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第26回 : 岩倉地域を考える

市澤 泰峰
同志社大学 文学部文化学科文化史学専攻 三回生

最終更新日 2003年11月10日

 同志社大学歴史資料館では、同志社大学外国人講師宿舎の建てかえにともなって同志社高等学校の東、同志社大学大成寮のすぐ北側にあたる、岩倉大鷺町で発掘調査をおこないました。その模様は発掘物語4で報告がなされています。今回の調査での一番大きな成果としてあげることができるのは、条里地割に関係すると考えられる畦畔状の遺構が発見されたことです。

 そこで、明治時代や大正時代の岩倉地域の地形図を確認すると、条里地割の区画を反映すると考えられる地形が残されています。また、四ノ坪や八ノ坪といった、条里地割に関係すると考えられる地名も残されています。ところでこの地形図をよく見てみると、今回の調査地点の西側の部分が、きれいな、整えられた地割になっておらず、半町ほど東にずれた形で地割がなされています。

 現在までにあきらかにされている岩倉地域の歴史的性格を簡単に述べると、それは生産という言葉で現すことができると思います。古代においては、深泥池や幡枝、木野といった地域を中心とした須恵器と瓦の生産がおこなわれ、ここで焼かれた瓦は、現在の広隆寺にあたると考えられている、北野廃寺などで使われていました。北野廃寺ではその後、寺の近辺で瓦を生産するようになったため、岩倉地域での瓦生産は衰退をしていくことになりました。しかし、都が平安京へと移ると、岩倉地域は緑釉瓦生産をはじめとする特殊技術や、瓦生産技術を用いて都の需要を満たすための供給地としての役割を果たすこととなりました。岩倉地域では緑釉陶器や灰釉陶器なども生産されています。このように岩倉地域は、瓦や陶器類の生産地としての性格を持っていたということができます。

 岩倉地域に施工されていた条里地割と、そこに残された半町のずれ、そして岩倉地域の歴史的性格。岩倉の発掘調査に参加させていただき、今回の発見に興味を惹かれ、研究会を名乗っていいのかどうか悩みつつ、岩倉研究会なる研究会を作り、同志を集めて岩倉地域について考えてみようと思いつきました。

 まず手始めに、何よりも現場に行って、実際に目で見て、歩いてみることが大事であると思い、研究会の同志四人とアドバイザーの松田さんと私の六人で岩倉に出かけました。まず、調査地を中心として条里境が想定される地域の踏査をおこないました。しかし、一目見てそれであると判断できるような痕跡は、近代以降の改変を受けているためか、確認することはできませんでした。実際に測量もおこないましたが、現地表上で条里地割に関する情報を確認することは難しそうです。しかし、中世や近世の段階ではほとんどつくられることのなかった直線道路が何本か残されていました。これらの直線道路がどこまで遡るかはわかりませんが、ひとつの手がかりとなりそうです。その後、幡枝地区に残る来栖野瓦窯の見学をおこないました。木が茂り多少見難くはなっていましたが、この窯で焼かれていた瓦や須恵器、緑釉陶器の素地といったものを見ることができました。これらも岩倉地域を考えていく上で非常に重要な資料となります。

 岩倉地域は早い段階から条里地割の存在が指摘されてきた地域でもあります。その岩倉地域において、今回の岩倉大鷺町の発掘調査によってはじめて条里地割関係すると考えられる遺構が考古学的に確認されました。今回の成果を生かすためにも、その周辺地域での調査が必要であると思います。そのためにも、地道な測量調査はこれからも続けていきたいと思います。岩倉地域ではいままでに、京都大学の調査などによって、その生産活動の性格の変遷があきらかになってきています。また、調査地のすぐ北西には岩倉地域では唯一弥生時代から近世まで続く、集落遺跡である岩倉忠在地遺跡が所在します。先述したように岩倉は平安京の需要を満たすための供給地でもありました。岩倉から都へと製品が運ばれる場合、どこかに一度集積されてから運ばれた可能性が高く、その場所として考えられるのが、岩倉忠在地遺跡でもあります。こういった生産地としての重要性から条里制が施工された可能性もあり、岩倉条里の解明は、こういったいままであきらかになってきている、生産の痕跡や岩倉忠在地遺跡といった点同士を結び合わせ、面として意識されるようになり、岩倉の歴史的性格をさらにあきらかにしていくことに繋がると思います。

 今回実際に岩倉を歩いてみて、感じたことは条里地割に関する痕跡を確認するのは難しそうだということです。しかし、この条里について考えていくことは岩倉地域の歴史的研究をもう一段階推し進めるためにも、絶対に必要なことであると思います。調査地付近に残された半町のずれなどまだまだ見当さえつかない問題が山のように残されていますが、地道な調査と勉強を続けていきたいと思います。


岩倉の風景


参考文献

  • 京都大学考古学研究会 『岩倉古窯跡群』 真陽社 1992



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