5月23日(土)〜5月25日(月)

San Franciscoは思った以上に遠く、運転は大変だった。北上して行く時は101から17号線でMontereyへ外れ、それからSan Jose経由で280を走ってやっと着いた。Challon Courte Hotelの2階の部屋に入ったが、表の騒音が気になって結局10階に部屋を変えてもらった。これは正解だった。

101は走っても走っても広がる大地を爆走するばかりで、山の姿を不思議がったり、牛の群れに歓声を上げたりするのにも疲れてしまった。畑も牧場もとにかく広いのだ。朝食を買いに入ったGas StationのSnack類にはひさしぶりにアメリカの食のとんでもない相違を実感した。時速70マイル前後、約110〜120キロで、朝7時前に出たが、Hotelに着いたのは夕方7時ごろだった。

途中のMontereyでは水族館に行った。狭いながらも行き届いた配慮とStaffの丁寧な説明に感心した。そしてもちろん、海がきれいだ。 San JoseではSilicon Valleyを捜したが良く分からず、Stanford Univ.の表示もあったが、それはまったくの原っぱで、ひたすら丘を昇り降りしていた途中のことだった。広大なCampusは広すぎて、どこにも見当たらなかった。

San Franciscoの第一印象は悪く、Los Angeles以上にHomelessが多く、得体の知れない人々で街が騒がしいことに驚いた。Hotelは中心街のGeary St.にあるため、便利というより危険で、Parkingに一日18ドルも取られた。しかし、10階に移動してからは、それなりに都心の高層生活を楽しんだ。誰かの大声や深夜のサイレンも不気味な効果音だ。

Japan Townに近いと言うので期待したが、大して活気の無い商店街に失望した。日本の食材を買い込むために持っていったクーラー・ボックスには、本や中華街で買ったTake Outのご飯が入った。閉店間際の紀伊国屋で漫画(「ぬーべー」と「コナン」)や本を買い、三船という定食屋でうどんや寿司、エビフライを食べた。日本の文化は見世物程度に飾られているが、そのエネルギーはどこにもない。街の衰退を嘆いたJane Jacobsの主張がアメリカの都市では当り前のことだと思った。結局、街は通りを歩く人々の歓声で生まれるのだ。

San Franciscoは坂が多いと聞いていたが、その程度は尋常でなかった。町中がジェット・コースター状態だ。一方通行が多く、運転するのは妻のNavigateなしには不可能だった。次第に慣れてくると、いろいろと面白そうなところも目に入り、二回目以降は楽しめそうな良い街に思えた。

二日目は、朝食を捜してWharfに行った。監獄で有名なAlcatraz島を望む海岸で写真を撮り、妻がチラシで見つけたPier39Under Water Worldという水族館に入った。自分は期待してなかったが、これはすばらしい機会だった。原理は簡単である。湾の底に透明のチュ−ブを渡し、ゆっくりと進んで海底が見物できる。しかし、その姿は感動的だ。多くの種類の魚、サメ、エイ、ヒトデやカニ、イソギンチャクSea Anemone、たこ、などが砂地や岩礁、杭、海草に紛れて実際に生きている。水族館とは全く違う景観全体に圧倒された。二周したが、決して飽きない。

予想以上に時間を掛けたために、間違って入った有料駐車場の値段が高いことにがっくりした。ともかくGolden Gate Bridgeを見たいと思って、その橋脚が建つ岸壁にある旧陸軍基地、Fort Pointに行った。激しい海流による波に洗われて、Fort Pointから見上げるこの著名な鉄橋は見ごたえがあった。基地の跡地はだだっ広く、丘には自然が満ちている。要塞の残骸に登りながら、銃口や大砲を動かす仕組みを考えて子どもたちに説明した。戦争でたくさんの人がここへ来て、勝っても負けても、その内の少ししか無事に帰れなかっただろう、とも教えた。

いよいよ目的のBerkeleyに向かう。FWY80で東に向かう巨大な鉄橋を目指すが、改めてSan Franciscoの坂を実感した。橋が遠くに見えるのだが、そこに至るまでに3つも大きな丘を越えねばならない。まっすぐな道の向こうにある橋に自動車は上昇し、下降し、上昇していく。しかも生易しい勾配ではない。良くこんな所に街を作ったものだ。そして道路を真っ直ぐに作ってしまう。良くも悪くも計画都市だな。

Berkeleyに着いたら既に3時頃で、MacでHamburgerを食べてから目的の古本屋を捜す。駐車場で子供たちを妻に任せるが、残念ながら十分な時間はない。慌ててMoesへ行った。そこから近かったが、出入り口のCashierでPolitical ScienceはThird Floorとだけ聞いて、他を見る暇も無く、棚で本を探す。129ドル余りでKrasner, Smith, Lipson, Meier, Kahlerなど、何とか11冊を買った。しかし、満足した本は半分くらいかな。4階建ての古本屋だから、もっと時間があれば良い本が見つかっただろう。次回だな。

