1、紫式部/ 廬山寺(紫式部邸宅址碑)   上京区寺町通広小路上る東側
 百人一首第五七番 めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月かな
・歌意 
 久しぶりにめぐり逢って見たのが確かであるかどうか、その見分けが付かない内に貴方は慌ただし く帰ってしまった。雲の間にすっと隠れてしまった月のように。
・背景 
 長く会うことのなかった幼馴染みに再会したものの、ほんの束の間のことで残念な気持ちを詠んだ とされる。
・人物 
 平安中期の女房で、当時有数の学者であった藤原為時の娘。「紫式部」の名は、源氏物語の「紫の 上」と父の官職・「式部丞」によるものとされている。藤原宣孝に嫁したが、まもなく死別。のち に、藤原道長の娘で一条天皇中宮・彰子に仕え、その間に道長を始めとして殿上人から重んじられ た。
・スポット 
 紫式部の曾祖父・藤原兼輔(877〜933)は、正親町小路南、東京極大路東の鴨川堤の堤邸に住んでい たことから堤中納言と称された。紫式部も同地に住んでいたと伝えられる。
 廬山寺は、天台宗の一派・円浄宗の本山。寺伝によれば、天慶元(938)年に慈恵大師・良源が北山 に開いた與願金剛院が起こりで、その後、寛元三(1245)年に法然上人の弟子・住心房覚瑜に よって船岡山の麓に再建される。この時に名を廬山天台講寺と改めて天台教学の拠点とし、天台・ 律・法相・浄土の四宗兼学の寺院となり、洛中の叡山と言われた。応仁の乱に焼け、天正十三(1 585)年、現在地に移るが、建物は天明大火後の再建。この地が紫式部が住んだところと推定さ れることから、新しく本堂前に造られた枯山水の庭園を「源氏の庭」と称している。


2、小野小町/ 小野小町双紙洗水碑
 百人一首第九番 花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に
・歌意 
 桜の花の色がすっかり色褪せてしまったと同じように、私の容色もすっかり衰えてしまったものだ。 桜に降る長雨を眺め、空しく恋の思いに耽っている間に。
・人物 
 平安前期9世紀頃の女流歌人。絶世の美女伝説で有名な小野小町だが、その生涯についてはほとん どが謎である。出羽国の郡司・小野良真(小野篁の子)の娘とも言われるが不明。僧正遍昭(816〜 890)や在原業平(825〜880)との返答歌があるので、仁明・文徳朝の人であるのは確からしい。
 「百晩毎日通って誠意を見せてくれたら付き合ってもよい」との言葉を受け、熱心に通い詰めた深 草少将が九十九日目の夜に願い叶わず死んでしまう、という「百夜通い伝説」から、男に靡かぬ高 慢な女性というイメージがつくられたが、その高慢さゆえに晩年は落ちぶれて諸国を流浪したとい う伝承も数多く残されている。
・スポット 堀川通から東に一条戻橋を越えた所に「小野小町双紙洗水」と書かれた碑がある。能『草 紙洗』(観世流は『草子洗小町』、喜多流は『草紙洗小町』)で、小野小町が大伴黒主に書き入れら れた『万葉集』の草子を洗ったとされている場所である。ただし、能の謡には「時しも頃ハ卯月半 ば。清涼殿の御会なれば。花やかにこそ見えたりけれ」とあり、それならば草紙洗の水とは内裏の 清涼殿付近の池か水路を指すはずで、なぜこの様な所に碑が建てられているのかは不明である。
 『都名所図会』には、「小野小町双紙洗の水は戻橋の艮(うしとら)諸侯屋敷の庭にあり、清和水 ともいふ、傍(かたわら)に小町塔あり」とあり、少なくとも江戸後期以前から存在していたよう だ。
・キーワード=能『草紙洗小町』
 蔓物(女を主人公とする能)で小町物(小町伝説に基づく能)の一。
 シテは小野小町、ワキは大伴黒主。
 あらすじは、宮中の歌合で小野小町の相手と決まった大伴黒主が、前日小町の邸に忍び込んで、小 町が和歌を詠じているのを盗み聞きする。当日、小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が「それ は『万葉集』にある古歌だ」と訴え、証拠に『万葉集』の草紙を出すので小町は窮地に立つ。しか し、よく見ると墨色が新しいので、天皇の許しを得て水ですすぐと、加筆だった歌の文字は消えて 流れる。面目を失った黒主は自害を図るが、小町のとりなしで事なきを得、周囲の勧めで小町が和 解を祝う「中の舞」を舞って、めでたく歌合は終わる――というもの。
 ただし、両人とも生没年不詳とはいえ、平安前期に活躍した小町と、平安前期から中期にかけて活 躍した黒主(史実では大友)は別時代の人であり、この作品は全くの作り話である。
 作者はこの作品を創作する際に『古今和歌集』の「仮名序」を参考にしたと考えられている。紀貫 之筆の「仮名序」は、在原業平・僧正遍昭・喜撰法師・大友黒主・文屋康秀・小野小町のいわゆる 「六歌仙」に対する評価を盛り込んでいるのだが、内、小町は「衣通姫の流れ。いはば良き女の、 なやめるところあるに似たりけり」、黒主は「そのさまいやし。いはば薪を負へる山人の花の陰に 休めるが如し」とされており、これが能「草紙洗小町」の筋書きに大きな影響を与えたと思われる。


