松田 度
同志社大学 歴史資料館 調査研究員
同志社大学 大学院 博士課程後期
最終更新日 2003年7月23日
じきに梅雨もあけようかという今日この頃。岩倉大鷺町の発掘調査で東西方向に軸をもつ畔状の遺構がみつかりました。幅は畔上面の広いところで1.7m前後、長さは調査区内で17mを確認することができました。後でふれるように、これは条里地割にかかわる遺構と考えられます。
この畔は地山の上面に、地山の砂礫が混じる土に似た盛り土によって形成されていました。盛り土の内部やその周辺からは、8世紀から9世紀にかけての須恵器、硬質の緑釉陶器が出土しており、これらの土器を含む土を用いて9・10世紀以降に造成されたものと考えられます。この畔が使われていた年代は、近代以降の耕作土によって畔が埋まっていたため、平安時代から明治時代までの長い期間にわたる可能性も考えられます。
この大鷺町の発掘調査では、この条里地割の発見が重要な成果といえます。この条里地割の名残は、すくなくとも明治から大正年間の地形測量図にも記載されており、同志社高等学校が大正11年(1922)にこの地へ移転する以前の地割と景観を知る資料といってよいでしょう。
ではこの条里地割は、いったいいつ頃までさかのぼることができるのでしょうか。調査区の面積が狭いため、限られた時代のものしか見つからなかった可能性もありますが、現状では、畦の盛土のなかに包含されていた須恵器の年代から、8世紀をさかのぼることはないと考えられます。この盛土に包含されていた土器のなかでは、9世紀代とみられる緑釉陶器の素地とみられる資料があります。ですから、10世紀頃にはこの条里地割が成立していたと考えるのが妥当でしょう。なお、これと関連するものとして、1990年に同志社高校敷地内の西側(同志社高校理科館地点)でおこなわれた調査で、沼地状地形の上に堆積していた包含層から10世紀代に位置づけられる灰釉陶器がみつかっています。
また、畔を壊している井戸が一基みつかっており、安土桃山時代に位置づけられる土器・陶磁器の破片が出土しています。条里地割はこの頃から意識されなくなってしまったのかも知れません。
岩倉地域は、平安京に供給される土器・瓦の主要生産地でもありました。これらの需要にともなう岩倉地域の重要性の高まりが、このような条里地割の施行につながったとも考えられます。
この地域に条里制が施行された理由については今後の検討課題となりますが、平安時代の安定したやきもの・瓦製品の供給を考慮した、拠点集落の造営を理由の一つとすることができるのではないか。そうすると、この岩倉盆地でほぼ唯一の集落遺跡といってよい岩倉忠在地遺跡や、今回の発掘調査地点に、製品の集散地としての役割を想定することもできます。今後注目される遺跡です。
今回、古代窯業生産との関係で論じられることの多かったこの地域で、条里地割に関連する資料が得られたことは、岩倉の地域史を新たな視点で見直すうえで大きな成果といえるのではないでしょうか。