Asano Seminar:Doshisha University
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松原美代子さん講演会
―『私の被爆体験とヒロシマの心』―























 アメリカによる広島への原爆投下の被爆者である松原美代子さんが、2012年5月17日(木)、同志社大学新町校地R201教室で公開講演会を行った。
 この講演会は同志社大学教授、浅野健一氏と、同大学社会学部講師、ブライアン・コバート氏の共催によって行われ、学生の他、市民や報道関係者が集まった。
 講演の冒頭でコバート氏は、ある一人の女性による英語のスピーチを流した。たどたどしいが、力強くはっきりとした英語で「ノーモア・ヒロシマ」と叫ぶその声の主は、今から30年前の松原美代子さんだ。コバート氏と松原さんとの出会いは、1982年、アメリカ・カリフォルニア州のパサディナのローズボウルで行われた反核集会であった。当時学生だったコバート氏は、このアメリカの反核集会に日本の被爆者を代表して参加した松原さんの訴えを聞いた。そしてその時のスピーチを講演の冒頭で紹介したのである。

○松原さんは自身の被爆体験と、戦後日本社会で受けた被爆者への差別について語った。以下は講演の記録である。

松原美代子さんによる講演
『私の被爆体験とヒロシマの心』

 私は原爆被爆者の松原美代子と申します。今回このような素晴らしい場所でお話させて頂くことをとても光栄に思っております。私は最近、体調を崩し、体が思うようにまかせません。失礼とは思いますが、私の気持ちをメモにまとめて来ましたので、読ませて頂きたいと思います。

 67年前の1945年、日本は戦争をしていました。8才から11才までの小学生は、空襲から身を守るため田舎に疎開していました。7才以下の子供たちは、家族とともに市内におりました。だから、特に7才以下の子供たち、女性、病弱、年配の人たちが市内にいたのです。被爆者の多くは、このような何の罪もないごく普通の人々だったのです。1945年末までに、約14万人の人々が原子爆弾投下で亡くなったといわれております。約14万人という数字はその日だけでなく年内に亡くなった数字です。
死亡の原因は原子爆弾の破壊力、熱線と爆風、放射線の影響からです。原子爆弾は何と恐ろしい破壊力をもつ核兵器でしょう!


 これが原爆投下後の広島の地図です。赤い色の地域が原爆で完全に焼失しました。爆心地から半径約2kmが焼けました。黄色の部分が家は半壊しましたが、焼けていないところです。

 白色区域の部分はあまり被害もなく焼けていないところです。私の家はここにありました。また、学校もここにありましたので焼けておりません。

   私の弟は9歳でしたので、父の生まれ故郷、島根県に学童疎開をしていました。投下3日後に叔母と帰広しましたので、入市被爆者です。妹は5歳でしたので、広島市内に居ました。母の勤め先の陸軍被服廠保育所にいたのです。木造だったので、ガラスの破片と軽い火傷を受けました。母は爆心地から3kmも離れた西洋式赤レンガ造りの陸軍被服廠の建物内にいたので、やけどをしておりません。

 兄は17歳でしたので、学業を捨てて戦争に参加するため、隣の山口県に行っていて広島にはおりませんでした。しかし、兄は終戦後まもなく広島に帰ってきたために被爆した入市被爆者です。父は警防団員だったので火を消しに被爆直後の市内に入って行きました。

 これから私が2004年に描いた『原爆の絵』を紹介しながらお話をいたします。


 この絵は私たち女学生が本土決戦に備えて、竹やりを持って迎え撃つ訓練をしています。これは、爆心地から半径2.4km離れた母校の女学校です。私どもはアメリカが原子爆弾を製造しているとは全く知りませんでした。ただただ訓練の明け暮れでした。
 
 戦時下の学生たちには、夏休みがありませんでした。広島に原子爆弾が落とされた時、私は12才、動員学徒として火災の延焼を防ぐための木造家屋を壊したり、整理する作業をしていました。爆心地から1.5 km或いは約1マイル近く離れたところで被爆したのです。

