U ショックと対応

初めに、この地域に一回目のショックが波及した際、アジアの各国政府の衝動は防御に向かった。各国通貨の信認を再強化する断固とした努力にふんだんに投資したのである。ポール・クルーグマンは皮肉を込めて、それを「コンフィデンス・ゲーム “confidence game”」と呼んだ(Krugman 1998a; 1999)。コンフィデンス・ゲームの目標は、どれほど費用がかかっても、ともかく市場を維持することであった(2)。しかし通貨利用者の選好が最初に予想された以上に説得戦術に反応しないことが明らかになるにつれて、新しいアプローチの探求が始まった。誰かそれに代わる選択肢を考えることができたのか?

カレンシー・ボード?

一部の人たちにとって、その答えは明らかであった。国民貨幣の管理という見せ掛けを放棄して、既にブルネイや香港が行っていたように、カレンシー・ボードと言う厳格な市場追随戦略を採用することであった。アメリカ人の経済学者、スティーブ・ハンクの著作(3)に刺激を受けた専門家の小さなグループにより長く温められてきたカレンシー・ボード案が、1998年初めに、スハルト大統領が5月に辞任に追い込まれる前まで、インドネシアで流行した短い時代があった。19982月、ハンクの助言に従って、アメリカ・ドルにリンクしたカレンシー・ボード・システムを樹立する計画を実施する意向を政府が表明した。スハルト自身、その計画を「IMFプラス」計画と呼んだ(4)

しかし、結局、IMFや他の債権者の圧力でその計画は破棄された。彼らは、かなり確かな理由で、それが実施されれば破局がもたらされると感じていたからだ。明らかに、カレンシー・ボードは香港を不安定化投機の容赦無い圧力から守ってくれなかった。当時のインドネシアに存在した途方も無い不確実さを考えれば、カレンシー・ボードの樹立はドル買いの洪水をもたらしただろう。それは際限の無い高金利を生み、今度は、その国の銀行システムに残されたすべてのものを破壊しただろう。インドネシア政府は、そのように危険な実験に取り組むことを考える前に、まず金融市場を強化して、対外債務を処理し、中央銀行の外貨準備を支持する必要がある、とすぐに説得された。従って、計画は19985月に正式に放棄されたし(5)、それ以来、この地域で同様の選択肢を模索する国は現れなかった。

通貨同盟?

他の者にとって、答えは異なる方向にあった。貨幣管理の放棄は、カレンシー・ボードを目指すのではなく、ヨーロッパの新しい経済通貨同盟(the Economic and Monetary Union: EMU)をモデルとした何らかの通貨同盟を目指すべきなのであった。要するに、市場同盟化戦略を強力に推し進めて攻勢に出よう、というのだ。同盟は数の力であり、それゆえ、全体の力は実際には部分を集めた以上になると期待される。結局、無数の分離した各国通貨よりも、単一の結合通貨の方がより魅力的であることを、疑う者などいない。金融危機の前にも、その考えは既に傑出した経済学者たちによって積極的に探求されていた(例えばEichengreen 1997)。この地域の問題が起きて、関心が急速に広まった。「その地域においてある種の貨幣的地域主義は、…避けられない」(Mundell 1997)。また他の論者は「アジアは…アジア通貨同盟を創るべきである」と書いた。(Walter 1998)しかし公式の反応の大部分は明らかに熱心でなかった(6)。経済的にも政治的にも、明白な理由によって、まだどの政府も自国通貨を完全に捨てる用意ができていなかった。

事実、アジアにおいて通貨同盟の政治的条件がまだ存在しないのは明白であった(7)。私が他で既に書いたように、この問題に関する歴史の教訓ははっきりしていた(Cohen 1993; 1998a: 84-91)。それが持続するためには、主権国家間の統一通貨には二つの前提条件のどちらかが要求される。すなわち、地域的な覇権が規律を強制する場合、または制度的なリンクの広範なネットワークが形成されているため、ただ乗りや参加者の離脱を無効にできること。どちらの条件も、今日のアジアに存在する証拠は無い。

