渡辺 悦子
同志社大学 歴史資料館 調査補佐員
最終更新日 2004年7月25日
以前にお送りいたしました「史料編・近衛殿」中世編では、15世紀半ば頃までは確実にさかのぼると考えられる近衛家別邸「御霊殿」が、応仁・文明の乱を転機に近衛家当主の住む邸宅となった、とお伝えしました。今回は当主本宅となる前の「御霊殿」時代の補足と、その後この邸宅がどのような変遷をたどったかをご紹介したいと思います。
まずは「御霊殿」です。「御霊殿」と呼ばれていた時代のこの邸宅の性格は、近衛家の「御影」を祀る一種の祭殿であったことがわかってきました。「御影」を祀る施設には「鳥居」があったようですから「御影」の祭祀は仏式ではないことがわかります。またその「御影」を祀る祭祀者としてここに住んだのが、近衛家代々の「嫡女」によって継承された「御霊殿」と号される女性で、彼女たちは一生を独身で過ごしたようです。祭祀には禊や祓といった儀式が不可欠ですから、発掘調査で見つかったいくつかの巨大な井戸状の遺構は、それらに使用されたものかもしれません。
近衛政家が御霊殿敷地内に自宅を再建したあとは、同邸宅内に付殿としてあったとする説もあるようですが、「智恵光院」や「不断光院」などに住んでいたことや、御霊殿が祀っていた「御影」に参詣するために、政家が「近所の寺において装束を改」めてから行ったとも見え、また政家の子・尚通の頃には、一時邸宅内の「蔵前座敷」に住んだ時以外は常に「御霊殿へ罷向う」「御霊殿参らる」などと見えることから、邸宅とはある程度距離を置いた場所に住んでいたという印象を受けています。いずれにせよ、実態を明らかにするには、更なる調査が必要でしょう。
さて、近衛家当主の邸宅となって以後は、この屋敷は「御霊殿」ではなく「近衛殿」と呼ばれるようになったようです。今日の本題、「近衛殿」のその後の変遷を、史料を使って順に追っていきましょう。
◇政家(1445~1505)とその子・尚通(1472~1544)の時代◇
・長享3年(1489)6月11日「去春ごろより新造せしめし風呂、今日始めて之に入る」、同7月23日「是日、文庫の立柱上棟なり、」(『後法興院記』)
・明応4年(1495)11月21日「今日より作事始なり、聖門より一宇を給う、関白(尚通)の居所なり、・・・」(『後法興院記』)
・明応9年(1500)7月28日 「申刻艮方より火事出来す、北風吹き、程なく近所炎上、余煙此の亭に及ぶの間、飛鳥井亭に向ふ・・・」(『後法興院記』)
7月29日「昨日の火事、上は柳原、下は土御門、東は烏丸、西は室町と云々、前代未聞の事なり、」(『後法興院記』)
12月14日 「是日移徙なり、三献の事有り、家僕共に太刀を進む、」(『後法興院記』)
屋敷の体裁が順調に整っていき、明応4年には同じ敷地内に息子尚通の新居が営まれたようです。明応9年「近衛殿」は炎上してしまいますが、文明10年に被災した時とは違い、わずか5ヶ月後には再建されていることがわかります。
◇稙家(1503~1566)とその子・前久(1536~1566)の時代◇
・大永年間(1521~28)の風景を描くとされる国立歴史民俗博物館蔵洛中洛外図屏風甲本の「近衛殿」
・弘治3年(1557)4月28日 「夜、上京大火事、立売町已下、四百間余焼失す、近衛殿炎上なり、入江殿は苦しからず、御門ばかり焼くなり、」(『厳助往年記』)
・永禄6年(1583)正月13日「上邊少々礼に罷向ふ、・・・近衛殿、御両所(稙家と前久)御留守なり、」(『言継卿記』)
永禄9年(1566)7月1日「上邊礼に罷出、先近衛殿、太閤(稙家)御盃賜之、殿下(前久)御留守、・・・」(『言継卿記』)
弘治3年、「近衛殿」は再び罹災、その時の再建がいつであったかは今のところはっきりしていません。永禄3年(1560)頃には「近衛殿」の名前が『言継卿記』にあらわれてきますが、「上邊(=上京のこと)」という場所が明示されるものとなると上に挙げた記事となります。これら二つの条文からは、稙家・前久親子が同居していたことが察せられます。
◇前久とその子・信尹(1565~1614)の時代◇
