渡辺 悦子
同志社大学 歴史資料館 調査補佐員
最終更新日 2003年9月29日
皆さんこんにちは!文献屋の歴史そぞろ歩きの時間がやって参りました。
今回は、8月に調査をしていた大学会館南地点の通路部分から築地塀の基礎部分と思われる石組が見つかったこととあわせて、室町上立売付近の昔について考えてみることにしました。
平安京は一条通以南に造られた都市ですから、その北に位置する上京の町が出現、拡大、発展していくのは中世半ば以降のことで、特に歴史の表舞台に躍りでることとなったのは、室町幕府三代将軍足利義満が室町通上立売に「花の御所」と呼ばれる居宅を構えてからです。そしてその頃から室町通は、通の両側には商店の軒が連なり、付近には政治の中心であった「花の御所」をはじめとする政庁が集中する、メインストリートとなっていきました。「室町時代」の名は、まさにこの通を中心に歴史の縮図がくり広げられていたことにちなむのです。
なかでも上立売通との交差点は「立売の辻」と呼ばれ、十六世紀半ば頃の京都の景観を描く上杉本洛中洛外図屏風に立売の辻が洛中のほぼ中心点に描かれることからも、上京の中心地であったことを思わせます。また、立売の辻は十六世紀初めのころより上京で室町幕府の制札の立てられた場所でもあり、ここは多くの人々が行きかう重要な場所だったようです。
さて、発掘調査をしていた場所はそんな「立売の辻」を一町ばかり南へ下った、「裏築地町」に含まれる場所にあたります。この町は室町時代の文献によると「裏辻子町」とも呼ばれていたようです。裏築地町は、天文法華の乱(1536)以降に現れる、自治的都市の町々の連合組織である「町組」の中でもその初期にできた「立売組」に属する4つの町の一つで、少なくともその名前の初見は天文18年(1549)にさかのぼることができます。当時のメインストリートに面する町でもあり、また京の町では、家の間口の軒数を基準にした税の取り立てが知られていますが、裏築地町は、天正年間(1573~92)には時の豊臣秀吉政権による建造物の改築費用に軒あたり105文(天正13年~20年の間では平均して50文前後が普通)の分担金を賄っているところからしても、富裕な商人たちが住む町であったと考えられます。町組は時代が進むと共に親町と枝町、寄町といった格差ができていきますが、裏築地町は立売親組の一町として高い格式を誇りました。発掘物語5の第一回で見つかった分銅も、そのような商家の一つで使われていたものなのでしょう。
ところで、大学会館地点で見つかった、築地塀基礎と推定される石組の町割りは、いつ頃に成立したものなのでしょうか。江戸時代初めに当たる寛永14年(1637)に書かれた『洛中絵図』では、ちょうどこの場所に「うら徒ぢ町(裏辻子町)」との書き込みが見えます。そしてこの「うら徒ぢ町」と「聖護院」との境界線はまさにこの石組のならぶライン上に一致します。現在は左京区黒谷にある聖護院ですが、延宝4年(1676)に現在の地へ移転するまでは、それまで岩倉長谷にあったものを豊臣秀吉により現在の同志社大学大学会館が建つ御所八幡町に移されていました。
また、天正の頃からの記録を載せるという「上京親町之古地由来記」には、「裏築地」が足利将軍邸である室町御所の裏にあって南向きに門をおいた「裏築地館」に由来すると言い、宝暦3年(1753)に成立した応仁以前の京を描くという「中昔京師地図」には、「花御所旧地」の北に方一町の「裏築地館」が設けられていると言います。
石組自体は江戸時代から明治・大正の頃まで使われていたと考えられる遺構ですが、町割のライン自体は室町時代にこの地に足利将軍邸ができた頃に成立していたのかもしれません。
新たな謎の種は、どんなところにでも落ちています。調査は終わりましたが、その研究はこれからも続いていきます。それではまた、どこかでお会いしましょう!