Thursday-Sunday, October 8-11, 1998

Yosemite National Park

三泊四日のYosemiteへの旅に出た。子供たちが学校から帰ってくると、その手前の都市であるFresnoに向けて出発した。私は直前までSeminarMeetingの整理を少しでもしておこうとコンピューターにへばりついた。妻に言われて自動車の窓を拭き始めてから、漸く旅行に行く気分になった。景色が良く見えるように、すべての窓を内側も拭いた。子供たちとばたばた大騒ぎして出発したが、既に3時頃であった。帰宅するまでの走行距離を測ってみた。約750マイル(1200km)。FresnoまではFWY101-46-41と走って、約5時間かかった。妻が電話で予約してくれたFour Seasons Hotelに泊まった。

問題は自動車のブレーキが異常な摩擦音をはっきり響かせていたことだ。私はその時までほとんど気づかなかった。1ヶ月ほど前、Texacoで整備に出した時、ブレーキについても説明されたが、後23ヶ月は大丈夫と聞いたように思う。しかし、確かに走行距離は45000マイルを超えていた。その目安も説明されたが、出発してから気づいても遅い。車体の何処かが擦り減っている。ブレーキを掛けるたびに、車体がちぎれて操縦できなくなる不安がよぎった。結局、この問題で気をもみ、運転ばかりで非常に疲れた。初めてYosemiteを見た感動が半減したことは間違い無い。

エンジン・ブレーキを多用し、異常な音をできるだけ聞かないで済むように努めた。それでもアメリカの旅は大変遠い。しかも途中には、何も無かった。走り抜けた膨大な陸地で、人間よりも家畜の方が多かったのは確実だろう。Fresnoはこの平原になぜ存在し得るのか理解できないような大都市であったが、それ以外に通り過ぎた人口が1万人いたとは思えない。流町より少ないんじゃないか、と冗談を言った。

遠くの方に山が連なっていた。道路は果てしなく真っ直ぐに伸びている。はるか向こうに走る自動車は、蜃気楼に浮かぶラクダのように、輝く路面とかげろうの中でゆらゆらと揺れた。その両側はほとんど草も生えていないが、柵を巡らせた牧場のようなものが何処までも広がる。ぽつり、ぽつりと木が生える。農家は、時折、何軒かあった。たいていは一軒だけが防風林か防砂林のような数本の木々に囲まれて建っていた。農場を愛し、農作業に生きがいを見出せなければ、とても生きていけない気がした。自分達なら気が狂うかもな、と私は言った。ここに生きる者の悲しいような強い意志について、私は考えた。それ以外は、アクセルを踏むだけだ。

この何処までも広がる大地は、思慮深い孤立した哲学者か、強烈な野心家を、アメリカ思想の起源としたように思う。

砂漠のような粗放地以外、道路沿いに綿花畑やぶどう畑をいくらか見た。綿摘みのイメージは、差別された無学な黒人の、貧しい暮らしぶりであった。妻が映画で見た情景を話していた。(映画では)綿花畑の道を、白人の子供たちを乗せたSchool Busが走る。途中、何時間もかけて学校まで歩く貧しい黒人の子供たちを乗せたりはしない、と。

中古の農機具を大量に並べて売る店が二軒ほどあった。今では巨大なトラクターがわずか数人で農作業を終わらせてしまう。ただし農産物価格の変動で、巨額の債務が残るかもしれない。牛や馬が放牧されていた。ガソリン・スタンドと酒Liquorを売る店。そして電化製品を売る小さな店も。しかし多分、買物はまとめてFresnoまで行ってするのだろう。こうして畑には、何も残されない。

Fresnoはなぜが人口が多く、多分、数十万人(100万人近く?)いるのではないか。それまで片側1車線で対面走行していたFWY41は、突然、高架の片側3ないし4車線となった。Los Angelesを思わせる町並みだ。さまざまな施設が整い、多くの観光資源もあるらしい。しかし、基本的には流通・消費都市ではないだろうか? この砂漠の真ん中に巨大な都市があること自体、アメリカの膨大な浪費を感じた。なぜ小さな美しい農村が点在しているだけではいけないのか?

