鋤柄 俊夫 同志社大学 歴史資料館 助教授
最終更新日 2004年6月17日
前回のコラムで紹介したように、新町キャンパスは、江戸時代に桜御所と呼ばれた近衛家の別邸跡と推定されています。これまでの新町キャンパスの調査は、全て上立売通りに近い北側で、近衛家別邸の中心から離れた場所でした。しかし今回の調査区はキャンパスの中央から西側にあたり、もし敷地が重複しているならば、主殿に近い部分の可能性があります。一方文献史料や絵画史料では、この邸宅が造られた時期や桜御所と呼ばれた江戸時代における役割についての情報は、必ずしも十分ではなさそうです。今回の調査は、その点で、近衛家別邸がいつ出来てどのように変遷したかを明らかにし、また近衛家を通じて、中世の公家文化に初めてひとつのモデルを提案する、重要な責務を負っています。
臨光館北側の調査区から、再び布基礎跡が見つかりました。例によって直径20センチの石を柱穴の底に置いています。この遺構は、調査区の南東隅からほぼ真西に向かってのび、調査区の中央付近で南に曲がるものと思われます。またこの遺構の北側には粘土を強いて砂を撒き、硬くたたき締めた路面状の部分があり、やはり調査区の南東からはじまり、中央部分で南に曲がります。さらに、この路面状の遺構と重複して東西にのびる2時期の柱列も見つかりました。よってこれら柱列と路面状の遺構によって構成されるラインは、すくなくとも3時期にわたり敷地を区切る境界の役割を果たしていたことになります。
さて前回、臨光館東の調査区で南北方向の布基礎がみつかったことをお知らせしました。その時触れられませんでしたが、やはりその布基礎のラインも少なくとも3時期の作り替えがありました。一方、現在の学生会館地点の調査でも同様な柱列がありましたが、そこでは少なくとも2時期の作り替えがわかりました。
これらはまったくの偶然でしょうか。江戸時代初期の京都を描いた洛中絵図によれば、桜御所近衛殿は、直接通りには面しておらず、周りを町屋に囲まれた凹凸の敷地で描かれています。これまで見つかった布基礎のラインと近衛殿の敷地境界との関係について、現在緊急検討中です。