IPEの果樹園 2000

今週の要約記事・コメント

7/24-29

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沖縄サミットが残した最大の成果は、G8による世界管理という政治的枠組がもはや何の意味も無いのではないか? という深刻な疑問です。それは、主催国である日本の政治的力量が国際的にまったく無いことを意味するのか? アメリカが国内の繁栄と大統領選挙に神経を集中しており、その目玉にしようと中東和平に踏みこんだ時期に、G8は安全保障問題で支離滅裂な状態にあったからか? 世界の政治的首脳が集まっても、彼らに解決できる問題など大して無く、そもそも互いに国内向け政治ショーと国内調整コストの国際的な転嫁を企てるための自分勝手な談合政治に過ぎないのか? あるいはこの世界が、今までになく平和で、深刻な国際システムの問題がどれもひとまずは鎮静化されたことを確認し、祝福し合い、少なくとも平静を装うことが、その目的であったのか?…

「基地と海を見て欲しい」と願った沖縄の晩餐会で合意されたのは、ITとエイズでした。失敗しなかったことを、日本の指導者は祝福しているかもしれません。他方、イギリスの新聞、ガーディアンは、G8の政治的な機能を、分配問題という政治の基本に立ち戻って批判しています。

The Guardian

What's half a billion between friends?

Sunday July 23, 2000

Not a crumb from G7 table

Sun, surf and suits all round

Sunday July 22, 2000

Washington Post

G-8 Leaders Call For Solutions to Rich-Poor Divide

Sunday, July 23, 2000

5億ポンド(800億円)の週末宴会。22000人の警察官。8隻の警備艇。一泊400ドルのホテル。

しかしG8は互いに十分話し合いもせず、地球の経済管理に相応しい諸国でもない。なぜカナダが参加し、中国やブラジルではないのか? 庶民からもビジネス界からも遊離した会合。毎週13万人の子供たちが死んでいるのに、そして毎日6000万ドルが最も貧しい諸国から最も豊かな諸国に今も利子として支払われているのに、まだ行動を起こそうとしない。

それは醜態である。政府は互いに足を引っ張って解決を妨げている。主催国の日本は、一日に65000通の「行動を起こして欲しい」というe-mailを受取って、政府の受信アドレスを閉鎖した。なぜ昨年の共同声明を繰り返すだけなのか? その理由は二つ考えられる。G8は世界の人々に関心が無い。あるいは、彼らには世界経済の新しい現実に対して何の力も無い。このサミットは、世界の貧しい人々に何ももたらさなかった。首里城で行われたロブスター、キャビア、アヒルの豪華メニューの食事。それは、パリの貧しい人々に、ケーキでも食べさせておけば、と言ったマリー・アントワネットを思い出させる。

サミットは沖縄を行楽地として宣伝したのか? スーツでネクタイを締めた指導者たちは、この亜熱帯の行楽地で苦しみ、汗だくになった。日本人にとって、これだけ国民の税金を遣ったのだから、これはパーティーではなく仕事である。しかし、もっと涼しい国から来た指導者たちは、黒っぽいスーツ姿でヤシの木の間をさ迷った。真っ赤になって汗を滴らせたクリントン大統領を、あなたも見ただろう? この行楽地を楽しめなかったのは彼だけではない。警備を理由に、海で泳ぐことも、釣りや潜水をすることも禁止された人々が多くいたのだ。

今回は、首都から遠く離れた沖縄で開催した。将来、これ以上に費用のかかるサミットは開かれないだろう。そして将来のサミットは、警備上の理由でますます小さな島に、庶民から遠く離れた場所で開かれるだろう。

Washington Postの記事は、逆に、貧しい諸国に注目した点が今回のサミットの主要な成果であったと強調し、イギリスの新聞論調と対照的である。すなわち、技術革新の波及に伴なう新しい世界的な貧富の格差拡大に対して、G8が積極的な対応を行った、という。もし本当にそうであれば、政治家たちは世界政治の端緒をつかんだことになる。英米の市場型社会民主主義政党が目指す政策についての自信が、サミットをめぐる積極的な評価の背景にあると思う。

