普賢寺谷日記| 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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第1回 :普賢寺谷の中世を掘る・読む

鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2003年12月2日

 中世史と中世考古学の学際テーマの中で、今最も注目されているのが都市も含めた集落遺跡の研究です。これまで中世史研究に登場する代表的な人々は農民と武士でした。しかし実際には彼ら以外に、職人や商人、海や山を生活の舞台としていた人々、芸能民そして宗教者たちも大いに活躍していたことが、網野善彦氏をはじめとする研究者たちによって明らかにされつつあります。

 実際この研究は、政治と文化の中心であった京都や鎌倉などの都市遺跡では、比較的多く残されている文献史料と遺跡情報の重ね合わせによって様々な視点から検討が試みられ、中世史を見直す原動力のひとつとなっています。

 ところが、これら以外の日本列島の各地にあった、多くの町や村や都市的な場については、その研究こそが京都や鎌倉などの中心的な都市以上に必要であるにもかかわらず、中世遺跡研究の方法が遅れていたことと、文献史料が少ないことなどから、これまであまり深く検討されることはありませんでした。

 しかし全国でみつかってきている中世の集落遺跡とは、農民も含めた商人や職人など様々な人々が生活していた場所なのであって、それらを一元的に農村として見てしまっていては、本来の豊かな中世史像を復原することはできないのです。

 現在最も重要なことは、こういった全国で見つかっている中世の集落遺跡を、GISの方法を駆使してそれぞれの地域の個性にしたがって正しく評価し、それを元に中世史を見直すことなのです

 ところで同志社大学京田辺キャンパスの所在する普賢寺谷の丘陵には、室町時代とされる多くの館跡の記録が伝えられており、実際キャンパス内には、そのひとつである新宗谷館跡があり、授業などにも活用されています。

 現在残されている絵図から想像すれば、その風景は戦国時代の城下町として有名な福井県の一乗谷朝倉氏遺跡とも、あるいは戦国時代に城塞化した山岳寺院とも似ています。

 中世後半のある時期、新宗谷館を含む普賢寺谷一帯には、南山城を代表するまぼろしの中世都市がひろがっていたのです。そしてそこには、これまでほとんど知られることの無かった、中世の本当の民衆の姿があったはずなのです。

 普賢寺谷とそこに展開する館跡の調査は、その意味で中世史と中世考古学にとって非常に大きな意味をもつものと言えるのです。

 当館ではこのような普賢寺谷の重要な歴史を探るべく2002年度から、新宗谷館跡を中心とした普賢寺谷の総合学術調査を開始いたしました。このコーナーでは、順次その成果を公開していく予定です。ご期待ください。


知真館と新宗谷館


普賢寺川と南の丘陵




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