歴史的要因その1

 

○京都の歴史について

ⅰ)平安京以前

5世紀ごろ、渡来系の有力氏族であった秦氏が、現在の京都市右京区太秦(山背国葛野郡)に定住し、土木、養蚕、機織りなど、当時最先端であった大陸の技術を伝える。これが京都の産業の原点だと思われる。


ⅱ)平安京遷都

794年、桓武天皇が、長岡京から京都の平安京に遷都を行い、京都は、日本の政治、文化の中心となる。天皇の移動に伴い、貴族たちも京都に移り住み、優雅な貴族文化が栄えることになる。皇族・貴族たちは京中に多くの国営工房を開き、そこに工匠を集め、衣服、日用品などの一切の生産を行わせた。京染織、京人形、京扇子、京菓子など京都の名産物はこうして生まれたのである。ただ、貴族の生活とは裏腹に、たびたび起こる鴨川の反乱や、流行する疫病、飢饉などで庶民の生活はかなり厳しかったようである。


ⅲ)平安末期~鎌倉時代

貴族の力が衰え、武士の力が高まってくると、京都の朝廷、同じく京都六波羅の平氏、関東から攻め上がる源氏、この三者による争いで町中が戦場となり、京都の街は大きく疲弊したと言われる。源氏が鎌倉に幕府を開くと、相対的に京都は経済都市としての性格を強めたものの、依然として朝廷は政治的権力を握っていたが、後鳥羽上皇が幕府に対してクーデター(承久の乱)を起こした後は朝廷の権力は弱まり、京都には朝廷の監視機関として六波羅探題が置かれることとなる。貴族の力が弱まると、それまで官営であった工房は徐々に民営へと切り替わり、職人たちは朝廷をはなれ、独自に商売を始める。原材料を各地から仕入れ、加工貿易を行い、ここに商品経済が確立する。


ⅳ)鎌倉時代末期(南北朝時代)~室町時代

足利尊氏等が幕府を倒し、南北朝時代を経て、京都に室町幕府が開かれ、再び政治の中心が京都に戻ってくることになる。この頃から京都は二条通を境に、北を上京、南を下京と呼ばれるようになる。上京は政庁街、下京は商業や手工業の盛んな庶民の街として賑わいっていた。このようにして政治都市として復活する一方で経済発展を遂げ、「町衆」と呼ばれる有力市民による自治の伝統が生まれる。この「町衆」の存在がその後京都を動かす原動力となっていく。


ⅴ)応仁の乱

平安だったのもつかの間、「嘉吉の変」で室町8代将軍の足利義政が殺害されると、幕府は一挙に権威を失い、各地で内乱が起こるようになる。そして、1467年から1477年にかけて起こった「応仁の乱」により、京都の市街、特に北側の大半が焼失し、またこれに乗じた悪党の横行などにより、京都の街は荒廃してしまう。また、応仁の乱後も京都の街はたびたび戦乱に巻き込まれている。京都の街のシンボルであった「祇園祭」もこの戦乱の中、一時断絶してしまう。度重なる戦乱の中、リスクを減らすため職人たちは、生産の諸工程をそれぞれの専門家が行う「分業」の体制を敷くようになる。


ⅵ)戦国時代~安土桃山時代

応仁の乱やその後の騒乱でひどく荒廃した京都の街であったが、織田信長、豊臣秀吉の保護、そして町衆の努力によって復興、一時中断していた「祇園祭」も再興された。特に豊臣秀吉は、道路整備、町屋を公家、武士、町人地へと封建的にすみわけ、城下町化するなど、大規模な都市改造を行った。


ⅶ)江戸時代

1603年に徳川家康が江戸幕府を開くと政治の中枢は江戸に移るが、京都が都であることは変わりなく、幕府の京都の拠点として二条城が築かれている。江戸初期には京都は、天皇御所、公家、武家集団、手商工業者によって構成される日本最大の商産業都市になっている。人口も50万人を超えていたと言われる。


ⅷ)江戸末期~明治時代

幕末になると、天皇のいる京都はまたもや戦火の中心となる。1859年、長州藩と公武合体派の間で「蛤御門の変」が勃発、御所の蛤御門から出火した炎が街へ広がり、加えて双方の兵士たちが町谷に大砲を打ち込み火災をあおったことから、一般町民、商工業者の住む下京はほぼ全焼してしまう。明治政府が成立すると、これに追い討ちをかけるように、1869年に東京遷都が強行される。これにより、京都の千年以上つづいた「都」としての歴史は幕を閉じる。遷都に伴い、公家、有力商人、そして多くの市民が東京へ移住を開始し、精神的、経済的支柱を失った京都の人口は33万人から22万人へと激減する。


ⅷ)明治時代~

京都の急激な衰退を危惧した京都市は、「産業の復興」を呼びかけた。琵琶湖疏水の実現、日本初の水力発電所の建設や、その電力を用いた市街電車「チンチン電車」の運行を開始し、1869年には全国に先駆けて市中に64の小学校を建営し、人材の養成を図った。これら様々な近代化施策は功を奏し、一時は激減した人口も、明治以降は増加を続けている。