3、崇徳院/ 土御門内裏跡 上京区烏丸通下長者町上る西側(京都ガーデンパレス前)
 百人一首第七七番 瀬を速み岩に塞かるる滝川の割れても末に逢はむとぞ思ふ
・歌意 
 川の瀬が激しく速いので、岩に塞き止められた水の流れが一度は二筋に分かれても、後ほど再び出 会うように、別れた私達もまた必ず逢おうと思う。
・人物 
 鳥羽天皇の第一皇子(1119〜1164)。父の鳥羽天皇からは疎んじられ、若くして帝位を弟 の近衛天皇に譲らされる。近衛天皇の死後も自分の子・重仁親王の即位は叶わず、母違いの弟であ る後白河天皇が継ぎ、積年の不満が対後白河天皇の保元の乱(1156)を引き起こす。乱に敗れ た院は讃岐に配流、同地で没した。
・スポット
 土御門内裏は,鳥羽(1103〜56)・崇徳・近衛(1139〜55)三代の天皇が約24年間にわた って利用した方一町(120m四方)規模の里内裏。平安京大内裏を模して造営された最初の里内裏で, もと源師時(1077〜1136)の土御門邸があった。たびたび火災などに遭遇したが,保元元 (1156)年の再建が中止されて廃絶した。


4、菅原道真/ 菅家邸址    上京区烏丸通椹木町上る西側(菅原院天満宮前)
 百人一首第二四番 このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに
・歌意
 この度の旅は急なお出かけのため、お供えの幣帛の用意もできていません。神よ、とりあえずこの 手向け山の美しい紅葉の錦を幣帛として、御心のままにお受け取りください。
・背景
 昌泰元(898)年、宇多天皇の吉野・宮滝行幸に同行して詠んだ歌
・人物
 平安中期の学者・政治家(854〜903)。代々学者の家柄であった。宇多天皇に信頼され、藤原師勢力 を抑えるために藤原基経の死後、蔵人頭に抜擢された。899年、藤原時平が左大臣になった時に道真も右大臣に任ぜられ、学者としては異例の出世であったが、901年、時平の「謀反を企んでいるらしい」との讒言により太宰権帥(太宰府での実質的な長官)に左遷され、同地で没した。しかし、奇しくも数年の後に時平は死亡。御所の紫宸殿への落雷で、この陰謀関係者が次々に落命した偶然を人々は恐れ、道真の霊を慰めるべく、北野天満宮を建立した。道長が雷神と混同されるのはこのためである。
・スポット
 この地に,菅原道真の父・是善(812〜80)が営んだ邸宅があったといわれ,道真の産湯井戸を伝える。
・キーワード=幣
神主がお祓いの時に振る白い紙だが、当時は色の付いた絹を細かく切ったものだったという。その幣を用意できなかったので、色とりどりの紅葉を幣になぞらえようとしたのである。

