松田 度
同志社大学歴史資料館非常勤嘱託職員
同大学院博士課程後期
最終更新日 2002年11月27日
大学会館地点の調査も終わりに近づいた9月下旬、上立売通沿いのトレンチで一枚の鏡がみつかりました。新町北別館地点出土の鏡(註1)と同様、火災層に混入した状態だったので、火災層の時期を特定できれば、鏡の廃棄された年代と鏡の型式の関係がわかる貴重な資料となります。そこで、整理室に持ち帰り、土と錆を落としてじっくり観察しながら整理をすすめるうちに、興味深いことがわかってきました。
この鏡は、直径4.7cm、縁の厚さ0.25cmで、わずかに錆化しており、高熱をうけたためか、縁部付近には細かいひび割れが走っています。鏡背部分には亀の形をしたつまみがつき、亀の口の部分に、向かい合う二羽の鶴の嘴が接しています。亀の下には、中央に桐、その両脇にも植物(特定はできませんが竹の可能性が考えられます)とみられる表現があります。京都国立博物館の久保智康さんにみていただいたところ、これは型式学的にみて室町時代後期から江戸時代初頭ごろ(16世紀後半~17世紀前半)の鏡(桐双鶴鏡)で、桐が家紋としてパターン化され始める前の様相をとどめているのでは、というアドバイスをいただきました。また、鏡とともにみつかった火災層中の土器は、江戸時代初頭ごろのものが主体を占めています。先の型式学的検討や共伴する土器の年代、大学会館地点における火災層の検討(註2)をふまえると、この鏡は元和6年(1620)に生じた火災にともない廃棄された可能性が高いと考えられます。
また西へ5m離れた地点には、銅を溶かして小型の製品を鋳造していた工房の一部とみられる鋳造土坑が位置しており、この土坑も同じ火災層に覆われていたことから、その関連性をも考慮する必要があります(註3)。 ところで、鏡が一般的に有していた、顔などを映す化粧道具としての役割からすると、この鏡は携帯用の懐中鏡(今でいうコンパクト)であると考えられます。このような直径5センチ前後の鏡は、京都府の同志社京田辺キャンパス内にある都谷中世居館遺跡群(註4)や、大阪府の堺環濠都市遺跡(註5)、福井県の一乗谷朝倉氏遺跡(註6)からもみつかっています。実態についてはまだよくわかりませんが、少なくとも室町時代後期から江戸時代の初め頃にかけて流行した鏡の一種とみてよいでしょう。
この懐中鏡に映し出されるもの。それは、足利将軍家の邸宅であった室町殿(むろまちどの)廃絶後の中世社会と、この地に移り住んできた民衆の姿なのか。あるいはリサイクル用の青銅製品をかかえて工房へと駆け込む近世の鋳物師たちなのか。今後も検討を続けたいと思います。
註
(1)発掘物語 第14回 を参照のこと。
(2)発掘物語2 第3回を参照のこと。
(3)発掘物語2 第4・5回を参照のこと。
(4)同志社大学歴史資料館2001『同志社大学歴史資料館図録』(2002年改訂)
(5)堺市教育委員会1985「堺環濠都市遺跡発掘調査報告―SKT78地点―」『堺市文化財調査報告 第21集』
(6)福井県立朝倉氏遺跡資料館1990『特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡発掘調査報告Ⅲ 第4・13次、第20次調査』