 1945年8月6日の朝は雲もなく、太陽が上昇すると気温は急激に高くなりました。4万人の軍人を含め、約35万人の人々が市内にいました。私を含む多くの学生が6ヶ所で建物疎開の作業をしていました。ある者は、工場、会社、軍需工場や畑などで働いておりました。

 私は、学友とともに壊された家屋の整理をしていた時、親友の多喜子さんが突然叫びました。「B-29の音がする」と。私は、そんなことはない、空襲警報も解除されていたし、日中、B-29が飛来することは少なく、広島を爆撃したことが殆どなかったからです。

 空を見上げると、上空に飛行機から出る白い煙のあとが見えたのです。そして突然、原子爆弾が投下されたのです。私は閃光と、説明できないほどの炸裂を見たのです。私は慌てて地面に伏せました。伏せたと同時に言葉では云い表せないほどの、耳を裂くような轟音を聞きました。私は最初、飛行機が私を狙ったのだと思いました。後になって原爆は私のみをねらったのでなく、市全体をねらったのだと判りました。

 私はどのくらいの間横たわっていたのか判りません。しかし、意識を取り戻した時には明るく輝いていた朝は、夜に変わっていました。濃い土煙と霧に包まれていたのです。私と一緒に立っていた多喜子さんの姿が見えません。他の友達の姿も見えません。その時気がついたのです。私は伏せたと思ったけれど、実際は爆風で吹き飛ばされたのではなかろうかと。右腕と右脚を上にして横倒しにされていたのです。

 がれきの中から立ち上がって私はびっくりしました。両手はグローブのように火傷で2,3倍も膨れていました。紺色の上着は、胸の当たりが残っているだけ、あとは熱線で焼けてぼろ布のようになっていました。作業用のもんぺも、ゴム紐と腰の辺りしか残っていませんでした。私の体にまつわりついているのは、土ぼこりで汚れた白色の下着だけでした。火傷をしたところを見て下着の白い色が私の命を守ってくれたのだと思いました。ご存じのように、白い色は光を反射し、黒い色は光線を吸収しやすいのです。

 私の顔や、両手両腕、両脚の皮膚は熱線で焼かれ、はれて所々ちぎれ垂れ下がっていました。3日間も高熱にうなされました。下痢、おう吐、歯ぐきの出血に苦しみながら生死のさかいをさまよいました。髪の毛が半分抜けました。醜いケロイドの傷跡は私の顔、両手腕、脚まで広がっていました。

 7か月後、私は健康を取り戻したので復学しました。原爆による弱い身体と醜い顔のケロイドで学校を卒業しても、なかなか仕事に恵まれませんでした。

 被爆後、約10年間の私の青春時代はとても残酷でした。社会的差別を克服しなければならなかったのです。例えば放射能の影響でいつ病気になるか判らない、また、結婚話も殆ど恵まれなかったのです。毎日の生活が困難と絶えられないほどの苦しみで、生活そのものが地獄でした。

 悲惨な核兵器の経験は、人類の歴史上、これが初めてのことでした。人々は、核兵器の強大な破壊力を知り、恐怖に震えました。私たち被爆者は、長い間、放射線の影響で苦しんでいます。生存者の実際の状態の報告もなければ、調査を報告することもありませんでした。
   ですから、人々は、でたらめな風評を憶測するようになり、被爆者を身体的にも精神的にも苦しめていました。例えば、奇形児が生まれると、人々は、「その子は、親が被爆者なのよ。」と言いました。彼らは、よくないことはすべて、核兵器の影響が原因だとそのせいにしていました。当時、若者だった私には、とても我慢できない苦しみでした。私は、間違った風評が広まったことが、私たち被爆者に対する差別の原因だと信じています。