5、後鳥羽院/ 五辻殿址   上京区五辻通千本東入北側
 百人一首第九九番 人も愛し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
・歌意
 ある時は人を愛しく思い、またある時は恨めしいとも思う。この世を面白くないものと思うところ から、あれこれと物思いをするこの私には。
・背景
 建暦二(1212)年、十二月の二十首御会において「述懐」の題で詠まれた内の一首。承久の乱 の九年前、後鳥羽院三十三歳の折の作。すでに鎌倉幕府との関係を憂慮していたか。
・人物
 高倉天皇の第四皇子(1180〜1239)。朝権の回復を図って、承久三(1221)年に北条 義時追討の院宣を下して鎌倉幕府打倒の兵を挙げたが、敗れて隠岐に配流。在島十九年で崩御。蹴 鞠・琵琶・箏・笛など多芸多才で、特に和歌に秀で、『新古今集』の撰集を命じる。
・スポット
 五辻殿は,後鳥羽上皇の院御所。後鳥羽の御所は十数カ所知られているが,これは上皇の生母・七 条院藤原殖子(1157〜1228)の弟・坊門信清(1159〜1216)が造営したものであ る。元久元(1204)年から使われたが,その後の状況は不詳。


6、紀貫之/ 紀氏遺蹟碑   上京区京都御苑(仙洞御所庭園内)
 百人一首第三五番 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける
・歌意
 あなたの心は、さあどうだろう。他人の気持ちは私には分からない。昔なじみの土地では、梅の花 だけが昔と同じ香りで匂うのだったよ。
・背景
 『古今集』の詞書きによると、奈良の長谷寺参詣の度に常宿していた家を、梅の時期に久方ぶりに 訪れた際、その家の主が疎遠の恨み言を言ったので、この歌で応じたとある。
・人物
 平安前期の歌人(866?〜945)で三十六歌仙の一。醍醐・朱雀天皇に仕えた。『古今和歌集』の中心的撰者で、前書きに当たる「仮名序」を執筆した。『古今集』以下の勅撰集に約四百五十首が入集。土佐守として赴任した際の体験を綴った『土佐日記』も有名である。
・スポット
 紀貫之の邸宅は,中御門北,万里小路東にあったと伝えられる。南庭に桜樹が多く植えられていた ことから桜町と呼ばれたという。この石標はその邸宅跡を示すものである。


7、飛鳥井雅経/ 白峯神宮(飛鳥井家邸宅跡)
 百人一首第九四番 み吉野の山の秋風さ夜更けてふるさと寒く衣打つなり
・歌意
 吉野の山の秋風が夜更けて吹き渡り、古京である吉野の里は寒く、寒々と衣を打つ音が聞こえてく る。
・人物
 百人一首では「参議雅経」(1170〜1221)。後鳥羽・土御門・順徳の三代の天皇に仕える。 参議とは役職名。左右大臣・大納言・中納言に次いで、太政官の最高政務にあずかった。藤原俊成 に和歌を学び、後鳥羽院の信頼を受けて『新古今和歌集』の撰者の一人となる。和歌・蹴鞠の家で ある飛鳥井家の祖。
・背景
 『新古今集』の詞書きによると、「擣衣」すなわち、衣の艶を出すために砧で衣を打つことを題 に詠んだ歌。秋風と共に衣を打つ砧の音は、元は漢詩から取り込まれた情趣で、淋しさや悲しさを 象徴するものだった。中国の李白も、砧を打ちながら、西域に行った防人の夫の無事を祈る女性達 の心情を歌っている。
・スポット
 「洛中洛外図」を見ると、現在の白峯神宮に位置する場所に飛鳥井家の屋敷が描かれている。また、 応仁の乱頃の様子を描いたとされる「中昔京師地図」(江戸時代)には北大路の小川と堀川の間に 「飛鳥井殿」が描かれており、室町時代からこの場所に飛鳥井家の邸宅があったことは確かなよう だ。
 白峯神宮は飛鳥井家を祀っており、毎年保存会の人々によって蹴鞠が催される。転じて、現在では サッカーの神様としても有名。


