業国市場への貧しい諸国からの参入とともに、強く支持する。またIMFは、豊かな諸国が援助を増やして、長年の公約であるGNPの0.7%、すなわち現在の約3倍にすることを、要求しつづけるだろう。
<コメント>
これは、現在の国際経済管理に関する、指導者達の合意と限界を示していると思います。民間資本市場の活用と、通貨危機の抑制、市場の機能改善と危機管理、主要国の協調による国際通貨管理を<市場の信認>の範囲内で担っていくこと、開発のためには自由化で輸出と投資を活発に行い、最貧国にはもっと援助を。
肝心の国際資本市場は、次の危機に備えて各国が健全化と自己管理を追求することでしか対応できない、という態度です。確かに、APECやASEMの会議など、年中行事の国際会議の度に読み上げられる共同声明には、何の意味があるのか? と思ってしまいます。
Financial Times, Thursday Jan 11 2001
Don't apologise - explain
Leif Pagrotsky(Sweden's trade minister)
数年前まで、国際貿易交渉に大衆は関心を示さなかった。重要な問題が専門家の決定に任されていた。しかし、1999年11月のWTOシアトル総会で、それは大きく変化した。各国を規制するルールに関して活発な議論が置き、世界中でますます多くの政治家がこれに関与せざるを得なくなった。
ヨーロッパでは、依然として議論が各国内にとどまっている。しかし、EU規模の議論を通じて、見解を示すべきである。EU15カ国はWTOの交渉が必要である点で一致している。それは世界の成長を刺激するだけでなく、ヨーロッパ経済の近代化を加速し、発展途上諸国に有利な世界の貿易システムの調整にも役立つ。しかしEU規模の議論なしには、WTO交渉も各国の立場に限られる。
WTO支持は、ヨーロッパの政治家と市民達がより多くの貿易と近代化推進とを支持しなければ、確立できない。他方、世界の最低開発諸国がマージナル化されるのは、道徳的にも、ヨーロッパの利益の点でも、受け入れられないと思う。
だからこそ、変化と挑戦をもたらす政策を追求する勇気が必要だ。経済の再編成は新しい職場をもたらすだけでなく、旧来の職場から人々を追い出す。彼らが次の雇用を得るためには、社会保障や教育・訓練に、より大きな支出を必要とする。発展途上国と競争してTシャツを生産することに、EUの未来は無い。ヨーロッパの目標は、世界でもっともダイナミックな経済であり、それは変化を促す政策によって実現できる。
ヨーロッパの社会モデルは、この点で、比較優位を持っている。その福祉制度は、不安定な時期に市民の安全を確保する。それは調整に市民が耐え、個人に利益をもたらすように、さらに発展させるべきである。ビジネス界も、弾力性を維持するこの社会モデルの優位を認めるべきだ。貿易自由化は、ますます多くの人々を近代化の中に巻き込み、それが彼らの多くにとって利益であり、恐れる必要は無いことを示さねばならない。
ヨーロッパは、貿易自由化の議論で、しばしばグローバリゼーションの行き過ぎを批判する側であった。しかし、世界が不完全であることを批判するのではなく、政治的な指導者達がその改革を提唱しなければならない。
一般の理解に反して、世界貿易の大幅な増加にもかかわらず、ヨーロッパ経済の開放度は1960年代初めと変わらない。世界経済における不正義は、貿易が多すぎることではなく、むしろ少なすぎることである。現在もっとも貧しい諸国は、世界貿易に占める比率を低下させてきた。
世界貿易を真にグローバル化できれば、その潜在力を解放して、大きな利益が得られるのであり、EUにはそれを行う責任がある。政治家たちは本当の状況を説明しなければならない。批判者を招いてより公平なグローバリゼーションを進めるのであり、後退させてはならない。シアトル総会はその出発点であった。
しかし、公開討論が建設的であるためには、それが正直でなければならない。世界貿易パターンを真に改善するには何が必要が、公開するときである。それが一部の人には調整を意味するだろう。しかし、たとえ苦しくとも、真の問題を解決するためには、こうした事実を認めなければならない。
Financial Times, Saturday Jan 13 2001
Editorial comment: New economy myths
過去に聞いた大げさな広告は、今ではどうなったのか? 要するに、でたらめである。ゴールドマンサックスのインターネット・ストック指数がピークから4分の3も下がり、「ニュー・エコノミー」論も今や投資家の悪夢である。確かにそれは売られすぎた。しかし、すべてがでたらめというわけではない。