妻は既に自動車内で待っていた。公園にはHomelessが多く、子供たちの騒ぐ声を気にするらしい。帰る時Bye!と言ったら、手を振ってくれた、というから立派だ。暗くなる前にHotelを目指す。今度は二重の橋の上を走行し、橋の大きさとSan Franciscoの高層ビルを観察できた。ただしこの方向は有料で2ドル払う。瀬戸大橋に比べればただみたいなもんだ。

夕食にはJapan Townの刺し身など食べ放題を選んだが、近くの韓国料理屋で焼き肉を食べたほうが良かったかな。少しの時間でも街の印象は変わる。危険な街とは思うが、もっと知れば面白いかなと、妻と次の旅の話をする。皆で順番に風呂に入ったり、TV Gameをしたり、漫画を読んでから寝る。

三日目はまだ帰りのRouteも決めかねていた。非常に遠いとすでに分かっていたが、いろいろ見たいところがまだまだある。しかし当初の1号線を南下する計画は無理かな、と思った。

まずはGolden Gate Parkを目指す。広すぎて散策する暇が無く、海岸で写真を撮ったら食糧を求めて昨日の海岸線を目指す。坂道を昇り降りしていると偶然にも中華街に出くわしたので入ってみた。これは中国人の気合いがこもっていて力強さと不気味な魅力、おいしそうな料理や臭い、多くの人で賑わっていた。近くのHoliday Innの地下駐車場に停めて散歩することにした。

中華街は油の臭いと溢れる原色、行き交う人々や自動車の騒音に沸き立つ。材料を運び込むトラックが数センチの隙間で路地に曲がり込む。また、それを嬉しそうに眺める人が居る。お粥とワンタン・スープをたのんだが、これは期待外れだった。Take Outもしたが、多くは食べれなかった。通りを歩いて漢字と中華宮殿になったBank of Americaで現金をおろす。慎重に吟味してブタ慢と良く似たものを7個買った。3ドル50セント。これは美味く、その日、一日中助かった。

帰る用意は出来た。280で南下を始める。立体交差がよく分からず、ともかく来た時と同じ道でMontereyへ向かう。そこで中華の昼食だ。と思ったが、Visitor Centerでトイレを借りただけで、ブタ慢をもぐもぐほおばり、17-Mile Driveを捜す。丘の上のほうへ出ると、ここが非常に高級なResortで、次はここだな、と互いに話す。走るうちに海岸へ出た。

海岸の景観は至上のものだった。荒々しい岩もそれに向かう波も、風に傾く樹木やさまざまに花を揺らす草も、陽光と詩情に満ちている。車を停めて子供たちと降りた。空は澄んで、海が眩しい。子供たちがヤドカリを手に歓声を上げる。娘を立たせて何枚か写真を撮った。

その後も12ドルを支払ったこの観光道路は美しい景色を満喫させてくれた。ここにはアメリカでも有数の別荘地とPrivate BeachやPrivate Golf Courseが並んでいる。どんな人が住んでいるのか、アメリカのHomelessとEstablishmentを考える。Sea Sealも見れるという、岩の穴からリスが出てくる海岸で写真を撮った。

Carmelから、道は1号線につながっていた。そのまま南下することにしたが、これは大変な選択となった。101にも行けたのだが、海岸沿いの1号を走ることになった。次第に道は蛇行し始め、海岸は切り立った絶壁となった。速度は40マイル前後。急なカーブでは20マイルに落とすしかない。壮大な景観と太平洋に感心するものの、時間ばかりが経って、一向に先へ進まない。夕方になって漸く地図にある最初の地名Big Sirを越えた。

それからSan Simeonまではもっと距離があった。次第に道路は直線で高速運転が出来るようになったが、夕闇の中でMoro Bayを越えて、101に合流するSan Luis Obispoに着く頃には暗闇の中を走っていた。もはや今日中に帰り着くことだけが目標だった。Santa Barbaraまでの距離が出始めてから欲が出て、深夜の高速運転にも慣れてきたから速度を上げた。Gabin Lyialや志水辰夫の小説を思い出す。70マイル以上、追い越す時は80マイル前後で10時の到着を目指す。道路は真っ暗で車線も良く見えない。山なのか、草原なのか、横に海があるのかどうかも分からなくなった。多分、きつい風に車が揺れてハンドルを取られる時には海岸沿いを走っていたのだろう。

…・・ 10時過ぎに着いた。