同志社大学通信『One Purpose』vol.136より
竹井 良介
同志社大学 文学部2回生
杉山 俊介
同志社大学大学院 文学研究科
最終更新日 2004年11月8日
陶磁器のなかでも、安土桃山時代から京都で製作され始めた京焼は、それぞれ作られていた地名を採って粟田口焼、清水焼といった名称で記載されており(寛永17年6月20日「粟田口作兵衛焼之花(茶?)入五ケ来也」)、これらの総称を京焼と呼んでいたようです。初期の京焼は、豊かな経済力をもつ町衆によって支えられており、彼らの趣味や流行を受け入れて製作されていたようです。たとえば当時の文化人のひとりである金森宗和は、切形という見本を粟田口に送り、好みの茶入を作ってもらっています(寛永17年11月8日「金森宗和被切形、而於粟田口、而作兵衛焼之茶入也」)。
次に伊万里焼というやきものについてふれたいと思います。伊万里焼は、秀吉の朝鮮出兵の際に連れてこられた朝鮮半島の陶工達によって始められたものとされ、寛永期にはまだそれほど多く記載されていませんが、正保・慶安年間(1644~1652)になると、陶磁器について書かれてある箇所には高い割合で「伊万里」の名称がみえ(慶安2年12月25日「今里焼之茶碗拾丁被恵之也」)、寛永期から慶安期にかけて京で流行したと思われます。
今回調査を行った臨光館地点の石組貯蔵庫(17世紀中頃~後半頃)からも陶磁器が多数出土しており、上にあげた京焼・伊万里焼の碗や皿のほか、中国製の輸入磁器や茶会にはかかせない天目茶碗(瀬戸・美濃産)も出土しています。
このような出土遺物の産地や器種の多様性は、当時の活発な陶磁器流通の様子を物語るとともに、発掘された資料と『隔?記』のような文献資料とあわせて考えてゆくことで、「桜御所」に集った公家の生活やそこでの文化的活動の様子を鮮やかによみがえらせる手がかりとなります。