鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師
最終更新日 2002年7月3日
前号でお知らせしました石垣の面の下は、江戸時代後期の焼き物を含んだ層が厚く盛られていましたが、それを掘り下げると、石垣のあった場所のほぼ真下から、南が低く北が高い段差が姿を現わしました。
高さの差は約1m、南の低い部分は炭をたくさん含んで真っ黒になった土で埋められており、その最上面にはきれいな黄色の粘土が薄く敷かれていました。これは段差を埋めてその上を整地した状況を示しています。
最初は池かとも思ったのですが、段差を埋めていた土の断面をみると、現時点で水の溜まっていたことを示す粘土の堆積が見られませんでしたので、池の可能性は低いことになります。
この段差の埋められた年代ですが、写真のような志野焼きの鉢などが出土していることから、江戸時代初め頃と考えられます。この段差が埋められる前、この場所は階段状に平坦面がつくりだされていたようですが、おそらく元和の火災の後、その段差を無くし、全体を平らな1面にする上京の改造がおこなわれたのでしょうか。
今回は、設けたトレンチの面積が狭いため、段差の下がどうなっていて、段差の上になにがあったのか、詳しいことはわりません。8月にトレンチを西側に拡張しますので、この問題については、そのときにあらためて検討したいと思います。
ところで、この段差を埋めていた土の中から写真のような金粉を外面に塗ったかわらけが出土しました。
これは「金泥かわらけ」と呼ばれているもので、これまでも16世紀末から17世紀初め頃を中心に、京都や大坂だけでなく、山口県の大内氏館など各地の拠点だったと考えられる遺跡での出土が知られています。中世史の脇田晴子先生によれば、「今井宗久茶湯日記」の天正元年などにその姿が見えるそうです。これまで多く出土している茶陶関係の資料を充実させるものでしょう。