 これは私が20才のころ、母が言ってくれた言葉です。
「美代子、お前が苦しんでひとりでぶつぶつ言うてたんじゃ、誰も助けてくれんよ。人にいいことをしなさい。あんたがしなければならないことは、ほかの人があんたと同じ体験をせんようにすること。『わたしのような体験は、わたしだけでおしまいにして』という気持ちで皆に被爆体験の話をしてあげなさい。そうしたら、あんたの話を聞いた人たちも『平和のために自分は何ができるだろうか』と考えるようになるよ。そして松原さんが平和のために一生懸命尽くしておるんじゃけん助けてあげようという人も出てくる。そしたら、お前も皆から愛され、支えられて幸せな人生が送れるよ。自分だけの利益を追求して家の中で泣いとったんじゃ、誰も助けてくれん。だからあんたの方から手を差し伸べなさい。そうすればきっとあんたの理解者、協力者ができるよ。」

 そんなとき、友達が誘いに来て、メソジスト派の流川教会へ連れて行ってくれました。毎週月曜日、夜毎に谷本清牧師のもとへ行って聖書を読んだり、賛美歌を歌ったりしているうちに少しは心も落ち着いてきました。

 その頃、私は谷本清牧師の教会に通い始めるのです。被爆者のための集会に真面目に出席し、お説教を聴き、賛美歌を歌うと私の心は癒されるのです。

 1953年、日本キリスト教会の皆様のご支援で、私は日本の大阪で7か月にわたって12回の形成手術を受けました。その結果、閉じなかったまぶたを閉じることが出来るようになり、曲がった両手の指や腕が伸びるようになりました。暖かい人々の手術が私の人生を幾分か忍耐強くし、私の威厳を取り戻すのに役立ちました。

 手術後、他の人たちを助けることが出来るのなら、どんなことでもしようとの思いで広島に帰り、目の見えない子供たちの保母になりました。
 
 毎週の楽しみの一つは、日曜日の朝の礼拝でした。教会で出会ったアメリカ人は、私が以前想像していた人とは違っていました。彼らは実に親切で広島・長崎の原爆投下を深く悔いておられました。その一人がバーバラ・レイノルズ女史でした。彼女は後に広島にワールド・フレンドシップ・センターを設立されました。彼女は敬虔なクエーカー教徒でヒロシマを国際的に知らせるため、生命と全財産を捧げられました。彼女の業績に対し、広島市は1985年広島市特別名誉市民賞を授けました。また彼女の原爆投下の憎しみは大変強く、被爆者に対する優しい真実な心がありました。私はしばしば、原爆投下をした同じアメリカ人なのに、どうしてあのような優しい心になれるのかと不思議に思いました。

 アメリカが核実験を再開する1962年3月、私が未だ目の見えない子供たちの世話を8年間していた時に、核兵器廃絶運動を助けるための方法を見つけました。世界平和巡礼を計画されたバーバラ・レイノルズ女史の支援で、原爆被爆者の心からのメッセージを差し上げるために、私はヒロシマの代表として選ばれました。私たちは米・英・仏・東西ドイツ・ソビエト連邦を含む14カ国を5ヶ月間訪問しました。どこの国においても核実験反対を訴えました。

 次第にアメリカ人を好きになり信用するようになりました。日本人がもし原子爆弾を持っていたら、私たちも使用していたかもしれないと思うようになりました。だから本当の敵はアメリカではなく戦争と核兵器である。これらの兵器を廃絶しなければならぬと思うようになりました。

 しかし、原爆後遺症のため現在も私たち被爆者は苦しみ続けているのです。1988年、私は乳癌だと診断され、手術をしなければなりませんでした。手術を受けたけれども、間もなく胃の中に3つのポリープが見つかったのです。医師は、胃癌になるかもしれないので定期的に調べる必要があると云われます。私は今もなお様々な病気と闘っております。現在も結婚していません。一人で住んでいます。

 原子爆弾投下の影響は永遠に続きます。原子爆弾は一瞬にして罪のない数多くの一般人の生命を無差別に奪います。戦後67年を過ぎた今日でもなお、広島では約8万人の被爆者が、放射線の影響で苦しんでいます。