既に日も暮れていた。夜道でHotelを捜すのは心配だった。結果的には比較的容易に見つかったが。運転の緊張と疲れで、Hotelでは眠れなかった。ともかく子供たちとJacuzziに行った。きれいなPoolもあった。すでに夜もふけていた。いつ見ても子供たちがとてもかわいい。自動車に乗っているだけでは退屈だろうが、彼らは良く我慢し、良く三人で遊ぶ。

ブレーキが心配で、夜の間にARCOでガソリンを入れ、そこで聞いた近くの整備工場Pep Boysを尋ねた。しかし、Mechanicsは手が空いていないので、翌朝9時に来い、と言われた。できるだけ早くYosemiteに着きたかったので、残念ながら修理には行けなかった。

いつでもアメリカの食事は大変まずい。妻の知恵で?カップ・ラーメン(うどん・そば)が大量に持ち込まれていた。明日のYosemiteには持ち込めない(Black Bearが自動車を襲う)から、ということで、これが夕食となり、かなり不満だった。子供たちが黙って食べている以上、自分も食べておくしかないな、と変な納得をして食べた。

Curry Village Cabin

朝はそれほど早く出られなかった。8時過ぎに出発し、すぐ近くのDonuts屋で朝食を調達した。家族の分を幾つも買って、3ドルでお釣が来た! 私は運転しながらそれを二つ食べた。

41号線を2時間近く北上したと思う。道路は山道に入ったが、非常に合理的に設計されていて、運転は極めて円滑にできる。この大陸に合理主義的な道路を張り巡らせたアメリカ人の理性に感服した。周りに岩場や茂み、潅木が増えて、いつの間にか森の中を走っていた。

漸くYosemiteの入り口に着いた。Cash$50支払ってGolden Eagle Passを購入した。それからも公園内の折れ曲がった道路を1時間ほど走った。長いトンネルを抜けると、そこがYosemiteだった。眺望の得られる所にはParkingがあった。遠くに有名なHalf Domeが小さく見えた。その両側はすでに神話的な世界を形作っていた。漸くYosemiteが岩山の芸術であることを知った。巨大な岩石に囲まれた高地に、木々や草花が茂る。天から落ちてくるような滝が、その途方も無い岩石を何百メートルも落ちていた。不思議な潅木と清流があった。川沿いの駐車スペースに停めて、子供たちと水に触れる。ここを囲む巨大な岩石の風景は、まさしく神の芸術だった。

わたしたちは、Yosemite Lodgeで宿泊を尋ねたが、それはCurry Villageだと教えてくれた。もう少し走ってCheck Inを済ませ、目的のCabin 50Bに着いた。風呂付きの山小屋で、外観はみすぼらしいが中は快適だ。木製のBedや、簡素な、しかし暖かみのある内装が非常に気に入った。天を刺す巨木の間に、多くのCabinTentsが並んでいた。その林の後ろは岩の壁であった。非常に大きな岩の存在と、巨木の肌に感嘆した。子供たちに何か教えてやりたかった。

Mirror Lake

まずは腹ごしらえだ。Yosemite Villageに向かい、Visitor Centerで地図を買う。これが基本よ、と日本のガイドブックを読んでおいた妻は言うが、さほど役に立たないなと思った。大きなStoreCafeteriaを確認する。ここで駐車しておいて、Shuttle Busで廻るのが良いようだ。

Storeの裏のHamburgerを買って食べた。これは美味しかった。実際、Yosemiteの食事は、どれも結構満足できた。ここは世界基準の観光地だから、と私は変な説明をした。屋外のTableで食べていると、大きな美しい青色の鳥が近くの枝にやってくる。残念ながら鳴き声は良くないが、姿は興味深い。尾が少し長く、頭には羽がスポーツ刈り風に立っていた。ChickenPotatoFryも買って、子供たちも良く食べた。

子どもでも行けそうなTrailとして、妻がガイドブックから二つを見つけ出し、行くことにした。まずはBus16番の停車場(全部で19あって、Shuttle BusYosemite内を一方通行で循環する)で降りて、Mirror Lakeを目指す。

(以下省略)