発掘物語4 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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第5回 : 続・岩倉北グラウンドの調査日記

若林 邦彦
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2004年9月19日

 9月9日

 北グランドの中央北辺地点(第4調査区)の調査をしました。表土から40㎝くらいの深さまでは耕作土(1~2層)と考えられますが、そこから下は深さ1.5mまで礫と砂の互層(3層)となっていました。これも、第2・3・7調査区で確認された流水堆積層と考えられます。すぐ西側を流れる岩倉川の前身となる流路帯の痕跡と考えられます。遺物は、上部の耕土層から少量の土師器(古墳時代?)がでただけです。同士社高校敷地の北辺部分は、旧岩倉川の流路帯の一部だったことは間違いないようです。それがいつの時代に形成された礫・砂層なのかはまだ確定できませんが・・・。いまのところ、古墳時代くらいまでには礫・砂層が形成されていたという見通しは立ちそうです。
 これから、どんどん今の岩倉川に近い部分を掘ります。川と現況地盤形成の関係がすこしづつわかってくるでしょう。それと人間活動がどうからんでくるか。これがこの確認調査の見所となりそうです。


第4調査区の土層断面(一番下の石が多く入っているのが3層)

 9月10日

 今日は岩倉北グランウンドの南辺中央地点(第1調査区)の調査を行いました。表土から20センチ程度で、他の調査区でも確認されている礫層(3層)が確認されました。その層の中からは摩滅した土師器や須恵器の破片が少量出土しました。ただ、礫・砂が攪拌された状態で形成されているので、もしかしたら近・現代の整地層だった可能性があります。
 さらに、下部には耕作土とも考えられる粘土層が30センチ程度堆積している状況が確認できました。その下には、今度は確実な河川堆積と考えられる礫・砂層が確認できました。


第1調査区の土層断面(一番下の石が多く入っているのが河川堆積層)

 9月15日

 今日は岩倉川にもっとも近接した地点(第5調査区)の調査を行いました。
 そこで、江戸時代の耕作土層を切る状態の河道の肩部を検出しました。河道の中には流水作用によって運ばれた礫や砂が堆積していました。現在の岩倉川は同志社高校の西側に南北方向に直線的に流れており、これとおなじ川の形状が大正時代の地図にあります。今回検出された江戸時代以後の河道痕跡は、現在の流路から5m程度東にずれた場所にやや異なる方向にのびる形状で検出されました。このことから、近代に岩倉川の堤防が整備され現在のような形態に固定される直前の河道の一部が検出されたと考えられます。


第5調査区で検出された、岩倉川の旧流路の断面(礫や砂がつまっているところ)

 9月14日

 今日は、北グラウンドの南西隅の地点(第6調査区)の調査を行いました。
 厚さ10センチ程度のグラウンド表土・整地土の下には黒褐色の粘質土層(3層)があり、ここには炭片や江戸時代の陶磁器片が多数含まれていました。今回の調査で初めて生活層とも思える土器包含層が確認できたことになります。
 その下には耕土と考えられるシルト-粘土層と礫を多数含む層が互層(4~6層)となっていて、最下層には流水作用によって形成されたと考えられる粗粒砂~中粒砂層(7層)が確認できました。近世の生活層が形成される以前には、この地点は水田もしくは畑だったと考えられます。
 第6調査区は、今回の確認調査の中でも最も南に位置しています。これより北側では、近世およびそれ以前の生活層は確認できなかったのですが、それは、同志社高校の造成時もしくはその前の近代の耕作地だった段階で、北グランドの大部分において近世の地表面が削平されていて、その南端部にだけ生活層が残っていたとも考えられます。


第6調査区の土層断面

 いずれにしても、これで第1~7調査区について確認調査を終えました。当初課題としていた中世以前の条里地割は検出できませんでした。これは、上記のように北グラウンドの範囲が一定の削平をうけていることと関係していそうです。また、古墳時代初頭の土器包含層については、流水堆積層において若干の庄内式期の土器片を検出しましたが、生活層を確認することはできませんでした。この時代についても、近接地点に存在したと想定される土器包含層からの流出物として、同志社高校敷地内に土器片がもたらされた可能性が高いと思われます。
 以上、あまり華々しくはありませんでしたが、これも発掘調査の一つ、「ある」ことを確認するだけでなく、「ない」ことまたはなぜ「なくなったか」を考える手がかりをつかまえるのも考古学調査の大事な目的です。この成果をもとに、歴史資料館では、同志社大学付属小学校(仮称)建設地点の文化財調査なあり方について方針を決めることになります。




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