中川敦之
同志社大学文学部 文化学科文化史学専攻3回生
最終更新日 2003年5月9日
先月の7日に第1従規館地点の発掘調査が始まってから、1ヶ月が経過しました。この1ヶ月間に、非常に多くの遺物が出土しましたが、今回は少し変わった石臼を紹介したいと思います。
4月7日、本満寺の発掘調査が開始された日のことでした。私は幸運にも、記念すべき調査初日に現場に出させていただくという機会に恵まれました。その日、機械による掘り下げ作業の最中に1つの石臼が姿を現しました。しかし、その石臼には、臼目が無かったのです。一見して石臼と分かる形態なのに、臼目が無い・・・。このように興味深い遺物が出土した時の暗黙のルールがあります。それは、その場にいる学生の中で最初に鋤柄先生と目が合った者が、その遺物について調査するというものです。私はさらに幸運なことに、この石臼について調査するという任務を授かりました。
石臼とは元来、臼目と呼ばれる溝を刻んだ2つの石を、臼目のある面同士が接触するように上下に重ね合わせて使う道具で、穀物などの製粉作業に主として用いられていました。しかし、今回出土した石臼らしきものには臼目が無いため、私は鋤柄先生からアドバイスをいただき、以下の2つの可能性について考えてみることにしました。
今回出土した臼目のない石臼は、花崗岩で、厚さは約6cmです。一部分しか残っていませんが、半径は約18cmと思われます。心棒を通した穴が確認できますが、石臼の表面には特に気孔などは確認できません。
調べたところ、どうやら沖縄県や東北地方の一部では、もともと臼目を持たない石臼(目なし臼)が使われていたらしいということが分かりました。これは、それらの地域には安山岩や溶結擬灰岩といった多孔質・軟質の岩が多く、臼目を設けなくても製粉作業に用いることができるためとのことでした。一方、それ以外の地域では花崗岩が用いられることが多かったらしく、地域によって異なる多様な石臼のあり方に注意する必要があります。
今回の調査では、その後も多くの石臼が見つかっていますが、目なし臼はそれ以降姿を見せてくれません。なぜ、沖縄県や東北地方で見られる目なし臼が1つだけ姿を現したのか、あるいはもともと臼だったものが別の用途で用いられていた、というような事例があるのか。今後は、1つだけ姿を現してくれた目なし臼の歴史的背景なども含めて、より調査していく必要性を感じています。