・永禄11年(1568)~天正3年(1575) 近衛前久京都を出奔、大阪・丹波などを転々とし、帰洛(『言継卿記』、『公卿補任』『御湯殿上日記』など)
・天正6年(1578)5月28日「昨日二十七日、近衛殿、羽柴藤吉郎(秀吉)殿ヘ移らる、今度右府(信長)の御異見よりと云々、」(『兼見卿記』)
・天正7年(1579)2月22日「近衛殿に参る、御両御所(前久・信尹)御対面、」(『兼見卿記』)
・天正8年(1580)9月12日「近衛殿へ参る」(『兼見卿記』)※「近衛殿」に「下」の傍書がつく
・天正9年(1581)正月28日「近衛殿御方御所(信尹)へ参る、明日、下の大御所(前久)において連歌御興行なり、」(『兼見卿記』)
天正10年6月2日の本能寺の変「其節、敵城ノ北ニ当テ、近衛殿ノ下館トテ、棟高キ屋形ノ有ケルニ、寄手方ヨリ兵ヲ登セ、玉火矢・棒火ヲ数十挺城中打入ケレバ、本丸ニ火夥敷燃付タリ、」(『明智軍記』巻9「本能寺并二条城攻落事」)
・天正11年(1583)10月5日「予、又上京に罷るなり、直ぐ近衛殿御屋敷を見舞ふ、」(『兼見卿記』)
・天正13年 「去秋の仰せ、禁裏御近所へ堂上衆 殿を遷られそうろう、家門の儀 同前にそうろう」(「天正13年12月13日付近衛信尋書状」)
永禄後年より約7年間、「近衛殿」は当主不在の邸宅となっていたようです。前久が京都を出奔したのは、織田信長が擁した室町幕府第15代将軍・足利義昭と不和を生じたためと言われています。前久の帰洛にあたっては信長の尽力があったようで、以後前久と信長は非常に親密な仲になり、天正6年の条にありますように、信長の意見でもって前久は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と一時同居していたことが見えます。
天正7年の「近衛殿」は場所が不明ですが、前久・信尹親子は同居していることが認められます。翌天正8年には、「下」の「近衛殿」というものがあらわれはじめます。そして天正9年の条文を見ていただいてもわかりますように、「下」の近衛殿には前久が住んでいることがわかり、親子が別居していることが見えます。また、『明智軍記』には本能寺の変で明智光秀方が二条城(当時は烏丸・新町・丸太町・下立売に囲まれた範囲にありました)を攻めた際に「近衛殿ノ下館」から矢を射たと見えますから、この「下」の近衛殿はその付近にあったと思われます。そしてまた「下」とはやはり「上」に対する概念ですから、上京の「近衛殿御方御所」に対する「下」であったのではないかと考えられるのです。すなわち、この時代の「近衛殿」は信尹の居宅であったと言えそうです。
本能寺の変以後、前久は出家し、家督は信尹が継ぎます。彼は引き続き上京の近衛殿に住んでいたことが天正11年の条よりわかります。
やがて天正13年、信尹は、烏丸今出川の南東に「今出川邸」とよばれた広大な屋敷地を持つ邸宅へ移住することとなります。ここで「近衛殿」は再び「近衛家別邸」となるのです。
◇信尹とその養子・信尋(1599~1649)の時代◇
・慶長6年(1601)3月8日「御霊図子の糸桜を一覧す」(『三藐院記』-信尹の日記)
・元和7年(1621)正月1日「近年無人」(『本源自性院記』-信尋の日記)
・寛永5年(1628)7月14日「・・・次で御霊殿ニ参る、宝樹院(前久の後室)仮住の故なり、次で帰宅す、」(『本源自性院記』)
・寛永7年(1630)8月20日「宝樹院殿、申刻ばかり他界す〈春秋九十四〉、」同24日条「予、焼香に参る、依りて群集に先んじ御霊殿に入る、・・・」(『本源自性院記』)
・寛永14年(1637) 『洛中絵図』に「近衛殿桜御所」とみえる
・寛永21年(1644)8月27日「・・・近衛殿下桜御所、先日漢和之破題章句、予において、仰付らるに依るなり、」、正保2年(1645)8月25日「・・・大練の柿壱籠百七顆呈上致す、桜御所応山様(信尋)なり、持参せしむなり、」(『隔?記』)