それは1990年代のアメリカ経済の成功を説明する考え方であった。本物と偽者を区別することから、混乱した考えをほぐすべきだ。より限定した四つの考えが現れていた。1.景気循環はなくなった。2.資本市場は今までに無い方法で上手く機能する。3.新しい技術革新の時代に入った。4.情報技術が経済の機能を根本的に変えた。
まず、景気循環は生きている。しかし、景気循環が死んだという主張は、正しい仮説に依拠していた。労働市場はより競争的になった。世界的な競争が労働組合と大企業の価格支配をともに弱めた。在庫は圧縮された。金融政策は、1960年代・70年代に比べて、価格の安定を目指すようになり、信頼性を高めた。
弾力的な経済と信頼できる貨幣的アンカーがあっても、景気循環は起こるし、より頻繁に起きることさえある、ということだ。大きな投資の波が、信用拡大や株式市場で増幅されるだけで十分である。景気循環は死んだ、という信念が固いほど、景気循環はより確実にやってくる。
資本市場は、確かに、1990年代に変わった。しかし、インターネット・マニアの姿は、南海バブル事件より、わずかに不合理でない程度のありさまだった。しかし、馬鹿げた広告の背後に、重要な変化もあった。ヴェンチャー・キャピタルの勃興は、企業家が活躍することをはるかに容易にした。資本市場は確かに過度の楽観と悲観を繰り返すが、確信を支援し、それを拡大する点で優れている。
しかし、情報技術を産業革命にたとえる愚か者は、歴史を知らないだけだ。
確かに、1973年から95年までの、生産性の伸びが低い時代は終わった。しかし、ここでも事実が誇張されている。前の循環のピークでも、生産性が年3.3%で伸びた。1990年代は3.1%である。
最後に、「ウェイトレス・エコノミー」の誕生は真の革命である。情報や知識が、最も重要な生産要素になった。ただし、情報というのは特殊な財である。その商品を追加的に消費する者にとって、提供者の限界的なコストはゼロである。競争的な経済学の理解は通用しない。それは伝統的なビジネス・モデルも変えた。企業組織や、知的所有権、競争に関する公共政策も大きく変化させる。
ニュー・エコノミーとは、結局、何か? 前例の無い安定性、空前の技術進歩、無限の株価上昇、というのはおとぎ話である。しかし、すべてがデタラメの広告ではない。一部のものが期待したほど革命的でも、高利潤でもないが、情報経済は本当にある。それはニューではないが、オールドでもない。
Financial Times, Saturday Jan 13 2001
Editorial comment: Fading yen
不況という妖怪が世界の通貨市場に迫りつつある。アメリカ経済の減速懸念は、ユーロに対してドルを下落させている。また、日本経済への悲観的見通しは、動揺するドルに対しても、円をまだ下落させている。
日本の場合、円が下落することよりも、それが余りに長く、強すぎたことが、むしろ驚きである。ほとんどゼロ金利を採用し、経済は10年間も停滞したにもかかわらず、この国が外国資本を数年にわたって引き寄せてきたことは理解し難い。
最近の連続した悪いニュースは、絶望的な感覚を根付かせてしまった。日本の政策選択は極端に限られている。急速に増加する公的債務は、これ以上の財政的拡大策を愚劣にさせる。日銀はゼロ金利政策の解除が失敗であったと決して認めたがらない。円安で輸出が伸びることで、かろうじて景気は維持されている。だから政治家は円安を促しているのだ。
歴史的に見て、今のところ、ドル、円、ユーロの間で、大きな動きはない。しかし、これら三大通貨間のレート変動は、成長見込みの変化で動く、大きな調整の始まりかもしれない。不況が迫っていると思う投資家や貿易業者は、成長見込みによって投資を選別しているだろう。すなわち、ドルや円に対して、ユーロが強くなることを意味する。それは、アメリカや日本の成長を助けるから、望ましいことである。
しかし、通貨の変動には必ずリスクがある。もし円が、1998年のように、対ドルで130円の水準を越えるなら、政治的・経済的な問題となる。日本の貿易黒字が膨張して、世界から、特にアジア諸国から、需要を奪ってしまい、アメリカの政策担当者たちを激怒させるだろう。さらに、為替レートの変動は、それ自体に、不安定化をもたらすというリスクがある。不況を予想する通貨市場では、悪いニュースに大変神経質になる。
主要通貨間の調整は必要であるが、中央銀行はそれが整然と行えるように協力しなければならない。