鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師
最終更新日 2003年7月15日
梅雨が終わりかけの蒸し暑い七夕の月曜日から、約2週間の予定で、岩倉校地の調査が始まりました。場所は国際会館の北にある同志社高等学校のすぐ東の一角です。
基本層序は3層で、第1層が腐植物を含んだ暗褐色の表土、第2層が砂の多いシルトベースの灰色の土、第3層が黄褐色の砂混じり粘土、その下が地山(人間がそこで生活する以前の層)で、ここでは砂をベースにして礫を多く含んだ層となっています。
調査は、第3層上面からおこなわれ、長方形の調査地に軸をあわせた溝が検出されました。発見された溝は、第2層を埋土として、第3層に堀りこまれたものですが、第2層は耕作土、第3層はその床土(表面にマンガンのかたまりが多く見られる)と思われるので、この溝は、耕作によって形成された鋤溝または畝溝と呼ばれているものの類いにあたると考えられます。時期は明治時代以降のようです。
なんだ、つい最近の畑のあとか、と思われるでしょうか。そのとおりです。でも、このなんでもない耕作の跡が、実はこの調査地の歴史をよみがえらせる大きな意味をもっている可能性があるのです。
先に書きましたように、この溝は調査地の敷地にあわせて、きれいに軸を揃えています。これはなぜでしょう。実はこれには理由があります。このあたり一帯には条里地割りが施されていたような字名や道路や川や微地形があって(現在残るその最も明瞭な遺構が、八幡前の駅から同志社高等学校を横断してまっすぐ西にのびる道です)、この耕作の溝の軸は、この条里地割りにさかのぼる可能性が考えられるのです。確かに明治や大正頃の地図を見ると、このあたり一帯には1辺が100mほどの単位が見え、調査地はその中でも、ある区画の北東部分にあたっていることがわかります。この条里地割りの起源がいつまでさかのぼるかはわかりませんが、今回見つかった溝は、岩倉の耕地開発の歴史をものがたる遺構になります。
ところでこの条里地割りですが、今回の調査地の周辺を見ると、調査区の東を流れる東川から、同志社高校の西を流れる岩倉川にはさまれた2町分は明瞭にわかるのですが、その外側は条里線がずれたり乱れたりしていて、あたかも調査区を含む東西2町、南北4町以上の範囲だけが、特別な空間の様に見えます。
この条里地割りの空間の中で、今回の調査区の北側もまた条里が乱れています。ところがその乱れ方が特殊で、南北の条里線が半町ずれた形になっていて、あたかも東西2町の条里のちょうどまんなかに、ほぼ1町四方の空間が設けられたような姿をしているのです。地図が示せないので分かりにくいのですが、現在も地籍にそれが反映されています。これはいったい・・・
実は気になっていたことがありました。調査地は字が「門田」といいます。それから「東川」は何の東なんだろう。岩倉川は水面高が周りの地面からとても低いから潅漑が大変だなあ。八幡前の駅から西へのびる条里にのった道は、鞍馬街道につながる旧道では?・・・・と。
今回の調査区の北で半町ずれた1町規模の空間は、中世の館の跡とは考えられないでしょうか。「東川」とは相対的な位置関係を表示した名称なので、この名称は、かつてこの川の西に、おそらくこの川の水利を握っていた自立した集落が生まれ、その住人が付けたものと考えられます。そしてその流れが条里地割りに沿っていることから、水面高の低い岩倉川に代わり、この地区を潅漑した水路だった可能性も考えられます。「門田」は館に関係する名称です。一定の短い距離をおいて、街道に面するというスタイルも中世後半の館にみられるものです。
調査区の東に位置する三宅八幡は、和邇氏を先祖とする小野氏の郷にありますが、そのすぐ西に所在する小山(戒庵山)が北岩倉にある長谷(ながたに)八幡の御旅所となっていることから、このあたりの基本的な軸線は南北で、明治の地図にも岩倉実相院から岩倉川に沿って南下する道のあったことがわかります。しかし、東西道がまったくなかったとは考えにくく、八幡前から西にのびる道がその東西道であるならば、この館?の推定地は、岩倉の最大河川である岩倉川との交差点にあたる場所にもなるわけで、これも中世館の立地条件と合っています。
もしそうであるならば、中世後半の館には堀と土塁がつきものなので、調査区の一角でその一部がみつかる可能性もでてきますが・・・
歴史の痕跡を求めて、調査の合間にもう少しまわりを歩き回ってみようと思います。