3世紀の岩倉盆地を掘る1| 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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同志社小学校予定地(岩倉忠在地遺跡隣接地)の発掘調査

若林 邦彦
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2005年1月11日

 現在、歴史資料館では、2006年4月開校予定の同志社小学校(仮称)の校舎建設に先立って発掘調査を行っています。建設予定地(左京区忠在地町・大鷺町)の北に隣接した領域では、1979年の発掘調査で縄文土器・弥生時代後期末~古墳時代初頭の土器・奈良~平安時代の須恵器などがみつかっていて、「忠在地遺跡」と名づけられています。今回の調査地は、その土器がみつかったところから100~200m程度南の場所です。これまでは、その遺跡の広がる範囲や隣接地の状況はよくわかっていませんでした。

 昨年秋に、小学校建設に先立って試掘調査を行ったところ、少数ですがやはり古墳時代初めの土器がみつかりました。そこで、本格的な工事が始まる直前の昨年12月中旬から、小学校校舎部分について発掘調査をはじめました。  

 調査を進めると、弥生時代後期末~古墳時代初頭の竪穴住居や柱穴・土坑・溝などが検出されました。こういった遺構は、当初の確認トレンチでの遺構検出の結果、同志社小学校校舎予定地のほぼ全面に広がっていることがわかってきました。そこで、当初の予定を延長して、2月19日までの予定で、校舎部分の約4800㎡をすべて発掘調査することになったのです。

焼け落ちた竪穴住居

 調査がはじまった直後、調査地の南西部で地表からわずか10cm程度の深さの土層から、炭を多く含んだ正方形の遺構がみつかりました。一部を掘ってみると、竪穴住居と呼ばれる、古墳時代以前によくみられる建物の跡だとわかってきました。この遺構の埋土には、炭や焼けた土のかけらが多く含まれていることから、上屋が焼け落ちて竪穴住居が埋まったと考えられます。火事によって建物が崩れ落ちたか、住居を使わなくなった後に焼き捨てたかのいずれかと考えられます。

その他の遺構

 さらに、調査区の東片部では、同じような方形の落ち込みの中に炭を多く含む黒い土で埋まった遺構があり、周囲にも炭や焼け土が散らばっていました。これも、建物などが焼け落ちた痕跡と考えられます。

 こういった遺構の周囲には、小溝や柱穴、大きな溝がみつかりました。遺構の中から見つかる土器は、すべて弥生時代後期末~古墳時代初頭(3世紀)のもののようです。また、調査区の北側では長さ約1.2mの長方形の穴(土坑)が同じ方向を向いて並んでいるのがわかりました。はっきりとはわかりませんが、この土坑はお墓だったとも考えられます。

 これらの遺構のほとんどは、まだ検出されたばかりで、これから本格的に掘り始めるところです。今後の調査にご期待ください。


検出された竪穴住居

住居内に残る炭化材




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