/サミットをめぐる論説をいくつか見ながら、多くの厳しい評価から少し距離をおいて、良心や、善意の政治、という言葉を想った。日本の政治は、こうした人情(共感)に訴えてきたのではないか? それが行政の権限を大きくし、政治家に対立よりも補償を優先させてきたように思う。

もし政府の機能が将来も政治的に重要であるとすれば、それは合意の形成や再分配を公的に強制できる制度でなければならない。しかも、かつては軍事的な制圧が政治秩序の転換をしばしば実行したが、将来はこれを協力して回避するのであれば、政府が依拠するのは究極的に参加主体の「利益」だけでなく、「価値」や「共感」であろう。しかし、日本政府は国内において、それを旧来の伝統的な価値観と、成長部門からの利益再分配、金融部門の行政手段化、などで組織していたため、国際金融システムの変化に対応できなくなっていた。

他方、世界の指導者たちに「基地と海を見てほしい」と願った沖縄の地で、政治の文化や土壌が大きく異なる各国に、積極的に主催国として、日本がこうした日本型政治手法を説得するつもりがあったとは思えない。むしろ、国際交渉の主催国として、歓迎行事に金をかけ、軋轢を生じかねない紛争問題を回避して、もっぱら相手の善意と譲歩を待つ姿勢は、怠慢や愚昧、あるいは怯懦としか見えなかった。

では将来のサミットは、主要支配国間だけの利益再分配交渉となるのか? 国際ルールの設定や国内の調整過程を受け入れるために合意形成条件を整備する場となるのか? あるいは民間市場に大部分の機能を移譲して、基本的に安全保障体制と国際法廷が実務的な調整を行うだけになるのだろうか? IT憲章やエイズ対策などを目玉としたその声明は、21世紀に向けた<政治的>課題を示したと自負するには程遠いものであった。

日本政府には、国内の政治経済秩序を再編し、地域的な協力関係を、特に中国の民主化・近代化や朝鮮半島の再統一問題、台湾問題、アジア通貨危機後の地域経済再建支援について、積極的に発言し、域内各国の対話と交渉を積極的に促す責任がある。そのためにも、アジア各国が戦後補償や日本企業の進出、経済援助に対して懐くさまざまな疑問を前向きに解消できなければならない。それができる程度に応じて、日本は国際交渉の主役として「尊敬」されるのである。

善意や良心によって統治できる世界を築くために、日本政府ではなく国民の多くが、基地を縮小し、美しい海を守りたいと心から願っていることを、沖縄とともに国際社会に伝えることが、このサミットの本当の主題ではなかったのか。偶然に点けたテレビで、沖縄の海が汚れたことを嘆くウミンチュウ(海人)の言葉や、平和の詩を自作して朗読の練習に励みながら、突然キャンセルされた小学生の澄んだ目を見て、私はそう思った。日本政府はこの点で、最も重要であったはずの、政治への共感を放棄した。

The Economist July 8th 2000

Making history in Mexico

メキシコが70年に及ぶ支配政党PRIを選挙によって平和的な交代させたことは、何よりも祝福されるべきである。この国の歴史上初めて、大規模な流血無しに体制が変わったのである。その功績は、Zedillo大統領に帰するだろう。独立の選挙監視機関を設けただけでなく、投票日の夜に自ら敗北を認めたことで、暴力的介入への不安を一掃した。またFox候補は、その精力的なキャンペーンを実行し、強いカリスマ的個性によって、この選挙を7%の差をつけた勝利に導いた。

Foxはいろいろな意味でメキシコでは型破りな政治家である。移民の出身であり、ジェズイット系カソリックであり、左翼とポピュリストとの橋渡しができる人物であった。また彼は荒荒しい個人主義者であり、コカコーラ社のメキシコにおける倹約した営業活動を指揮した経歴を持つビジネスマンでもある。

