Saturday, May 22, 1999

Disneylandに行ってきた。Anahyme Stadiumに近い、Los Angelesを越えたところにあった。101を走って5号線に抜けてから少し先にある。行く途中、天気が悪く、雨がかなり降ることもあった。

9時過ぎに息子とDrewを乗せて、DrewDadに挨拶して出かけた。9時頃に帰る、と妻は言ったが、彼はもっと遅くなってもいいよ、と言った。彼は待ち時間が長くかかることを知っていたから、まさにその通りになった。

Disneylandは私にはまるで期待外れの、というか悪い方の予想通りのところだった。まず、とんでもない人出と大行列である。11時半に着いたが、駐車場は満杯で、隣の施設の駐車場に入れて送迎Shuttleに乗った。入場券売り場は20ほどのBoothに行列が出来て、結局、30分以上も待たされた。

入ってみても人だらけ。ともかく一周する列車に乗ろう、と行列し、3本ぐらい待って漸く乗れた。既に2時を回っていたので、息子は空腹で無口になり、皆、元気が無い。一度、二階の席が無くて、次のBusを待ってから、二階建てのBusで白雪姫の城の前まで行った。何か食べようと、子供達をTableに座らせておいて、Hot Dogを買いに行った。HamburgerFried Chickenも見当たらない。Disneylandが飲食物の持ち込みを禁止している、ということにも腹が立った。私はそれからHot Dogの行列に加わり、末っ子がついて来たが、とてもきりがないので一旦連れて帰った。その後、待つこと40? 電子レンジで暖めただけのPackされた六つの袋とChipsDrinkを下げて、空腹で不機嫌に話も出来なくなっている家族に届けた。

食べれば元気も出たが、その後の乗り物毎に果てしない行列待ちで、心身に疲労を累積させた。私たちはRocket(と言っても、日本でタコの足に座席が着いて回るものと同じ)に乗り、その遠心力に振り落とされそうな恐怖だけを味わった。末っ子と乗ったが、なんて危険な遊具だ、と憤慨した。

Mountain Rideとか言うJet Coaster風の乗り物も、延々と長い行列をぞろぞろと待ちくたびれて、漸く入り口かと思っても、それからまだ蛇行する正式のApproach Alleyをぐるぐる辿らされた。アメリカ人がこれほど我慢強かったのか、と唖然ととした。これは彼らの大嫌いなソ連型社会主義である。各乗り物に料金は取らないから、人気のある遊具の行列は長くなるばかりで、待ち時間に対して時間の浪費と疲労・苦痛で支払わされる。世界中の旅行者とアメリカ中から来た若者やならず者、奇声を発する連中に挟まれた憮然とした家族連れが、他に仕方ないからと言う理由だけで行列を我慢し続ける。こんなとんでもないSystemを維持するのは最もアメリカらしくない「夢の国」だ。

やっと乗れたMountain Rideは、また(私に言わせれば)趣味の悪い時代遅れの危険な恐怖列車だった。山の上から怪物のいるコースをぐりぐりと蛇行し、バウンドし、他のMobsleyと交錯して接触しそうになりながら落ちてくる。最後は水面を叩いて、飛沫とともに帰還できる。その趣味が悪いのは、肉体的な苦痛を味わい、物理的な衝突や落下の危険を強め、ただ単に危険であると言うだけで悲鳴を上げることを楽しめるかのように誤解している点である。おまえは恐かっただろう、とか、落ちそうだったな、とか。他には何の内容も無いのだ。

待ち時間ばかりかかって、少ししか観ることができなかった。Story BookとかいうMiniatureで出来た城や村、海賊船、などを見て回る船は楽しかった。唯一、Disneylandの価値を発揮できていると思った。しかしSmall Worldは、世界中の民族文化展示場であり、何とも早、薄っぺらで何の内容も無い子供だましの人形と仕掛けの中を、「小さな世界」の合唱だけ響かせて船が回っていた。

子ども達をCarouselの行列に残して、私は別れて行動していた妻と末っ子を探した。とんでもない人込みの中で、これは不可能だった。さんざんうろついてから、やっと会えた。

もう6時前になっていた。帰るはずだったが、子ども達はどうしてもGo-cartに乗りたがって、また行列した。がたがたと一周走って、やっと帰ることになった。出口で土産売りの小さな店に立ち止まり、Star WarsSwordなどを買った。このSwordは、実にSimpleで、安く、気が利いている。全米ヒット商品になっている、と確信した。これでまた一人、アメリカに富豪が生まれただろう?

Shuttleに乗って、車で駐車場を出たのは8時前になっていた。私がMacDonaldに入れずに行き過ぎてから戻って、やっとHamburgerを食べたのが8時半。妻は公衆電話を捜しに行ったが、前で長話しするアメリカ人に呆れて怒りながら帰ってきた。もう一つの電話は故障していたらしい。

私は、食べると眠くなるので末っ子のFried Potatoをつまみ食いし、Colaだけ飲んで、9時前に走り出した。妻は何も食べない。公衆電話を探せ、と言うが、適当な出口が無く、妻の不満を我慢して聞くしかなかった。漸く10時前にFWYのすぐ外でGasoline Stationから電話する。Drewの家族の了解を得てヤレヤレと安心する。そして、アメリカ人はGas Standを中心に生きているのだな、と不満兼冗談を言った。 Gas StandGasolineJunk Foodを仕込み、Toiletを済ませ、電話を掛ける。そしてまた、Gas Standまで走る・・・

それからもまだ遠かった。山を越えて夜景を観た。息子と末っ子はとっくに眠っていたが、Drewと娘は大笑いしてなぜか最高に楽しそうだった。彼らの話はまるで理解できない。歌を歌ったり、日本語の冗談を説明したりしていた。漸く皆が寝静まった。真っ暗な高速道路を走り続ける。Camalliroを過ぎ、Venturaの表示を見て、やっと帰宅時間の予想を持てる。しかしSanta Barbaraに着くや、101は閉鎖されていた。Bath St.Exitを出る。Stateを少し走り、Missionで入れたかもしれないが、妻はLa Cunbreまで行こう、と言うので、下を走る。その後、101に戻って、Fairviewに着いたのが11時半だった。

眠っているDrewを家に届けて、遅くなった詫びを述べた。おまけに彼の帽子を無くしてしまった。とても親しく、同情的に対応してくれたのが印象的であった。初めてDrewDadに深い感謝と親愛の情が湧いた。

私はクタクタで、卵かけご飯とチキン・ラーメンを食べた。出かけている間に録画予約したC-Spanはうまくできたみたいだ。ともかく無事に帰れた。