○京都産業発展の歴史的要因

私は京都で産業が発展した歴史的な要因を次の3つと考える。

1)皇族、貴族といったパトロンの存在

2)人口が多く、消費者が多くいたこと

3)「町衆」の存在

1)について

京都で産業が発展したのは、養蚕、機織りなどの技術に精通していた秦氏がこの地に定住していたという下地に加え、平安京という「都」があったことによって、天皇、貴族などのパトロンが多く存在していたことが大きな要因として挙げられる。職人や芸術家が最も苦心するのはその資金面であるが、京都では平安宮廷に住む皇族、貴族たちが京都中に多くの国営工場を開き、衣服、日用品一切の生産を行わせたため、職人たちは需要の心配をすることなく技術を磨くことが出来たと思われる。人形、扇子、和菓子など、他の地域では商売がなりたたないような業種も彼らのようなパトロンがいたことで、現在まで存続している。また、卸先が貴族、皇族であったため、職人たちには彼らの嗜好にあうよう豪華絢爛でかつ細部にこだわった製品をつくることが求められ、さらに技術が磨かれた。

職人だけでなく、皇族、貴族というパトロンのおかげで、京都には様々な文化人が集まっていたわけだが、多種多様な美意識や技術を持った人々が京都という狭い街に集ったことによる相乗効果が、京都の産業や芸術をより発展させたのではないだろうか。


2)について

二つ目の要因として、常に京都がある程度の人口を擁していたことが挙げられる。平安時代には日本最大の都市であり、江戸時代には人口50万人を超えていた。東京遷都後も一時は落ち込むものの、無事復興をとげ、現在も日本有数の大都市である。常に一定の消費者を確保できたことが、パトロンである貴族たちが没落した後も、京都の伝統的な産業が存続してこれた要因であると私は考えている。


3)について。

京都では、室町時代から「町衆」という有力市民が集まり、自治を行うようになった。町衆は掘や柵を作り、戦乱から京都の街を守るだけでなく、一時は中断した「祇園祭」を復活させるなど、京都の文化、産業を守る役割も担っている。前述したように、京都は何度も戦火に巻き込まれているが、この「町衆」の力と市民の強い団結力によって何度も復興し、古い文化、伝統産業を現在にまで伝えることが出来たと考えられる。





○京都産業の特徴とその歴史的要因について

京都産業の特徴として次の が挙げられる。

ⅰ)目先の利益ではなく、会社の「継続」を大切にすること

ⅱ)量より質を重視し、何より「信用」を重視すること

ⅲ)伝統と革新という二律背反的な概念を併せ持つこと

ⅳ)「理念」「哲学」といった形而上的な概念を重視していること

ⅰ)について

源平の戦い、南北朝の戦い、応仁の乱など、京都は常に動乱に巻き込まれており、古くから京都の人々には「支配者が誰に交代しても我が家だけは存続させたい」という意識が強くあったと考えられる。政争によって支配者がめまぐるしく変わるため、短期的な視点で商売をしているようでは、支配者が変わった際に不利益をこうむってしまう。幾多の動乱に巻き込まれ、短期的な視点ではなく、10年、100年と長期的な視点から物事を見る力がはぐくまれ、このような長期的視点を持ったものだけが生き残った。これが京都に何百年と続く老舗が存在する理由ではないだろうか。

ちなみに、この目先の利益よりも「存続」を重視する傾向は、京都人と同じく、古くから多くの戦いに巻き込まれながらも、経済、金融の分野で多くの成功者を輩出しており、「100年先をみて行動する」といわれるユダヤの人々の哲学と多くの共通点があると私は考えている。


ⅱ)について

京都の産業の多くが平安宮廷の貴族ために生まれたことから、古くから量ではなく、貴族たちを満足させる細部にまでわたる質の高さが求められる傾向があったと考えられる。また、盆地という地形に多くの人々が固まって住んでいたことや、昔から戦火に巻き込まれることが多かったため、「町衆」に見られるように人々の団結力、結束力が他の地域に比べ非常に強く、人のうわさや信用といったものが商売に大きく影響する環境にあったからだと思われる。


ⅲ)について

明治時代に京都の人口が一時急激に落ち込んだ際、京都市は、それまでの「伝統ある古都」から一転、近代的な設備を多く建設し、先進的政策を行った。この伝統と革新という一見相反する二つの要素を併せ持っているのが京都産業の大きな特徴ではないだろうか。伝統を守り続けながらも、常に新しい技術を模索し続ける職人の気質がここに現れているように私は思う。


ⅳ)

京都の企業を見ると、利益や損得といった形而下的なものよりも「理念」「哲学」といった形而上的な概念を重んじる企業が多くあるように思う。私はこれを京都の人々の古くからの伝統であると分析した。京都は古くから文化、学問の都であり、多くの哲学者、思想家を生んでいる土壌に加え、京都に住む人々は支配者層の栄衰を古くから何度も見ていく中でお金や権力といった形而下的なもののはかなさをしっており、それとは対照的な哲学や思想といった形而上的なものに重きを置くようになったのではないだろうか。また、動乱が起こりやすい土地柄から、ⅰ)で述べたような長期的な経営の継続には、変化し続ける環境に流されないために何らかの哲学が必要であったとも考えられる。


ⅰ)~ⅳ)まで述べたが、これらの特徴の生まれた大きな原因は京都が古くから動乱の中心地であり、環境の変化が大きいことである。ⅰ)~ⅳ)までの特徴はそのような環境下で、商人や職人が自らを防衛するために編み出してきた手段であると思われる。