Foxに投票したのはメキシコの若い、都市に住む、教育ある人々が多かった。Foxの勝利は、NAFTAによる、ダイナミックな新生メキシコが勝利したことである。同時にまた、それはPRIの長期支配に反対する投票でもあった。Zedilloの経済再生が成功したにもかかわらず、拡大する貧富の格差と汚職や犯罪の増加は国民に変化を求めさせた。

Foxはこの大きな期待に応える必要がある。大統領職に絡む利権の誘惑を断ち切らねばならない。それは、例えば、メキシコの連邦体制を、各州・自治体への権限移譲によって、実現することである。腐敗した官僚制度を専門的な公務員に転換させることである。独立した法廷と、プロに徹した高潔な警察組織とを、育成することである。

新大統領は、アメリカ経済の減速にも対処しなければならない。特に、90%がまだ国有化されているエネルギー部門を改革する必要がある。また、国家を社会的進歩の機関としなければならない。最後に、新大統領は反自由主義的な、保守的政策を緩和すべきである。

議会で多数を押さえていないが、政党の再編もあるだろう。むしろ、5ヶ月と言う長い移行期間に、新旧政府の協力が無ければ、既存体制の有力者が不正を重ねる危険がある。

Paying for war slaves

臭いものには蓋をしろ、ということわざ通りに、日本はその戦争捕虜や強制労働、従軍慰安婦など、戦時下の非人道的な扱いに対して、被害者が告訴することを許さなかった。しかし、カリフォルニアで準備されている三菱や三井への賠償請求に対して、このような対応を取ることは間違いとなるだろう。

1951年のサンフランシスコ平和条約と翌年のアメリカによる9000万ドルの資産差し押さえにより、戦時下の賠償責任から日本は免除されている、と日本政府は回答してきた。それゆえ、昨年、こうしたことが無かったドイツで強制労働に対する52億ドルの賠償資金が提供されたが、日本はこれに従わない、と主張する。

しかし、そのような強硬姿勢はカリフォルニアでは通用しないだろう。ドイツ企業が理解したように、アメリカにはこうした賠償を請求する、エドワード・フェイガン弁護士などの指導による強力な政治組織ができている。フェイガンは、12月の真珠湾攻撃記念日に合わせて、日本企業に対する集団訴訟を準備し始めた。

最近の訴訟には、確かに、嫌な脅迫の匂いがする。しかし、早急な決着こそが日本の通商的利益に沿うであろう。それに失敗すれば、日本が大量に輸出しつづけているアメリカ市場で反日感情が高まり、甚大な経済的損失をもたらすのである。また、裁判による解決は道徳的な権利の問題でもある。いくら時間がたっても、生き残った強制労働の犠牲者、特に戦時捕虜(POW)でなかった多くの者にとっては、その苦しみに償いがなされるべきである。問題は、誰がそれを支払うのか? である。現在の企業や株主が支払うのか? 財閥企業がこうした機会を多く利用し、その後の企業にも蓄積された資本が移された可能性がある。それゆえ、彼らが自発的に政府の設定する賠償基金に資金を供出するのが、一つの方法であろう。

こうした日本政府の犯罪に関するもう一つの主張は、政府が公式に明確な謝罪をするべきだ、というものである。日本政府は、既に十分な謝罪を表明した、と言うが、その表現は戦争犯罪の歴史的事実について未だに見解が対立する国内の諸勢力の妥協の産物でしかない。今も日本政府の高官や重要な政治家たちが、植民地支配下での野蛮な行為を否認したり、南京での強姦やアジアに及ぼした悪影響を否定する必要を感じている。それゆえに、戦争の犠牲者たちが未だに正義を要求していることは、不思議なことではないのだ。

/カリフォルニアの裁判所が民事訴訟として日本政府の戦争犯罪を裁けるのか? という驚きとともに、それを支払うのはアメリカ市場での商業的利益を失わないで済ませることに対する代償である、という事実に驚嘆する。アメリカの法廷は、アメリカ市場に依拠する外国企業を人質にとって、国際的な正義の法廷を設置する強制力を得たのである。