 戦争は1945年に終ったけれども、被爆者にとって原爆と戦争は過去の出来事ではないのです。精神的、肉体的に私たちを苦しめ続けているのです。放射線が癌をひき起こすのです。例え1つの癌が治っても、また、再発するのではないか、別の癌ができるのではないかと不安でなりません。そういった意味で、被爆者にとって毎日があの8月6日なのです。私たちは過去の原爆や戦争からも逃れられなくて、これからも永遠につきまとわれ、悩まされ続けるのです。

 私は、今から5年前に脳梗塞になって1か月余り入院生活をしました。口の奥が直撃されたので言葉が出なくなりました。
 ところが、半年前から話をすることが大変つらくなりました。医師は口を使わなくなったら話せなくなりますよ。口を使うお仕事をできる限りやりなさいと言われました。
 長年にわたって核兵器廃絶を訴え続けてきた私は、この仕事が出来なくなるのなら、いっそ死んだ方がましだと思うことがしばしばあります。
 私たち被爆者は、一昨年対人地雷やクラスター爆弾の禁止条約が世界の国々、人々のご尽力で成立できたことを大変うれしく思っております。そして次は、核兵器廃絶だと願って頑張っております。
 世界中の人々が結束し、更なる努力をすれば、核兵器廃絶も不可能ではないと思うようになりました。こんな大切な時に私の口の後遺症のため、みんなと共に行動出来ないことを知り、とても残念に思います。とびきり若くて、世界でも有名な大学で学ぶ皆様方が決意を新たにし、核兵器廃絶と戦争なき世界の実現に向けて努力して頂けるならば、きっと良い成果が出せると信じてやみません。

 今、7カ国の核保有国が保有する核兵器数は、1万2千発あると言われています。核兵器の数こそ減っているものの、破壊力は益々強力になり、小型化による使いやすさも向上してきています。核保有国が増えれば、不用意な核兵器使用や地域的な核戦争、テロリストが核を入手する恐れも増しています。核兵器が使用される危険は今低下するどころか、むしろ高まっています。

 世界中の核兵器廃絶を願う私たちの闘いを継続して下さい。そして核兵器が再び使用されないように。世界が平和になるよう努力しようではありませんか。私たちの希望と平和の灯火をいつまでも燃しつづけて下さい。永遠に!

 1955年のラッセル-アインシュタイン宣言(Bertrand Russell Albert Einstein)に次のような言葉があります。

“ここにみなさんに突きつけられた問題があります。
  死のように硬直した、空恐ろしい、また到底逃げ切れない問題です。人類を終わらせるか、それとも戦争を終わらせるか?これが問題です。

  人類を終わらせましょうか?
  それとも戦争を終わらせましょうか?”


 もし、私たちが核兵器を地球から取り払わなければ、輝かしい未来は期待できません。
 そんな中、被爆地の広島・長崎両市は平和市長会議の活動として、2020年までに核兵器全廃を目指して活動を続けております。

 2010年にNPT再検討会議がありました。このような世界の動きに追い風をたてたいです。草の根レベルから「絶対に核兵器を使ってはいけない。」「絶対に戦争はいけない。」という雰囲気を作ろうと努力しております。私たちは核兵器廃絶のために皆様と共に反核の声を広島から発したいと願っております。
ご静聴有難うございました。

○続いて講演会は松原さんへの質疑応答に移った。以下は質疑応答の記録である。

Q.被爆されたときに心の支えが聖書や賛美歌であったと言われましたが、どのような面で支えになったのですか。(神学部二年生)

A.聖書や賛美歌を聴くことで精神的な癒し、心の平穏を得ることができました。自分だけでなく、他人にも優しい気持ちであらなければならないということを知りました。当時はモノもなく、「精神的な癒しだけでは足りない」と文句を言われたこともあります。しかし、みんなで仲良く日本の国を建てなおさなくてはいけないという思いで働いていました。日本人がえらいと思います。精神的だけでなく、モノを人にあげる、みんなで分けるということが私を強くしてくれたと思います。

