鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師
最終更新日 2002年8月23日
室町殿の範囲について多くの不明な点のあることが明らかになりましたが、その内部構造についても、わかっていることは多くありません。
その中で積極的に建物配置の仮説を示されたのが中村利則さんです(『町屋の茶室』淡交社1981)。中村さんは永享4年の『室町殿御亭大饗指図』をもとに、義教の室町殿は、西に寝殿を中心とした建物が並び、寝殿の東からその東北にかけては、鴨川の支流の水を引いた名園として一条兼良がうたった池をはさみ、北に「新造会所」「南向会所」が、南に「泉殿会所」と「観音堂」が設けられ、「南向会所」と「観音堂」は、40数間(延長約80m?)の渡殿によってつながっていたものと推定しています。
ところで室町殿の施設について、今谷明さんが興味深い史料を紹介しています(『京都・一五四七』平凡社)。幕府が新邸の造営を決めた天文8年(1539)閏6月、『大館常興日記』には「御座敷を奥へとる庭に、はた板にても塀にても垣をさせらるべき事、いかがたるべきか。御大工共は先例これ無きの様に申し候」とあり、庭のある奥御殿の一角を先例の無い板塀で囲うことの問い合わせがあって、それがそのとおりに進められたとされています。
上杉本洛中洛外図の足利将軍邸には、池の北側に板塀が描かれており、今谷さんは、先の史料にあった板塀がこれと一致するとし、その描写の正確さを指摘しています。
したがって、室町殿の構造を説明するキーワードは、室町通りに近い西半部が寝殿を始めとする公の空間で、東半部が会所と池のある庭(面一町とも言われる)、そして義晴時代においてはそれを囲む板塀であった可能性が考えられます。
ただし中村さんが復原している義教の室町殿は、主殿と池の関係が東西であるのに対し、上杉本の室町殿はそれが南北の関係になっているなど、文明8年の焼失以来66年ぶりに再建された義晴の室町殿は、かつての室町殿とは大きく異なっていたようです。その最も大きな原因がなんであったのかというと、一番可能性の高いのが敷地面積の縮小ではないかと思います。
義教の死後、室町殿の南端に寺が造られたとすると、おそらく南の半町くらいには、重要な施設は無かったものと考えられます。文明8年の室町殿焼失以後はさらにその北にも町屋がひろがっていくようですから、義晴が室町殿の再建を前にして見たのは荒廃した建物跡と、町屋からさらに北にあって、かつての主要建物の東北に設けられていた池の跡の一部だけだったのかもしれません。
同じ上杉本の細川殿でも池は屋敷の南におかれるなど、邸宅が南に庭を設けるのは平安時代以来の一般的な傾向だったようですが、義政時代までの室町殿との違い注目すると、上杉本室町殿の南に描かれた池は、ほかの屋敷の池と違った意味をもっていたようにも思えてきます。