【虎屋】
後陽成天皇(1586〜1611)の在位中より御所の御用を承ったが、それ以前からすでに御所出入りの菓匠として、この位置に店を構えていた。寛政年間(1789〜1801年)、御所をはじめ公家や武家の信用を得て徐々に商売を拡大。寛文12年(1672年)には近江大掾(おうみだいじょう)という栄職を宮中から賜り、明治維新まで代々虎屋近江大掾を名乗り、公家、大名、寺社等をお得意様とした。江戸時代を通じて、御所、禁裏御所の御用を勤めた。
武家との関係では、徳川五代将軍綱吉や八代吉宗などに菓子を届けた。幕末に十四代将軍家茂が上洛して孝明天皇に挨拶した折も、会見の場に虎屋の菓子が使われた。

【川端道喜】
室町時代、もしくはそれ以前からの御所出入りの菓子屋。渡辺進と初代・道喜(中村五郎左衛門)の時代は、室町後期のいわゆる戦国時代、応仁の乱が続いた後で、幕府の疲弊とともに朝廷の財政も逼迫していた。進と道喜親子はそうした状況を慮って、歳事や祝事の注文とは別に毎日色々な品を献上するようになり、やがては塩餡を包んだ「御朝物」と呼ばれる朝食がわりの餅を毎朝献上するが習わしとして定着した。それは、後に「朝餉」の儀として形式化し、東京遷都の前日まで350年にわたり休みなく続いた。
京都御所には、建礼門の東横に「道喜門」という名の門が今も残る。

【二口屋能登】
江戸時代前期の元禄14年(1701年)の段階ですでに禁裏御用を承っていた菓子屋。天保年間(1830〜1844)に経営を破綻させて、営業権を虎屋に譲渡した。屋号は残して、虎屋の敷地内に看板だけ掲げ、虎屋店主の兄弟を名目上の二口屋店主に据えた。作るのは虎屋のため、御用は2軒分。二口屋が他のところにいったら、御所御用の由緒が拡散してしまうということもあるだろうが、虎屋にとっては、御用を倍にするという投資でもあった。

【松屋山城】
江戸時代前期の承応年間(1648〜55)創業の禁裏御用菓子屋である。江戸時代中期以降「松屋伝兵衛」と名乗る。松屋山城は17世紀半ばに山城大掾という官位を拝領した。

【虎屋】
後陽成天皇(1586〜1611)の在位中より御所御用の菓子屋。

【川端道喜】
室町時代から御所御用の菓子屋。東京遷都まで「御朝物」と呼ばれる餅を毎朝献上した。

【二口屋能登】
江戸時代前期の元禄14年(1701年)より禁裏御用の菓子屋。

【松屋山城】
江戸時代前期の承応年間(1648〜55)創業の禁裏御用の菓子屋。