Q.被爆後、初めてアメリカ人と接することがあったとき、おそれや怖さはどうでしたか。(社会学部学生)

A.両親とか近所の人に「アメリカ人はお前を連れて行く」と言っていました。そういうことを聞いていたので本当に恐ろしかった。でもアメリカ人は色々なものを私たちに与えてくれた。施設で働いていた時も、アメリカの兵隊さんがドーナツをつくってくれたりしました。それも、呉から持ってきてくれました。うれしかったですよ。だから、戦争映画を見たときなどは、アメリカ人はどんなことを考えているのだろうかといつも思っています。

Q.広島への原爆投下についてアメリカ政府は責任をとっていると思いますか。(留学生)

A.ブッシュ大統領が京都を訪問されたとき、在日アメリカ人の学生に追い返され、アメリカに戻ってから、お詫びの会見をしたと聞きました。東京では快く過ごせたのに、京都ではできなかったということを聞きました。政治のことはよくわからないですが、アメリカの人は未だに広島に行くのが辛いということも聞きます。ですから、アメリカも反省していると思います。

Q.原子力発電所についてはどう思われますか。(曾祖父を原爆で亡くされた学生)

A.日本も今のところ原発を使わない方向にいっていますよね。だけど、まだ続けて使うのではないかと思っています。ですが、もう一度考えてみてほしいです。放射能は恐ろしく、今でも私は病気で苦しんでいます。私は7つか8つの病気を持っています。間違いなく人体を破壊します。だから、一瞬に何十万人もの人を殺す核兵器だけは使ってほしくない。廃絶してほしいと思います。放射能は本当に恐ろしいですよ。

○講演会は同志社大学の浅野健一教授のコメントで閉会した。以下は浅野教授のコメントである。

 最後の質問は私も聞きたかった質問です。「原子力の平和利用」と言って、日米安保協定が結ばれた日の午後、原子力協定が結ばれている。アメリカは、日本人が放射能に対してアレルギーがあることを除去するために原発を持ってきたと私は考えています。正力松太郎であるとか、A級戦犯たちを使い、その人たちを総理大臣にして、戦後ずっと原子力村というものを作ってきたのですね。
 したがって私は、広島・長崎・チェルノブイリ・福島、この四つのことを考えることが大事だと思っています。放射能の被害は永久に続きます。放射能は遺伝子を破壊し、生態系を破壊すると、それが広島・長崎が示したものです。その国が原発をずっとやってきて、今でも4号炉がどうなっているか誰にもわからない、地球を汚染しているこの状況の中で、私は敢えて核兵器に反対し、原子力発電に反対するということはすごく重要だと思っています。私の個人的な意見ですが。
 それなのにまた再稼働とか言っている状況の中で、今日私たちが学ばなくてはいけないのは、1945年に起きたことが今も続いているということです。子供たちや孫たちにずっと続いていくことだと思います。
 アメリカ政府が反省しているか、という質問がありましたが、私はアメリカの人々は考えていると思います。しかし国家というものは自分たちがやったことを誤りだと認めたくない。ベトナム戦争も誤った戦争だったというけれど、それはアメリカ人がたくさん死んだことが誤っていて、ベトナム人がたくさん死んだことについて思う国家あまりない。南京事件でも731部隊でもそうです。しかし、国家に過ちを認めさせるということが重要です。アメリカ政府が原爆投下について、国際法上違法ではないというあの言い方をいつかやめるべきです。日本政府が韓国併合について当時の国際法上違法ではないと言っているのと同じです。天安門事件で中国共産党がやったことは正しいと言っているのと同じです。 当時、京都も小倉も新潟も原爆投下の候補地だったんです。その都市には空襲をしていないんですよ。どういう影響があるか実験するために、空襲していなかった街を、しかも最後は風向きで選んだんですよ。しかし原爆投下には、もともと日本のアジア侵略に原因があるわけで、シンガポールとかインドネシアに行くと広島・長崎に原爆が落ちたので戦争をあきらめたと、もし落ちていなかったら戦争がまだ続いていたと、それも本当かもしれませんね。
 そうすると、単にアメリカが悪いというのではなくて、戦争を起こした原因を国家という枠を超えて、個人として考えなくてはいけないです。特に大学の学生は、国家とか国籍から離れて、地球市民として今日の話を聞いて、核兵器廃絶の草の根の運動に参加してほしいというメッセージを持ち帰ってもらいたいと思います。
 私は最近平壌に行ったのですが、なぜDPRK(朝鮮民主主義人民共和国)が核兵器にこだわるかと言うと、日本と韓国とアメリカの核兵器のことが絶対あるんですよ。日本には核兵器を持ち込むという沖縄返還の時の密約があるんですよ。日本に来る時だけアメリカ軍が核兵器を外すわけがないでしょう。核兵器がなかったら沖縄に基地がある意味がないじゃないですか。しかし日本は核兵器を持っているかどうか検査もできないんですよ。ニュージーランドはそれを要求しているからアメリカの艦船が入れない。だから日本はなぜ沖縄にあんなに基地があって、自分たちが核のアンブレラで守られているということを、被爆国でありながら、パワーポリティクスの中で考えている人たちがこの国にはあまりにも多すぎるのではないか。憲法で戦争をしないと言っているのになぜ基地がたくさんあったり、自衛隊があんなに大きくなっているのだろうということも考えてもらいたいなと思います。
 みなさんもぜひ広島に行ってもらいたいと思います。多くのアメリカ人も資料館に行っているし、いつかアメリカの大統領が広島に行って、日本の総理大臣がパールハーバーに行くことが必要だと思っています。