もし本当に戦争犯罪が法廷で裁けるのであれば、それは相互利益と法の支配という「自由主義」の古典的理想に向けて、大きな一歩を進めることとなるだろう。他方、もしそれがアメリカの市場支配力と交渉力を利用した私的な賠償請求の法廷ゲームであれば、各国に怨嗟を広めて報復の機会を準備させ、世界市場の力による分割を再現するのではないか。

その違いは国際的な法規範の確立と裁判手続き・正当性の承認にあると思う。その場合、法律や裁判でさえ、国際的な裁定メカニズムと競争の圧力だけに委ねられるとしたら、世界の市場圧力を支配する者が「裁判」や「正義」をも支配することになる。しかし、市場を支配することと、正義を支配することとは、まったく別の問題であろう。

また、問題の起源は、日本の裁判所が戦争犯罪に対して明確な訴求手続きを拒んだことにもあるだろう。政府の犯罪に対して、この国の法システムが余りに無力であり、自らの公的責務として、政府の支配に翻弄された国民の苦しみを償おうとして来なかったことに対して、アジア諸国の元日本軍属や軍票によって資産を収奪された人々、従軍慰安婦として各地をさ迷った人々は、アメリカの法廷に正義を求めている。

戦争においても、政府は自らの政治的決定に事後的な責任を負うべきである。そして戦争だからこそ、それぞれの状況に照らして、選択の責任を指揮官個人に求める必要がある。彼らは、たとえ戦争が終わってからでも、必ず各種の情報によって部隊の行動を検証され、戦争犯罪に関する法廷に立たされることを事前に知っておくべきだろう。そのために個々の決定に責任ある者の署名を付した記録をすべて残し、反対意見があれば、それも併記される必要がある。戦争行為の全体が、独立した国際法廷によって事後的に検証され、政治家の責任が戦後に投票や議会で問われるだけでなく、個々の犯罪行為についても独立した国際法廷で明確に裁かれるべきである。

また、日本国内においてこそ、戦争拡大によって徴兵され、軍隊の非人道的な扱いに苦しんだ者、無謀な戦線拡大によって戦死させられた家族の悔しさ、あるいは戦時下の窮乏生活や、政治的弾圧で投獄されたり、発言の機会を奪われた人々の苦しみに対して、日本の議会や法廷はどれほど明確に補償し、過ちを犯した政治家や軍人を告発して裁いてきたのだろうか? これはアメリカと日本の裁判ではなく、国家の犯罪と民間人との法をめぐる争いであると思う。

もし戦争犯罪の被害者を認定することが難しいのであれば、客観的な資料によって賠償金額を基金として被害団体などに負託し、その運営を戦争犠牲者の生活向上やアジア地域の社会発展に役立てるべきであっただろう。海外の激戦地に戦争記念博物館を建てて、日本の小学生を修学旅行に引率し、平和教育を行うだけでなく、すべての国の犠牲者に献花して来てほしい、と私はすでに書いた。アジア各地が、たとえ貧しくとも、日本の小学生に戦争犯罪について教えに行く重要な聖地であったなら、多くの日本人が売春観光に訪れるようなことも少なかったのではないか?

A China for arms control?

弾道ミサイル禁止条約の改定を求めるアメリカの模索は、北朝鮮やイラクだけでなく、中国の核抑止力をも低下させる。アジアでミサイル配備が抑制されることは喜ばしいが、日本を北朝鮮のミサイルから守る条約(ABM)改訂が、いつか中国から台湾を守ることになるのではないか? と中国政府は核拡散禁止条約にも見直しを示唆する。

しかし、中国は核兵器削減を目指すなら、アメリカとの対話を減らすのではなく、むしろ増やして、新しい国際的安全保障体制の構築を担うべきである。実際、アメリカの制裁を免れるために国際的な基準を守らない諸国への核施設建設を支援しないと約束したものの、その後もパキスタンやイラン、リビアにミサイルを提供した。その結果は、インドとパキスタンの核軍拡競争であり、中国自身の国境地帯にも緊張をもたらしている。アメリカの防衛構想も、こうした長距離ミサイル技術の拡散に対応したものである。

