渡辺 悦子
同志社大学 歴史資料館 調査補佐員
最終更新日 2004年8月01日
新しい発掘調査がはじまっています。場所は寺町通石薬師下ル染殿町、同志社大学北志寮地点です。毎度おなじみではありますが、調査地点付近の歴史環境を知ることは発掘現場の鉄則。この場所の古代から近世までを、いっきに駆けぬけてみようと思います。
調査地点の西側をはしる寺町通はその昔「京極通」と呼ばれていました。古代の京極通は一本西の梨木通をはしっていたとも言われ、はっきりしたことはわからないのですが、つまるところこの付近は、その名のごとく、平安京の東の境界にあたる場所でした。
境界とはいえ、日本の宮城は中国などとは違い城壁で囲まれているわけではありませんからその境い目はゆるやかなものです。10世紀後半頃には、この近くの「土御門(現・上長者町通)南・京極西」には摂関政治の基礎を作り栄華を誇ったかの藤原道長(966~1027)が住んだ「土御門殿」あるいは「京極殿」と呼ばれた邸宅が建てられていました。またちょうど調査地点の場所には、一条天皇の中宮となり、後一条天皇・後朱雀天皇を産んで父・道長の栄華を支えた藤原彰子(988~1074)の邸宅「上東門院御所」があったと言われています。
道長の死後は次第に荒廃し、中世には吉田兼好が『徒然草』で「京極殿・法成寺など見るこそ、志とどまり事変じけるさまあはれなれ」と書いたように、かつての華やかなりし姿はなかったようですが、その一方で、『北野天満宮史料』の「酒屋交名」によると、「土御門京極西北頬」や「一条京極東北頬」には酒屋があったことがわかっています(中世、酒屋というと高利貸しを兼ねる者も多く、彼らからの徴税が幕府の大きな財源ともなっていた富裕階層です)。
また、応仁以前の景観を描くとされる「中昔京師地図」によれば、調査地点付近にあたる京極一条の東北の地に「一条道場」と呼ばれる時宗系の寺院があったことが見えます。この寺は寛永14年(1637)の「洛中絵図」によれば、調査地点から通りをはさんで北東の場所に「迎称寺」としてみえますから、「中昔京師地図」が正しければ、この間になんらかの理由で移動したと考えられます。
豊臣秀吉(1537~1598)の頃には、京極通の東側には、洛中に点在していた寺院が配されて「寺町」が作られ、また現・京都御苑内一帯には土御門東洞院内裏を中心とした公家町が形成されます。調査地点は、西に公家町、東に寺町の、またしても境界に位置することとなります。
江戸時代に入ってからは、寛永14年の「洛中絵図」によると、調査地点付近はそのような公家町と背中合わせになった町屋がならんでいた様子が見えます。また、延宝5年(1677)の『内裏之図』では、「高辻殿御屋敷」「松木」「四辻」「六条」などといった公家衆の家がならんでいますから、公家街が東へと拡張していく様子がうかがえます。調査地点はそのうちの藤原氏の傍流「四辻」家と、菅原氏の傍流「高辻」家の境界付近に当たります。二つの家の家紋瓦(四辻家は「上がり藤」或は「唐花菱」、高辻家は「梅」)などが出土するかもしれません。
京の境界からは、どんな遺構が見つかるのでしょうか。次回以降の発掘速報をお楽しみに!