鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師
最終更新日 2003年3月14日
今出川キャンパスの西門脇の石碑で知られているように、この場所には幕末、薩摩藩邸がおかれていました。
「史料 京都の歴史」によれば、文久2年(1862)、国事の周旋を目的とした島津久光の上洛を機に、薩摩藩は、錦小路東洞院南東の京屋敷に対して、相国寺の南の二本松に新屋敷を造営したとされます。
(史料)
〇文久3年6月1日、薩州新屋敷、相国寺辺に昨年以来造営・以下略
〇文久3年6月7日、薩摩数千人、上の新屋敷へ入込み候由・以下略
「中山忠能(ただやす)日記」(王政復古に参画して、維新の後は要職を歴任した公家)
なお、同志社が相国寺門前のこの地を指定して設立の願書をだしたのは、明治8(1875)年8月23日になっています。
さて、それでは薩摩藩屋敷とされた「二本松」がどのあたりかということで「寛政11年」の年号をもつ地図などを調べてみると、相国寺惣門から現在の今出川通りまでの間が「大門町」と呼ばれ、「二本松」はその西の一角を示す地名だったようです。地図によると、「大門町」の東は、今出川通りに近い部分が「伏見宮」で、その北に「御附武家」衆の屋敷がおかれています。一方西側は、相国寺惣門と今出川通りの間を三分するかたちで、今出川通りと平行する二本の小路が走り、南の小路が「石橋町」(東の伏見宮のほぼ北限ライン)、北の小路が「二本松」または「鹿苑院門前町」と呼ばれ、共にその通りに面して町屋が並んでいたようです。
このうち「石橋町」は、その南に「冷泉家」や「藤谷家(現在の徳照館)」および「御附武家」などの敷地をおいていたため、その位置はおおむね現在の明徳館あたりだったものと思われます。
であるならば、「二本松」の小路は現在のチャペルの南で、今出川キャンパスのコンコースの北側と重複することが考えられ、薩摩藩二本松屋敷は、およそこのコンコースを中心としたあたりに設けられた可能性が強いと思います。
ところで同志社大学では、学生の少ない長期休暇を利用して、さまざまな施設の整備が行われています。先日は地下埋設管の付設に伴う小さな工事が、今出川キャンパスのコンコース東でおこなわれたため、歴史資料館がそれに立ち会いました。
工事の面積は2m×50cmで、深さは約60cmでしたが、江戸時代中期頃のゴミ穴の一部がみつかりました。狭い面積の地点情報であり、薩摩藩屋敷にかかわる遺跡の発見に直接つながるものでもありませんでしたが、地中に眠る歴史遺産というものは、広い面積の調査だけではなく、こういった狭い面積の点情報を遺跡GISのデータベースでつないでいくことによっても復原することができます。
これからもこういった地道な調査を大切にしていきたいと思います。