松田 度 同志社大学 歴史資料館 調査研究員
最終更新日 2004年9月8日
臨光館地点の調査もいよいよ大詰め。前回お知らせした江戸時代の遺構の調査を終え、室町時代の調査に入ったところです。
地山面に掘り込まれた遺構の精査をすすめているうちに、東西方向にのびる溝状の痕跡がみえてきました。幅は2.5m、長さはトレンチ外にのびて、数m以上になります。土の堆積状況をみて、上下の層にわけて掘り下げてみると、0.8m下で地山が顔を出しました。この幅と規模を考えると、堀といってもよさそうな遺構です。東側と北側は別の遺構で切られており詳細な観察ができませんでしたが、残りのよい西壁の断面をみていたところ、すこし奇妙なところに気が付きました。
西壁の断面を観察してみると…。北側はほぼ垂直に地山が削りだされているにもかかわらず、南側は2段掘りのかたちになっています。また溝の東西軸に対し、北側の掘り方がずいぶん北よりです。どうしてこんなかたちになっているのでしょうか。
地山にほりこまれた溝の埋土は、大きく3つの単位に分けることができそうです。ひとつは、北側下部にのみみられる、黒褐色の部分。もうひとつは、焼土を埋土とする部分。二段掘りの下部のみにみられます。そしてもうひとつが、それらの埋土をきって溝の上部まで堆積するすり鉢状の部分です。これらをみるとこの堆積は、以下のように整理できます。
A、Bは残りがわずかであるため、いつ頃掘られた溝なのか、はっきりしません。ただしそれらを切っているCの下層からは、15世紀末頃から16世紀前半代の土器がみつかっているため、A、Bがそれ以前の遺構であることはまちがいないでしょう。
なお、この東西方向の一連の溝の続きは、この調査区の西側で行った調査でも確認されています。そのときは溝下層の埋土から14世紀代の亀山焼がまとまって出土しています。
これらをあわせて考えると、今回みつかった東西方向の溝は、14世紀から16世紀にかけて、やや場所をずらしながらすくなくとも3回程度の掘り直しがなされている可能性がでてきました。とくに最後の段階にほりこまれた溝(C)については、年代的にも15世紀後半頃には当地にあったとされる近衛殿別邸との関連性が窺えます。これらの溝は、上京における溝・堀の変遷を考えるうえで貴重な資料となるでしょう。