渡辺 悦子
同志社大学 歴史資料館 調査補佐員
最終更新日 2003年4月26日
7日に始まった発掘調査は今、調査地点全体の東側で進んでいます。 発掘物語2でもはじめて発掘を経験したたくさんの学生さんたちの声が載せられていますが、私・文献屋(古い史料・文献から過去の歴史を研究する者--自称)もただ今同じ道を歩んでおります。私が担当する仕事の役割は出てきた遺構に番号を付け、概念図と呼ばれる遺跡の見取り図を書くことですから、直接に土を掘る作業にはほとんど参加することはありません。しかし概念図は、どこから何が出てきたかということの記録であり、遺跡調査の基本となる作業ですから責任重大です。
はじめて発掘調査に出て強く感じるのは、やはり考古学という学問は研究の基礎となるものが目の前に確実に存在するモノと場所から始まる学問ということ。文献屋がこれまでにやってきた作業、文献に書かれてある記事の内容やその文献そのものが書かれた時代から疑わねばならない文献史学とは違う印象を受けつつも・・・過去を推理する毎日を楽しんでいます。
さて、本満寺です。この寺が近衛殿の南側に位置する理由については発掘物語3の第1回に書いたとおりですが、寺伝において寺を開いたとされる日秀の、三代後の時代の近衛家の当主・政家が書き残した日記『後法興院記』から、政家と本満寺が非常に密接な関係にあったことがわかってきました。日秀は今のところ寺の伝説にだけあらわれる人物ですが、この日記によって近衛家と本満寺が実際に深い関係にあったのは確かな事実であったと言えます。
『後法興院記』によれば、本満寺住職が年末年始の他たびたび政家をたずね、政家もまた頻繁に本満寺を参詣していたようです。近親縁者の法要を本満寺で行ったり、政家の姉二人と娘がそれぞれ死に臨んだ際には息を引き取る前に当寺にその身を移したことも見えます。さらに、文亀3年(1503)10月、本満寺で住職と寺僧が争った時には政家が「家門のために」調停に立ったとも見え、また日甄(ニッケン)が新しく住職となった年には政家を訪ねています。
こうしてみると、寺を開いた日秀が近衛家を出自とする人物であるというのは、事実に基づいたことであるのかもしれません。
そうそう、大事なことを忘れていました。この本満寺らしい寺が、「洛中洛外図」に描かれているのです。つづきはまた、「文献屋の本満寺探索」vol.2をお待ちください。乞うご期待!