ROUND3
〜兵の屍を超えてゆけ〜
百々橋跡
宝鏡寺門前の東西の通りを百々の辻と呼ぶのは、平安時代からであるが、小川にかかるこの小橋が有名となったのは、戦国時代この橋をはさんで合戦が行われてからである。
1467年5月、細川派が花の御所(室町殿)をおさえ、山名宗全邸とこの橋をはさんで東西にわかれ、洛中での大きな合戦が行われた。
両陣の位置関係により、細川派を東軍、山名派を西軍と呼ぶようになった。
今も伝わる西陣もこの西軍が陣をひいたことにより生まれたのである。
応仁記によると、このときの兵力は東軍が16万1500騎、西軍が11万6000騎とあるが、当時の京の人口は15〜20万人と言われており、居住地、食料の問題など疑問が残っている。
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