「メディア・リテラシーとは何か」
渡辺武達
昨年九月の米中枢同時多発攻撃事件(9.11 Attack)報道でもアメリカのメディアが国威発揚機関となり、日本のNHKなども無原則に米政府発信情報を垂れ流した。湾岸戦争時もそうでしたが、こうした戦争報道ではメディアとジャーナリズムの"中立性"や"公正"、"社会的使命"という問題が日本だけではなく世界的な議論となります。しかし私の考えではその議論、研究の仕方そのものに問題があり、その見直しが必要ではないかということです。
それは問題アプローチの出発点に存在することで、これまでの"中立・公正"論にはいくつかのパターンがあります。たとえば、さまざまな意見を並べてその中ほどを取り上げるというのが中立公正である、あるいは、異なった意見のすべてを提示して判断してもらうというもの、強者が何をしているのかをオーディエンス(視聴者・読者)に正確につたえるという権力批判を公正なメディアであるとする考え方、そして少数異見を大切にする考え方、左右両極端を排して提示する、などがあります。ですが、このやり方では、たとえ問題をいくら具体的に研究していっても解けないことに十年程前に気づいたのです。どういうことかと言いますと、従来のメデイアの公正論にはどういう社会を私たちが歴史の進歩の過程を踏まえたうえで私たちはこれからの社会の向かうべき理想の方向とするのかという姿勢がなかったということです。民主主義的な社会とは何なのかを一人ひとりの暮らしのレベルで考えていって、それに合わないようなものは初めからメディアは掲載する必要はないのだという立場に立たないと議論の堂々巡りになってしまうということです。
例えば、ユダヤ人は劣っているというナチスによる言い方がありましたが、こうした考え方は思想の自由でもないし、紹介する価値もないというように考えていかないと議論が〈ことば遊び〉になってしまうのではないかということです。ですから、一見学問的、論理的なように見えながらも実際にあまり意味のない議論をメディア事業者も研究者も繰り返してきたのではないかというのが、私のメディアの「積極的公正中立主義」提唱の基本にあるのです。こうした考え方は、国際政治の場において米ソのせめぎあいで苦労してきた弱小国家の主体的生き方の模索としてさまざまところで語られてきたことがありました。つまりある国家が世界政治の力学の中でどのような行動を取るべきかを考えると、弱い国家はアメリカと当時のソ連の間にあって双方のご機嫌を損なわないように真ん中を歩いていくというのが無難だというのが一般的であった。米ソの間のどこかに真実があるからそうしてきたのではなく、両大国のあいだのバランスということだけで歩いてきたわけです。まさにメディア論もそうで、日本だけではなく、アメリカでもイギリスでも、中立や公正についての議論は、我々が本当に求めていくべきものが何なのかという点を抜きにして、抽象的レベルだけで〈メディアの中立性〉を考えてきたから、先のニューヨークにおける旅客機による自爆攻撃のようなケースが起きるといとも簡単に国益代表機関、世論操作機関になってしまうわけです。
私のメディア論の特徴は、ふつうの市民が差別することも差別されることもなく、主体的に自らの幸せを追求できる社会とは何かを考え行動する、つまり「市民主権社会の構築」という変数を入れたという点です。これは、今まで言われてきた公正・中立論に対して、「積極的」という言葉、つまりどういう社会をつくっていったらいいのかということのための基礎情報をメディアが積極的に提供していく、そしてそこに自分たちの存在意義を見つけるのだということで、「積極的公正中立主義」というふうに、いままで言われてきた「公正中立」という言葉の前に、「積極的」という言葉をつけました。そのことこそメディアとジャーナリズム、そこで働く人たちが自らの責務として自覚すべきことではないでしょうか。
「メディア・リテラシー」論にしてもおなじことがいえます。日本だけでも「メディア・リテラシー」というタイトルの一部につけている本が20冊ほどあります。そのなかで一番最初に出たのが、97年に出た私が書いた『メディア・リテラシー』(ダイヤモンド社刊)です。この年にはつづいて二册のメディア・リテラシーに関する本が出ました。
私のメディア・リテラシーの考え方は、メディアの提供する情報を批判的に読み込み、メディアを市民の立場から使いこなすというものです。97年の段階で、市民主権社会の構築のために「使いこなす」という言い方をしたのは、私が初めてでした。そこに新しい点があったと思います。 もう一つの見直し点は、一般的には世論形成機能といわれるものですが、メディアのつくる社会観、世界観については提供される情報だけではなく、どういう情報が政治・経済・文化といった制約で提供されていないのかというところに同等な注意を払わなければ、メディアのあり方やメディアと社会との関係が解けないのではないかという問題です。これをはっきりと言っているのは、メディア・リテラシー論の展開者ではおそらくは私だけでしょう。
「メディア・リテラシー」とはいったい何なのか。文部科学省のいうメディア教育などはきわめて狭い範囲のものにすぎないのはいうまでもありませんが、多層的にメディアというものを押さえなければ、捉えることができない。具体的にいえば、メディアと社会との関係のおさえが第一ですね。メディアの社会的目的として最大のものは、市民が自分で体験できないことはメディアにたよらざるを得ないということから、私たちが住む社会がどうなっているかということの理解に役立つ基礎情報を提供する。その情報を参考にして市民が社会改革への参加を可能になる。そういう情報を提供することが、メディアの第一の目的だと思います。その点から言うと、娯楽情報の提供もたいせつではありますが、そんなものは第一の目的にはなりえませんが今のメディア、とりわけテレビではそれが逆転しています。この社会的基礎情報の提供と等しく重要なのは、災害のときに国民の生命と財産を情報提供活動によっていかに守るかということです。
