発掘物語6 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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布基礎発見

鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 助教授

最終更新日 2004年6月2日

 近衛殿別邸跡推定地の調査が進んでいます。調査は臨光館の解体スケジュールと調整して複数のトレンチ(調査区)に分けて進められ、これまでに3つのトレンチで調査が終了しました。

 このうち臨光館東側のトレンチからは、南北方向の溝に据えられた柱の跡と土坑が見つかりました。共に埋まったのは16世紀代初め頃でしょう。

 列になった柱の跡は、最初は普通の溝の形で見つかりました。しかし掘り進めると、まず数10センチの深さで等間隔に並んで上面の強く焼けた石がでてきたのです。そこで、まさか柱を据えるために掘った溝ではないだろうとは思ったのですが、念のため溝の土層の堆積を観察して、写真と図面をとってさらに掘り下げると、約60センチの深さで底に達し、そこから写真のような石が並んでみつかったのです。こういった遺構は一般に布基礎と呼ばれる建築工法の一種なのですが、戦国時代の建物の一般的な基礎は礎石なので、ちょっとびっくりしました。しかし思い出してみれば、現在の学生会館地点でも寒梅館地点でも、規模は違いますが同じような構造の柱列が見つかっており、三重県の安養寺遺跡でも去年みつかっています。可能性の一つには入れておくべきでした。遺跡の向こうには必ずそれを築いた人間がいます。幸い調査の過程で必要な記録はとっていたので、後で再検討することができますが、調査者の先入観ではなく、遺跡をつくった人間の意図を汲むための、遺跡に対する集中力と緊張感の重要性を改めて勉強しました。

 ところで、それではこの柱列はいったいなんなのでしょう。深い溝を掘って据えているということは、その柱に支えが無くても倒れにくくするためだと考えられます。またその底に石を置いているということは、石を置かなかったら柱が沈んでしまうということが考えられます。ということは、この柱列は、高さがあるか、支えのないもので、しかも重量のあるものということになります。簡単に言うと頑丈な塀でしょうか。三重県安養寺遺跡の例とあわせて戦国時代の終わり頃の建築の一種として今後注目すべき遺構かもしれません。

 この溝が埋められたのが16世紀初めだと思われますから、造られたのは15世紀です。近衛殿別邸の屋敷を囲む施設だったのでしょうか。重要な手がかりと言えます。

 現場ではいつもブラブラ歩いているように見えますが、頭の中では、目の前の遺構をどのように合理的に組み合わせたらどんな風景ができあがって、それがどんな意味をもつのかといった仮想時空間クリエイトをおこなっています。遺跡に対する全てのイマジネーションは現場でしか生まれないからです。しかし現場を直接見られる人は限られています。したがってもっと多くの人にその臨場感を体験してもらう工夫も、これからの考古学の重要な仕事になってきています。


1トレンチの柱列

柱列の横の土坑から出土した信楽甕を囲む人たち





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