渡辺 悦子
同志社大学 歴史資料館 調査補佐員
最終更新日 2003年6月6日
こんにちは!文献屋です。今日は本満寺と縁の深い近衛家の人々が住んでいた「近衛殿」についてお話したいと思います。
近衛殿はこれまでの発掘物語でもふれてきたように、現在の同志社大学新町校舎の場所にあったとされた通称「桜の御所」と呼ばれる近衛家の「別業」、すなわち別荘であり、本満寺は寺伝によればもともとこの近衛殿の中に作られ、その後に分立して近衛殿の南側に建てられた、とされています。この近衛殿は「別業」と言われるように、中世の近衛家の本宅は現在の室町通と下長者通が交差する南東、現在の近衛町の辺りにありました。
ところが、前々回の「本満寺探索vol.1」でも紹介した近衛政家(1445~1505)が書いた日記『後法興院記』を読んでいると、おもしろいことがわかってきました。この日記の中で、政家は京都で起こった火事を出火した場所とともに書き残しているのですが、記録された「場所」と「方角(=つまり政家の視線)」とを丹念に見てみると、火事を見ている政家の居場所が、応仁・文明の乱をはさんで変化しているのです。
以上の「場所」と「政家の見ている方角」を矢印にして落とした地図が〈乱以前〉と〈乱以後〉の図です。特に(A)と(L)、(C)と(G)は、同じ地点を別方向から見ていることが明らかです。また、日記本文の(P)、(Q)を見ていただくと、それぞれ「近々」と言っている地点が(P)では「近衛西洞院」であり(Q)では現在の上立売通付近であることもわかります。
このことから、応仁・文明の乱をはさんで、近衛政家は住居を北へ移している様子が読み取られ、その矢印を発する地点は、乱以前では中世に近衛殿の本宅があったとされる①の地点であり、乱以後ではちょうど通称桜の御所と呼ばれた近衛殿の辺り、②の地点に集中することがわかります。
応仁・文明の乱を前後する頃から京内に住んでいた貴族たちは乱を避けて他の地域に移住していたため(例えば政家一族は宇治に避難していました)、乱が一応の終息をむかえると、元の居住地に帰るよう幕府から命令が出ていました*。しかしながら、政家は応仁の乱のあと、元の近衛町辺りにあった近衛殿には帰らずに、「桜の御所」、現在に伝わる文献などでは別業、つまり別荘であったとされている邸宅ですが、こちらを住居としたと考えられるのです。
また、本満寺の寺伝では、当初邸内にあった本満寺がやがて邸外へ出るとあります。政家は記録上では本満寺と関わりの深かったことがわかる最初の人物でもあります。寺伝でいうところの本満寺が近衛殿を出て一宇の寺として成立する時期と、「桜の御所」近衛殿が近衛家の本宅となっていた時期とはなんらかの因果関係を持っているかもしれません。
*…高橋康夫『京都中世都市史研究』昭和58年、思文閣出版より