慶長6年の条は信尹が「今出川邸」へ移住して約20年が経過しています。「御霊図子」が新町キャンパスのすぐ南をはしる道であることは以前にもお話したとおりですが、あくまで「御霊図子」周辺で「一覧」するのみで、花見の宴を行ったようなことは見えませんから、この時「近衛家別邸」があったかどうかはわかりません。20年後の元和7年になると、「近年無人」とありますから、何らかの建造物はあったと考えられます。寛永に入ると、一時期前久の妻「宝樹院」が住んでいたようです。またこの頃にはふたたび「御霊殿」と呼ばれていたことも見えます。
近衛家別邸が「桜の御所」と呼ばれる画期は、どうやら寛永年間のようです。その頃の近衛家は、非常に皇室と深い関係を持っていました。信尹の妹・前子は後陽成天皇の女御となり、後水尾天皇を生みました。前子が生んだもう一人の皇子は、後継ぎがいなかった信尹の養子に入り、近衛信尋となりました。時の天皇の弟・信尋が宮廷歌壇の中心として活躍していたのが、元和年間から寛永年間にかけてのことだったのです。「近衛家別邸」が「近衛殿桜御所」と呼ばれたのは、そのことと何か関係があるのかもしれません。「近衛殿桜御所」の名称の初見となっている『洛中絵図』で「御所」と記載されているのは、ここ以外には皇女たちが入寺した門跡寺院・曇華院の別称「竹の御所」だけです。そのことからも「桜の御所」の名称が、いかに特殊であったか察せられます。
付説 ◇「桜の御所」時代◇
近世に入ると、現在に伝えられる史料があまりにも膨大でかつ散逸しているため、今回はその後の「桜の御所」にどのような人物が住み、伝えられていったかを追うことは出来ませんでしたが、江戸時代半ば以降に出版された地誌に残される「桜の御所」を、少しご紹介しておきましょう。
まずは、貞享元年(1684)頃に世に出た『雍州府志』によると、「不断光院」という寺の説明箇所に、「近衛殿桜御所ノ中ニ在リ、則チ内道場ト為ス、博陸候(尚通)・前久入道龍山公以後、代々ノ塔有リ(中略)、浄土専念ノ僧住ス、」と出てきます。不断光院は九条家の女性などが入寺していたと思われる尼寺で、『言継卿記』や『兼見卿記』などに、「近衛殿」を訪れる際に衣服を整えるため立ち寄ったと出てくる寺院ですから、もともとは「近衛殿」の近くにあった寺なのでしょう。『雍州府志』の記載が正しければ、その寺が近衛殿内に吸収され、また「代々ノ塔」は近衛家代々の「御影」を祀っていた「御霊殿」時代の近衛家の習慣が転化していったものとも考えられます。
また、元禄15年(1702)頃に成立したといわれる『山州名跡志』の「御領ノ辻子」の項には、「此ノ所北方ニ近衛殿ノ別業アリ、古エ糸桜アリテ貴賎之ヲ賞ス」と見え、糸桜があったのは昔のことで、この当時はすでになくなっていたかのような書かれ方をしています。また、「此殿、古エハ大架ニシテ、今四辺ノ地ハ其ノ封境ニシテ家人住ス」のような状態であったようです。
「近衛殿桜御所」は絵図上では慶応4年(1868)まで存在が確認できます。『京都坊目志』には維新後は畠地になっていたとあり、明治維新後、天皇が東京へ遷都すると同時に公家衆も移住していきますから、その時にこの邸宅も廃絶したと考えられます。
古代、歴史の中心にいた貴族は、多くの研究者の関心の的でした。しかしながら中世に入っては武士政権へ、近世になると町衆の台頭へとその興味が向けられ、中・近世の貴族社会は、いくつかの優れた研究はあるものの、まだまだ進んでいるとは言い難い状況があります。それは、彼ら貴族が大きな歴史の流れからはずれた存在となったからに他なりません。
とはいえ、これを京都という地域史の中でみるとどうでしょう。ご存知のように貴族という社会階層の人々は、日本のほかのどの地域にもいない、京都だけの特殊な階層です。単純に、彼らの居住空間が京都という都市の中でしめた割合が無視できないのはもちろんのこと、彼らが生み出した長い伝統に育まれた文化や習慣などが、「京都」という地域に及ぼした影響ははかりしれないものがあります。
今回の調査が、皆さんにとって中・近世の公家社会を考えるひとつのきっかけとなれば幸いです。
◇参考文献◇
・橋本政宣『近世公家社会の研究』、吉川弘文館、2002年