貨幣の管理権を完全に服従させる、互いに今すぐ受け入れ可能な広範な関与体系は、まだ、アジア諸国に欠けている。この欠陥は、何も試みられていないことを意味しない。危機の前にも、地域内の中央銀行が集まって、情報を相互に交換し対話を促す、実務レベルの一連のフォーラムという形で、制度的な結びつきが形成され始めていた(8)。そういった集団化が、多くの者が望むように、関連付けられた紐帯のある種の織物としてまさに縫い上げられて、いつの日にか、貨幣的連携のもっと野心的な戦略を支持するかもしれない。しかし、そうした努力にもかかわらず、この地域に広がる真に金融的な連帯の伝統は、政治的連帯は言うまでもなく、ほとんど存在しないのである。

 円ブロック?

他方、この地域には明らかに潜在的な覇権国が存在している。すなわち、日本である。実際、アジアの支配的金融権力である日本が積極的に関与しないなら、この地域で金融的な連携が実現へと動き出す可能性は無い、と言っても良い。市場シェア拡大を協同で進めるには、国際化した円に基づく通貨ブロックを築こうとする日本政府による明確な指導力が必要だろう。しかしアジア諸国民は、日本の動機や関心について歴史的に抱いてきた疑念を捨てる覚悟ができているのだろうか? 日本は指導権獲得戦略を望んでいると言えるだろう。しかし、この地域の他の諸国が自発的にそれに従うとは決して断定できない。自国の経済問題に苦しんでいる東京が円の地域利用促進に効果的キャンペーンを続ける能力が今もあるか、それも分からない。実際、公式の円ブロックに近い、政治的に直ちに受け入れられる案は何も無い。

確かに、日本の覇権が比較的曖昧にしか貫徹できず、現在の能力に制約があるとしても、日本とのより控えめな共同行動の可能性は残されている。例えば、1996年前半に、為替レートの安定化を支援するため、必要なときは日本銀行から円借款を利用できるという協定に、9ヶ国に及ぶ近隣諸国政府が喜んで合意した(9)。また1997年、最初のショックが襲ってから、投機的な攻撃に対して各国通貨の防衛を助けるため、東京(日本政府)の提案した新しい地域的な融資制度については、近隣諸国がさらに熱心に支持した。それは即座にアジア通貨基金(the Asian Monetary Fund: AMF)と呼ばれるようになった(10)AMF案は、日本がアジアの金融問題で市場指導権獲得戦略をもっとも大胆に追求したケースであった。金融問題におけるIMFの中心的な役割を脅かす恐れがあると公然と訴えることで、アメリカはそれを阻止した(11)が、その考えは関心を呼び続けた(Bergsten 1998)。

さらに、国内の経済問題と民間投資の海外からの着実な引上げにもかかわらず、東京はより国際化した円を基礎に地域の協調を促す新しい方法を模索しつづけている(Hughes 2000)。199810月に、宮沢喜一蔵相は300億ドルのアジア向け追加金融支援策を発表し、それはすぐに「新宮沢構想」と呼ばれるようになった。そして2ヶ月後には、日本が適当な時期にAMF案を再生させる強い意図を持つことを明確にした。(Financial Times, December 16, 1998)同様に1999年後半、日本の通貨当局は円のデノミ案を推進し(それは当時、ドルやユーロに対して100円以上した)、外国の取引で円の使用を促そうとした。通過の表示を簡単にすることは「円をより国際的に理解しやすい通貨にする点で有効かもしれない」と、ある高官は語った(New York Times, November 19, 1999: C4)。20005月に、日本政府はアジアの13ヶ国の政府と円を中心とした新しいスワップ・ネットワーク協定を結んだ。(The Economist, May 13, 2000)明らかに、日本はアジアにおける円ブロックを諦めるつもりはない。しかし、その進展は革命的なものというより、本質的に緩やかであろう。まだ当分、問題は残されたままである。すなわち、すぐにも襲ってくる危機に対して何か他の選択肢は無いのか?

資本規制?