○以下は講演に参加した学生の感想を抜粋したものである。

・実際に被爆された方のお話を聞くことができて、私自身いろいろ考えさせられました。「悪いのはアメリカではなく、戦争と原爆」という松原さんの言葉は本当に強く、今まで苦しい思いをたくさんしてきたからこそ考えることができたのだと思いました。今後戦争が起きないように、そして核兵器がなくなるにはどうすれば良いか私自身考えていきたいと思います。

・たくさんの重い病気と闘いながらも、長年にわたって平和な世界をつくるために世界各地で活動されてこられたと聞き、松原さんのような方がおられるということを、とてもありがたく感じました。精神的・肉体的に苦しみながら、また差別に耐えながら、自らの声で話を続けるということは、とても大きな勇気と気力が必要だと思います。戦後60年以上にわたって、多大な努力をなさってきた松原さんと実際にお会いしてみて、今、私たちができることは何だろうかと考えさせられました。
 ご自身も被爆されて、周りの方々の苦しむ姿を見てこられたにもかかわらず、その苦しみを与えた当事者であるアメリカ人についても相手を理解し、許そうとする姿勢には、とても感心させられました。私一人の力はとても小さなものですが、もしも日本中、世界中の人が力を合わせると、きっと大きな力になると思います。今日の松原さんのお話を心に、これから世界平和、核兵器廃絶のために何ができるのか、考え続けたいと思います。

・体調がすぐれない中、必死で核兵器廃絶を訴える松原さんを拝見し、被爆者の方々のお気持ちが伝わってきました。データでは、多くの情報を教育されてきましたが、やはり実際体験した方々のお気持ちを知らない限り、本当の意味で核兵器の恐ろしさを知っているとは言えません。広島に生まれ、祖父を原爆の放射能の影響で亡くしました。一広島県民として何かできないかと、高校時代は留学生を中心に原爆記念資料館でガイドをしておりました。

・困難に直面した時の助け合いの精神の重要性を感じました。そして、必死に自分の経験を伝えようということが伝わってきました。これは非常に重要であると感じました。

・It is a great tragedy in human’s history and caused a great loss to Japanese. But as a nation come from a country which had been invaded by Japan, I can only say the only thing should be to blame is the war itself. Not Americans, not Japanese, but the war itself. Over the bounder of countries. I have a dream which one day all human in the world can live on a peace and wonderful planet. We’ll suffer no longer — no fear, no sorrow, but only live a happy life.

