Sunday, August 1, 1999

TVで朝の子供漫画(夏休みだからか?)や、日本から送ってきたVideoでミクロ・マンを観て、子供たちと遊んだ。

一日中、家に閉じこもっているのは良くない、と主張して、子供たち3人を連れて散歩に出た。Nickの奥さんに聞いた小学校を一つでも見ておきたかった。

娘に地図帳を持たせて、通り名から地図の位置を見る方法を教えてやると、熱心に地図を調べた。彼女の知識欲、興味、行動力、そして皆を助けてやろうという熱意に、私はいつも感動する。

Talbot Schoolは、前に見たときよりも立派な小学校に見えた。教室の中にはきちんとした椅子や机が並び、1年生の部屋だろうか、時には人形などでも飾られていると思った。末っ子に、ここへ来たいか? と尋ねた。彼はあっくんと一緒なら来る、と答えた。

娘の道案内で、私たちはTalbot Roadから教会の前を右に曲がり、North Park Avenueに沿った未知の領域を開拓し始めた。最初の角で、また左に曲がると、落ち着いた前庭のある住宅街であった。また右、また左と、ジグザグに進んで、Lidget Laneという幹線に流れ込む、かなり立派な道路に沿って歩いて、Post Officeのある商店の少し並ぶ角に出た。

その向こうには10歳以下の子供のための児童公園があり、3人はくたびれていたはずだが、急に元気になって遊び始めた。滑り台を兼ねた「秘密基地」、ウンテイ?や輪の連なった橋があるジャングルジムなど、新しい遊具が少しあった。ブランコもあったが、娘は鉄棒が無いのを残念がった。鉄棒があれば、ぐるぐる回って、皆を驚かせてやれるのに、と実に悔しそうであった。そんな無邪気で勝気な彼女を見るのは、実に楽しい。

私たちが目指していたのはGledhow Primary Schoolであった。ここは校庭も広くて、かなり気に入った。家からの距離は確かに遠かったが、私は二名小学校と同じか、むしろ近いのではないか、と思った。

それからまっすぐ帰れば良かったが、散歩で同じ道は歩かない法則、を適用し、娘の見たがった高校のFieldを見る回り道を選択した。そのほうが、もう一つの可能性である、Allerton Grange High SchoolCaampusに並ぶMoor Allerton Hall Primary Schoolも見れた。

Lidget Laneを高校のほうへ進むと、再び商店の少し集まった角があって、Fish & Chipsや酒屋、自転車屋などがあった。小学校を見ながらCampus内を通り抜けできれば、少しは近道だったが、さすがに日曜日で門は閉じていたし、通りぬけ禁止の看板があった。私たちは、すっかりくたびれた二人の男の子を励ましたり叱ったりし、休憩を取って、何とか進ませた。Bentcliffe Gardensへ右折し、さらにTalbot Avenueで右折して、校庭の周囲を回り込んだ。

こうして漸く、Talbot Crescent Avenueで左折し、家の前に至る通りで右折できた。このように、いくつかの地名は地域的な主要地名を重ねて方向感覚を示してあると理解できた。わたしは、Allerton 同盟からCrescent連合に変わる中間地帯だ、と我が家の位置を説明した。

くたくたの子供たちは、帰宅するなり妻からIce Creamをもらって渇きを癒した。私もIce Creamに料理用のWineを懸けて食べた。皆でVideo大会をして、元気に夕食まで騒いだ。

夜のTVで ”A Time to Kill” というアメリカ映画を見た。10歳の娘をRapeされた黒人の父親が、法廷に向かう犯人たちを射殺して、殺人罪に問われた法廷劇である。白人の若い弁護士は、正常な判断のできない状態にあった、として無罪を主張した。その裁判がKKKなどの人種差別主義の狂気により街中の騒乱や放火、リンチを招く。遂に、陪審員の全員が、犯人の有罪を一旦は決めた。が、弁護士の最終陳述によって結果が逆転された。黒人の父は無罪となった。

無罪、というのも無茶な・恐ろしい気がするが、流れ弾で片足を失った裁判所の男性が、犯人の無罪を主張したり、警官の中のKKKメンバーが弁護士の仲間の女性をさらってリンチにする。巨大な十字架を焼くし、黒人に協力する白人を殴り殺す。はては弁護士の家に爆弾を仕掛けようとしたり、ついには放火して全焼させる。こうしたことは、社会生活において起こり得ないことであった。しかし、人種差別という要素が絡めば、一気に現実に起きるのである。日本でもそうなのだろう。日本ではない? と自問し、外国から見れば、やくざが市民生活を支配している様子は異常であろう、とも思う。

弁護士は、気力の限りを尽くして、事件の本質が人種差別による偏見にあり、陪審員自身の心をも深く冒していることを理解させる。陪審員は目を閉じて、10歳の(娘と同じ歳の)無力な娘が、酔った二人の無頼漢に暴行されて、死ぬほどの重症を追った事件経過を思い出させる。それはひどい事件であった。しかし、陪審員はそれらを既に知っていた。たとえその男たち(犯人たち)がいかにひどい犯罪を犯したかもしれない(法廷で争われなかった)が、それを父親が自分で射殺するのは法を無視し、憎しみに駆られて人を殺す冷血漢でしかない、と。

しかし最後に、この過酷な殺人劇に、弁護士は色を与えた。今、この少女が白人であると想像してみて下さい、と。すべて白人の陪審員たちで構成されていた裁判が、すでに暗黙に人物の黒人と白人を前提していたのである。白人の少女がレイプされたシーンを想像しても、この話を同じように判断できるのか? 彼ら自身が自分たちの偏見を抑えられなかったことを知ったと思う。判決は翻された。

それは感動的かもしれないが、恐ろしい映画である。人種偏見は容易に克服できない、という印象だけが強い。警察も、裁判所も、こうした犯罪には無力である。個人の良識や教育も、よほど勇気ある行動がとられない限り、常に偏見に冒されていく。市民生活が混乱にまみれて、正常な判断を失うときには、人種偏見などが容易に社会を動かすのである。黒人と白人の所得格差、白人の失業者、黒人の自己主張、社会的な移動性の加速、その他、市民生活の安定を冒す社会変動は強まるばかりではないか?

私にとって、この重要な最後のせりふが、またしても聞き取れなかった。妻が教えてくれたのだ。私は、Now, Emergency White.と聞いた。意味不明だ。正しくは、Now, Imagine she is white. であった。深くため息をついて、私の欠如を嘆いた。