次第に、資本規制という選択に注意が向かい始めた。市場維持戦略は、従来、説得よりも強制により多く依拠していたが、中国の顕著な例に影響を受けた。中国は、破産寸前の銀行システムや赤字の続く国営企業、失業の増加など国内の問題を抱えていたが、通貨危機の最悪の破壊からは免れた。他国の経済が不況に陥る中で、中国の成長は少ししか揺るがなかった。そして他国の通貨が、台湾やシンガポールでは10~20%、インドネシアでは80%も価値が下落したのに、中国の元は価値を維持した。一つの主要な理由は、中国の膨大な為替・資本規制という鎧である、と観察者たちの意見は一致する。そのため国内外の通貨利用者がその価値の下落に投機することは不可能であった。同様の制限は他国にも有効であるだろうか?

最も劇的な反応はマレーシアから起きた。マレーシアは19989月に自国通貨リンギの交換性を、貿易と投資の両方について、厳しい管理下に置いた。クアラ・ルンプールの新しい戦略は中国の戦略を模倣することを十分に意識して採用された。ある政府高官は「マレーシアの新しい通貨管理は中国モデルに依拠している」と語った(12)

危機の最初の年(1997年)に、マレーシア経済は7%近く縮小し、リンギは40%、クアラ・ルンプール株式市場は75%も下落した。8月の末までに、この国の権威主義的な指導者、マハティール・モハマド首相は、もうこれ以上、大蔵大臣(そして彼の後継者とみなされていた)アンワル・イブラヒムの正統派的な政策に我慢できなくなった。アンワルは解任され、その後、投獄された。そのような政策はマレーシア経済を滅ぼす西側諸国の陰謀に単純に協力するだけである、とマハティール首相は確信していた。ジョージ・ソロスや「ユダヤ人」に率いられた国際投機家たちの手から支配権を奪い返すときが来た、と彼は断言した。それ以来、リンギによる取引は注意深く管理され、為替レートは厳格に固定された。そしてマレーシアへの投資は、最低一年間は送金できず、この国に留め置かねばなかなかった。それは、こうした規制無しには不可能と思える、国内での拡大政策を採る余地を確保するために考え出された。金融政策が直ちに緩和されて、金利が急激に引下げられたし、10月には、かなりの減税策と大幅な新規財政支出を組み合わせた新しい予算が成立した。マハティール博士は立法府議員たちにこう述べた。「この計画は、マレーシアをアジア金融危機の束縛から解放し、マレーシア経済をもっと力強く歩ませることを目指している」(13)

マハティール首相のラディカルな新しい為替管理が論争を招いたことは当然であった。彼の謀略説をあざ笑うのは簡単だが、それにもかかわらずマハティール博士は、与件として資本の移動性を最優先してきた、貨幣の管理に関するそれまでの通常の見解に対して困難な挑戦を行ったのである。数十年間、新興諸国は金融市場の自由化が持つ長所を教えられてきた。しかしここに至って、まさにその反対を行う政府が現れた。マハティール博士の大胆さは強力なデモンストレーション効果をもたらすだろう、と多くの者が考えた。もしマレーシアが、新たに導入した国際的投機からの隔離政策の結果として、本当により急速な回復を実現すればどうなるか? その実験は注意深く見守られた。

マレーシアだけではなかった。この地域のいくつかの国は、特に韓国と台湾が有名だが、資本移動の浮動性を制限する残された為替管理を常に維持してきた。むしろマハティールの行動に先だって、マレーシアほど厳格(draconian)ではないが、台湾などが既に新しい抑制策を採っていた。一例としてフィリピンでは、資本の返済や利潤送金を含む特定の取引に対して1998年半ばに制限を復活した。またもう一つの例は、むしろ一層驚いたが、この地域の真に自由放任型資本主義の最後の牙城と長く考えられていた香港が、株式市場や通貨市場における投機を制限する新しい一連の規制を夏後半に整備した。

それゆえ、1998年秋までには、資本規制がもはや禁じられた話題でなくなったことは明らかであった(14)。ある研究が指摘したように、「資本への拘束は、アジアの政策担当者たちの心に、甦った時代の発想である」(Wade and Veneroso 1998: 23) 。それを好むと好まざるとに関わらず、かつて時代遅れ、介入主義的時代の遺物、として無視されていた方法が、今や政策議題に戻ってきた。

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