プロジェクト マップチーム  地名                       町田有希

今回は、その由来におもしろいエピソードをもつ通名・町名をピックアップしました。普段なにげなく歩いているその場所が、なぜそう呼ばれるようになったのか、過去にどんな歴史をもっているのか・・・。現代の名称に名残をもつもの、あるいは全くかけ離れているものもあるでしょう。そんな豆知識を片手に、過去の風景を想像しながら、上京を歩いてみましょう!!(168字)


南北の通

新町通―内裏の工人たちが住んだ道
平安京開設当初に開かれた町尻小路にほぼ該当。現在の、南北を出水通〜椹木町通・東西を西洞院通の正方形の範囲は、修理職町と呼ばれていた。新町通出水を町口、新町通椹木町を町尻といった。修理職とは、弘仁9(818)年に設定された、内裏(天皇の住居)の修理・造営をする令外官(令に規定されていない官)。修理職町の町口・町尻間の道路には、算師(計算事務官)・木工(大工)・檜皮工(檜皮の職人)・瓦工(瓦の職人)・石灰工(石灰関係の職人)などの工人が多く居住していた。このことが商業発展につながったことから、のちにこの通は町尻小路、あるいは町小路と呼ばれるようになった。
この通がいつから新町通と呼ばれるようになったかは不明だが、おそらく豊臣秀吉の再開発以後の呼称と思われる。(355字)

小川通―猫またに出会った川原
豊臣秀吉による京都市街改造後に開かれた通で、「こかわ」「こがわ」とも称す。この通の上立売通〜一条通の西側を、堀川に流れこむ小川がながれていたことに由来する。
『徒然草』八十九段には、夜遅くまで連歌していた法師が、一人でこの小川の端を歩いていると、猫またに会ったという話が残っている。(140字)

黒門通―聚楽第の鉄門がそびえていた通
豊臣秀吉による京都市街改造後に開かれた通。秀吉が建設した聚楽第の鉄門がこの通にあったことに由来するという。(69字)


東西の通

上立売通―近世の商業の中心地
豊臣秀吉による京都市街改造後に開かれた通で、中世には、特に室町通との交差点は立売ノ辻と呼ばれ賑わいを見せた、商業の中心地で、呉服屋や絹商人などがいた。上中下の立売通では、大名小名の小袖や帷子がこの町で買われていという。「立売」とは布を裁ち縫って売っていたことに由来するといわれる。また、通の両側には、花の御所(足利義満の邸宅、室町殿)や近衛殿(近衛家の別邸、桜の御所)など公家の屋敷が並んでいた。(198字)
五辻通
開通年月は不明。後鳥羽上皇の院御所である五辻殿、藤原成親の五辻第、鳥羽天皇皇女五辻斎院などが平安末期から鎌倉時代にかけてこの地にあったことに由来する。(76字)
上長者町通−大富豪が住んでた通
土御門通ともいう。平安京開設当初に開かれた土御門大路にほぼ該当する。応仁の乱後荒廃したが、再開する際に新在家といった。この地の東に天正年間(1573〜1591)、貨幣の両替や諸家の金銭や穀物を用達していた者が住んでおり、お金持ちだったので人々は長者と呼んだことが、名称の由来とする。(133字)

出水通−浸水してた道
近衛通ともいう。平安京開設当初に開かれた近衛大路にほぼ該当する。烏丸の西にあった涌泉がときどき溢れて道路に浸水していたが、烏丸川の埋没とともに止んだので、その後この名称となった。(90字)


町名

亀屋町(油小路通上長者町下ル)―もとは鶴屋でしたが・・・
延暦13年(794)には、鶴屋という家があったが、元禄元(1688)年、将軍徳川綱吉が娘鶴姫の文字を民間に用いるのを禁止したため、亀屋町と改められたという。(69字)

花車町(千本通寺之内下ル)―花の御所の車が破損!?
町名は、応永年間(1394〜1428)に、将軍足利義満の輿車がこの地で破損し、その輿車を当町にさげわたしたことに由来するという。現在車輪だけが大報恩寺(千本釈迦堂)に保存されている。(83字)

作庵町(千本通上立売上ル)―お医者さんの住んだ町
町名は、天正年間(1573〜1592)に当町に居住した医師作庵に由来するという。石像寺(釘抜き地蔵)境内に墓がある。(50字)

突抜町(今出川七本松東入ル)―「地獄」ではなく・・・
千本釈迦堂の南に位置し、近世には「釈迦突抜町」といわれていた。現町名は明治2(1869)年から。
また、このあたりは「地ごくの辻子」とも呼ばれていたようだ。「地ごく」とは「地奥」がなまった語で、本来は織物業ゆかりの地名を意味する。天正の頃(1573〜1591)、この町の人々はヨーロッパから入ってきた奥縞という織物を真似て作っていた。輸入品を唐奥といったのに対し、地元産のものを地奥といった。このため「地奥辻子」とよばれたのが「地ごく辻子」になったという。(158字)

芝大宮町(大宮通五辻上ル)―たばこ商人の町
北東に芝之町、芝薬師町があり、「芝」はこのあたり一帯の地名のようだ。芝大納言の邸宅がこのあたりにあったことに由来するといわれる。それが大宮通上にあるので、芝大宮町となった。
芝薬師は、比叡山が女人禁制のため、後鳥羽上皇の命によって女人参詣の便をはかり建立されたものといわれる。中世には堀川上立売北東角にあったが、応仁の乱の際に消失、のち再興され現在の大興寺(左京区)となる。
また、このあたりは丹波から来るたばこ商人が多かったらしい。(216字)