8、藤原定家/ 冷泉家住宅
 百人一首第九七番 来ぬ人をまつほの浦の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ
・歌意
 いくら待っても来ない人を待ち続け、松帆の浦の夕凪の頃に焼く藻塩のように、私の身もずっと恋 い焦がれていることだ。
・背景
 『新勅撰集』の詞書きなどから、歌合わせの題詠であることが分かる。男である定家が、訪ねてこ ない恋人を身も焦がれる思いで待ち続ける女の立場に立って詠んだ歌。
・人物
 『新古今集』・『新勅撰集』の撰者(1162〜1241)。後鳥羽院歌壇の中心的人物。晩年は『土 佐日記』や『源氏物語』などの古典校訂にも力を注いだ。
・スポット
 同志社のキャンパスに挟まれて残る冷泉家の住宅は,今の京都御苑の中にあった公家屋敷の最後に 残った貴重な遺構として重要文化財に指定されている。住宅は天明大火後の寛政二(1790)年 の建築であり、邸内では今も様々な伝統行事が行われている。
・キーワード=冷泉家
 藤原不比等の次子・房前を祖とする藤原北家から発し、時代が下って道長の子・長家が醍醐帝皇子 ・兼明親王の旧邸に住んだ為に、その家計は代々この名で呼ばれるようになった。鎌倉末期から南 北朝期にかけて、定家の孫に当たる為氏・為教・為相がそれぞれ、保守的な二条家、革新的な京極 家、比較的自由な歌風を主唱した冷泉家とに分かれた。


9、式子内親王/ 式子内親王供養塔(般舟院)   上京区今出川通千本東入ル北側
 百人一首第八九番 玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする
・歌意
 我が命よ、絶えるのなら絶えてしまえ。このまま生きながらえているならば、堪え忍ぶ心が弱まる と困るから。
・人物
 後白河天皇の第三皇女(?〜1201)。賀茂神社の斎院を務め、後に出家する。藤原俊成に歌を 学んだらしく、日記『明月記』から定家とも交流があったとされることから、能「定家」のような、 定家との恋の伝説が生まれた。
・スポット
 般舟院陵の西北奥に小さな五輪塔があり、古くからこれを「式子内親王墓」と伝えてきた。室町時 代の応仁の乱前後を記した『応仁記』巻三に「千本に両歓喜寺、この寺に定家葛の墓あり」との記 述があり、かなり古くから、ここが式子内親王の墓だと認識されていたようだ。
 「定家葛の墓」というのは、藤原定家が式子内親王に恋慕の情を抱き、その執心が葛になって内親 王の墓に巻きついたという伝説によるもの。この伝説が、能「定家」を生む契機となる。
 また、この地は定家の邸宅・時雨亭の跡地とされており(諸説の一)、式子内親王と定家には関わ りの深い場所であるらしい。
 般舟院は正しくは般舟三昧院といい、後土御門天皇(1442〜1500)が幼少期に住んでいた 伏見の寝殿に仏閣を建立して勅願寺としたことに始まる。天台・真言・律・禅の四宗兼学の道場に 擬されたため禁裏道場と呼ばれた。文禄四(1595)年,豊臣秀吉の伏見城造営に伴い現在地に 移される。
・キーワード=能「定家」
 前シテは里の女(実は式子内親王の霊)、後シテは式子内親王、ワキは旅僧。
 あらすじは、僧が千本の辺りに差し掛かった時、時雨が降り出す。近くの由緒ありげな庵で雨上が りを待っていると女が現れ、ここは定家卿が建てた時雨亭だと教える。女は昔を懐かしみ、蔦葛に 覆われた式子内親王の墓に案内する。 内親王は定家との秘めた恋が世間に漏れたため、二度と会 えぬままこの世を去ってしまったという。定家は式子内親王への思いがつのる一方で、その執心が 蔦葛となって墓に纏わりついたのだ。 女は自分こそ式子内親王であると告げ、苦しみから救って ほしいと言って姿を消す。その夜、僧が読経していると痩せ衰えた式子内親王の霊が墓の中から現 れる。僧の読経の功徳で定家葛の呪縛から解き放たれ、苦しみが和らいだと喜び、衰えた醜い姿を 恥じながらも舞いを舞う。しかし、墓の中に帰ると再び定家葛に纏わりつかれたまま姿が消えてし まう――というもの。
 曲名は「定家」だが、登場するのは式子内親王だけである。