中国は、アメリカの選択が新しい核軍拡競争を開始するだろう、と予告する。しかし、それは不可避ではない。アメリカとロシアがABMの維持にどう動くか、そして中国が次に何をするか、によって変化するのである。中国は、さらに多くの核兵器を生産するのか、核技術を他国に輸出して世界中の核兵器増強を促すのか、あるいは核保有国のクラブにおいてアメリカなどとの対話を増やし、核不拡散の約束を守るのか? 結局、中国が核による威嚇を止めるしか、台湾にそのような防衛体制を断念させる方法は無い。

Germany: Rebirth of a salesman

ドイツは13月に年率3.5%の成長を実現し、再統一以来最高の水準に達した。失業率も1996年以来、初めて10%を切った。ゲルハルト・シュレーダー首相は、ドイツ経済を見事に転換させたのか?

それは景気循環の結果であり、ユーロ安に助けられ、企業の基本的な改善があったからである。しかし、過去の化石化したドイツ経済の問題が無くなったわけでは決してない。シェレーダーは、経済の変化に反対しなくなったのである。

イギリスのトニー・ブレア、アメリカのビル・クリントンと同じように、シュレーダーも市場に優しい新生左派のセールスマンになろうとしている。旧左派のラフォンテーヌ、「赤いオスカー」を辞めさせて、無名のアイヘルを蔵相にしたが、彼は次第に改革派として信頼を得て、緊縮財政を指揮している。

しかし、シュレーダー自身は市場型の改革を本気で信用しているのだろうか? 社会民主党の支持者はアイヘルの支出削減案に激昂している。他方、シュレーダーは、民間の建設会社フィリップ・ホルツマンを、6万人が失業しないために、救済した。25000DMの政府信用を与え、銀行による43DMの救済計画の保証を行った。こうした救済は改革にとって悪いサインである。首相は、こうしたことを二度と行わないと約束した。

それでも疑いは消えない。イギリスのVodafoneがドイツのMannesmannを買収しようとしたときに、あからさまな介入を行ったことは失敗であった。彼はそれを認めて、一層の外国資本による買収を促し、国内企業や銀行の再編・合併を加速させた。しかし、各州の国営銀行のような、競争を妨げる制度には手をつけていない。民営化や規制緩和は、EU委員会も言うように、公共料金を引下げるだろう。

ドイツ産業界は、厳しくシュレーダーを批判してきたが、今では支持している。技術革新の導入に必要な外国技術者の導入にも積極的な提案を行って、シュレーダーは評価された。法人税の最高税率を引下げ、課税最低限を引下げようとしている。年金制度に、初めて、民間信託基金の要素を導入しようとしている。

今では、多くのドイツ人が、もっとも保守的な労働組合でさえ、何らかの市場型改革が必要であると受け入れている。組合員は減少し、新しいドット・コム企業に参加を求めている。それは、かつてのような集団交渉を復活させるものではありえない。経営者は、集団交渉システムを完全に廃棄したいとは思っていないが、より大きな自由を求めている。

市場型の社会を目指して、シュレーダーはサッチャー型の改革論者になるべきか? 否、ドイツ人の多くはそんな指導者を好まない。彼らはもっと着実で、漸進的な変化を望んでいるし、シュレーダーがいなくても、ドイツはヨーロッパの生産基地であると確信している。シュレーダーの改革は犠牲者を増やしつつある以上、彼の行く手を心配したほうがよいかもしれない。

Mori’s B Team

クリントンが8年近くホワイト・ハウスに居る間に、日本の首相として7つも名前を覚えさせられた。来年1月に退くまでに、彼はおそらく8番目の首相に祝辞を述べることになる。日本の新しい内閣は、何よりもその短命な印象が強烈である。