・人間は嫌なことは忘れたいし、思い出したくないものなのに、それを語り続けている強い意志が伝わってきました。中でも、あの原爆を落としたアメリカ人を恨むのではなく、核と原爆が存在していることこそ悪であるとおっしゃられたことが印象に残っています。

・It was full of emotion. It was hard to understand certain parts of her presentation (due to language), but the overall message came across clear.

・I’m sorry to hear the story, when I look the Ms. Miyoko Matsubara, when I hear her voice, I feel sad, my heart have a hard time always. I’m Chinese and not pass the experience. I can feel her emotion. Talking is so easy to other people, but it becomes too hard to her. She was luckily survived the bombing, but I can see the harm to her from war. Her face and body was disfigured, and she had radiation-related health problems while growing up. It’s so hard to them who are survivor of the atomic bombing. I believe people can try our best to keep peace, whatever where you are, who you are, all the people love peace.

・被曝者。私はこの言葉を生まれてから20年間何度も耳にしてきました。私の出身地は広島で、私は同志社大学に入学し独り暮らしを始めるまで18年間広島で育ちました。広島の学校は、殆ど、小学校も中学校も(高校は別の日でしたが)、毎年8月6日は夏休み中でも登校日とし、皆で体育館に集まって黙祷をし、平和学習と言う原爆の悲惨さを伝える授業を行います。だから私は今まで何度も被爆者の体験談を聞いたことがあります。その体験談はいつも本当に悲惨で、たった67年前にあの広島が火の海となっていたということが信じられません。  
 松原美代子さんのお話も、聞いていてとても心が苦しくなりました。8月6日のあの出来事は松原さんにとってとても怖くて苦しい思い出だと思います。その後の後遺症の事や社会的に差別を受けたという経験は本当に想像を絶するほどです。
 松原さんのお話の中で、松原さんのお母さんの言葉がありました。「あなたの経験をみんなに伝えなさい。苦しさを伝えて、二度と繰り返さないように、あなたの声を伝えなさい」という言葉です。私は最近、この「悲惨さを伝える」ということの必要性を強く感じています。私は前にも書きましたが広島の出身で被爆体験は何度も聞いたことがあるので原爆についてはある程度は知っています。しかし、広島を一歩出てみると、原爆の悲惨さどころか、8月6日が、原爆が投下された日であると言う事すら知らない人が多いのです。この、悲惨さを知らないという事は一番危険なことなのではないでしょうか。もし、またこのようなことが繰り返し起きてしまったら…。日本は非核三原則を掲げていますが、福島の原発事故が起こってからも原子力の開発を諦めようとしないという政府の姿勢を見ると、密かに核兵器、もしくはそれに匹敵するものをいつか作ろうともくろんでいるのではないかと思ってしまいます。もしも日本が核兵器を保有してしまったら、万が一でも使うことがあるかもしれません。それはあってはならないことです。仮にも唯一の被爆国である日本が核兵器を利用するなど言語道断です。
 私は広島や長崎の人々だけではなく、日本国民全員が被爆国として意識を持つべきだと思います。そのためには、一人でも多くの若者に松原さんのような苦しい体験談を聞いてもらう必要があると思います。私の祖父母も被爆者ですが、そのことに関してはとても苦しい思い出なので絶対に口を開きません。そのように被爆体験に関して口を閉ざしている方々が多いのも事実です。さらに被爆者の方々は徐々に亡くなられており、悲惨さを伝える人がいなくなってきています。だから松原さんの今回の講演はとてもありがたいと思いました。
 松原さんやその他の被爆体験談をされている方々には今後もお体に気を付けて、頑張って頂きたいです。

ヒロシマの心を伝える会 ホームページ
http://www.hiroshima-spirit.jp/ja/index.php
(文責・社会学部メディア学科5年生 若山翔)


掲載日:掲載日:2012年6月11日
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