自民党は二つの弱小保守政党と連立することで生き延び、森首相の任務は沖縄のサミットを無事に終えるだけであろう。河野洋平外相や宮沢喜一蔵相、堺屋太一経企庁長官の留任は、サミットを迎えるために海外で知名度のある人物を残したのである。結局、各派閥が推した閣僚は、1990年以来最高齢の内閣を、無節操にも作り上げた。

中尾前建設相の逮捕で、スキャンダルがこの内閣を崩壊させないとしたら、内閣の縮小案が出てくるかもしれない。その後、河野洋平や加藤紘一が首相になるとしたら、日本の政治における指導性の欠如を終わらせることができるかもしれない。

United States: Pump fiction

いつでも、どこでも、思いのままに自分で運転して行けることほど、アメリカ人にとって重要な自由は無いだろう。そのためには安い燃料が重要なのである。ガソリン価格の上昇は、既に大統領候補の政治論争になっている。それはカーターの時代にガソリン・スタンドで行列した記憶を甦らせる。

アメリカの不満は、イラクからの侵略を防ぐためにアメリカの軍事力を頼りとするサウジ・アラビアによって、単独の増産決定をすでに引き出した。確かに、石油価格の高騰がアメリカ経済という金の卵を生むガチョウを絞め殺しては、元も子もない。

しかし、結局は、この夏のドライブ・シーズンが終わらなければ、石油価格の論争も終わらない。そして、消費者の怒りは、電気代の上昇や停電による都市の暗黒でも沸騰する。冬の寒さは、再び暖房燃料の不足と価格高騰をもたらす。

ブッシュは南部の裕福な油田所有者に支持されているから、ゴアがこれを批判するのは容易である。追い詰められたブッシュはFTCによる価格操作への調査を支持した。それとともに、環境に関する連邦課税が価格を引上げたのだ、と、環境運動を支持するゴアを攻撃した。

アメリカが再び海外の石油生産者の人質とならないためにも、補助金だけでなくアラスカの北極圏で油田を開発することを認めるべきだ、と業界は主張している。

しかし、アメリカのガソリンは、それが高過ぎるから問題なのではなく、低過ぎることが問題なのである。ヨーロッパや日本に比べて、アメリカの石油消費者ははるかに安い価格しか支払っていない。そして石油が大幅に浪費されている。

もしアメリカの政治家が本気でOPECによるアメリカ経済の支配を弱めるつもりなら、1.資源節約型のルールを採用し、2.燃料に課税し、包括的な炭素税なども導入し、3.公共輸送手段にもっと投資すべきであろう。

Sunshine, with a chance of showers

ユーロ圏は、1992年の単一市場形成と違って、大規模な直接投資の波を引き起こせなかった。イギリスへの投資は、日本の自動車会社ではなく、やはり何よりもアメリカからシティの金融ビジネスに向かっている。しかし、政治的には北部の製造業が重要である。ブレア首相や他の労働党首脳が、北部のサンダーランドから選ばれている。

それでも、ユーロ圏参加はその正しい答えではない。イギリスの製造業を守るには、もっと直接的な支援策がある。ポンドの価値を低くしたいのなら、ユーロに参加することは唯一の方策ではなく、イギリスのようにヨーロッパ以外と多く貿易している国にとっては為替レートの安定を意味しない。

Financial markets: Down the hatch

世界の金融市場から流動性が減少しつつある。確かに資本は世界をより自由に移動できるようになったが、大きな取引には価格が変化するリスクをともなう。

株式発行よりも安価な社債による資金調達は、失敗すれば資金がまったく得られない。企業の側だけでなく、投資銀行の側でも、資産価値が変動するリスクに敏感になった。市場の不安定化が、投資銀行に一層の投資抑制と資産価格下落の悪循環をもたらす。仲介業者にとっても、流動性の失われた市場ではヘッジやスワップができなくなる。

かつて投資銀行は非常に安く流動性を市場に供給してきたが、今や企業のリスク管理技術やオークション市場の育成で、それができなくなった。他方、株式保有者は、市場の取引を円滑にしている投資銀行の株式を好まない。

このままでは金融市場の流動性が悪化し、市場の楽観はあるとき一気に後退するだろう。