要するに、メディアの質的改善の第一段階は、社会とメディアの関係をどうとらえるか。第二段階は、そこに問題があるとすれば、メディアのそうした情報の歪みの根本原因を探ること。第三段階は、私たちがどういう社会を求めていくのかを徹底的に究明すること。第四段階は、そういうことを可能にするようなメディアを社会システムとしてサポートするには、どういう社会的なネットワークが必要なのかを情報政策としてちゃんと策定するということです。このなかで一番難しいことは、どういう社会を我われが作っていくべきかということの徹底的な議論とそのデザイン化、その流れの中でメディアが十全に活動できる社会システムを社会的合意としてどう保障していけるのかということの二点です。
テレビ番組を例にして具体的にいえば、どのような番組を作るべきかというところから議論を始めなければなりません。どういう問題が社会にあるのかを的確に押さえて、あるべき社会へ向かうための議論にとって現在流れている情報のなかで何が欠落しているかをまず把握することが大事です。そういう作業を最初におこなわないとちゃんとした番組ができるはずがない。このことが私のメディア論の基本にあります。
理論的にいえば、それは市民的利益への奉仕を最高原理とするメディアの情報提供活動のあり方、情報の取材・編集・配布というメディア活動の確認をするということです。それがメディアの自由、市民本意の言論・表現の自由ということです。このメディアの自由についてさらにいえば、メディアそのものはあらゆる社会の権力に対して忌憚なく批判する自由をもつ、それを基本としてもっていなければなりません。もうすこしわかりやすくいえば、10人がちゃんとした資料に基づいて議論すると、10人が10人、あるいは9人が当然そうだという結論を出す問題というのはいっぱいあります。
たとえば「泥棒は悪い」「殺人は許されない」といったように、世の中に流通している情報の9割くらいがそういう情報です。人は他人を差別してはいけない、男女は平等であると言っても、皆賛成するわけです。そういう基準で解ける問題が世の中の情報の9割近くで、残りの1割がいくら議論してもまだ結論は出ないといったレベルにあります。ここからは、男女の平等を尊重するということであれば、週刊誌が競って載せているような風俗店を紹介する情報には公益性(社会的利益)はないということになります。だから暗黙の了解として世の中に実際にはあってもそれを奨励するような情報は不特定多数のひとがアクセスできるマス・メディアでは流してはいけないのです。
差別と人権についてもおなじですね。たとえば最近の週刊新潮(4月16日発売号)のグラビアに「73歳、独居老人のゆうげ」というタイトルで、土井たか子社民党党首のスーパーでの買い物写真が載りました。夕方一人でスーパーで白粥を買っている隠し撮り写真です。「社民党党首土井たか子」という人の政治活動であれば、公的なことですから、何を書かれても氏は受けなくてはならない。しかしスーパーで何を買ってどういう暮らしをしているかということは、プライベートなことです。それをタイトルとして「73歳、独居老人のゆうげ」という書き方は人権無視、ひとをコケにした差別です。このように見ていくと、公的と私的との区別がつかない情報や、差別を促進するような情報が大手メディアにもたくさんあり、それを野放しにしておくのでは社会がよくなるはずがありません。
テレビの広告の中に「お母さんが家族の世話をするように、私たちは安全を保つべく気をつけています」と言いながら作業員が出てきて、原子力発電所を点検するというコマーシャルがあります。原子力発電所は欧米では安全度だけではなく経済的にも劣ったものとして廃止の方向に進んでいますが、そういうコマーシャルを出す一方で、「原発バイバイ」というコマーシャルを四国高松の自然食品会社が瀬戸内海放送で流したところ、2回だけ放映したところで打ち切られてしまったことがありました。放送法には「多角的論点を保証する」という条項があって、目的条項にも放送が民主主義の発展に資することをうたっていますが、現実の民間放送は、完全にスポンサーの意向に支配されていて、そういう問題では中立とは程遠い状態にあります。 しかしいくら〈多角的論点〉といっても、うそを言ってはいけないわけです。メディア論の本はいっぱいありますが、私の書いた本以外ではそういう立場一貫して書いたものはありません。私の言っているメディアの「積極的公正中立主義」論はあと10年も経てば、間違いなくひとつの大きな流れ、世界のメディア論の常識になるでしょう。
セックスの問題を考えてみましょう。男と女がセックスすれば、一般的に子どもが産まれる可能性があります。これを肯定することで次代を支える子孫が生まれ、社会は永続していくわけです。だからメディアのなかの性表現で何が一番大事なのかというと、男と女は平等であるという考え方にたって男と女がセックスする、そうしないと次の世代が育たないというのが一応肯定される思想になるわけです。ところが世の中には結婚できないような理由、生物学的理由で産めない人たちもいます。そういう人たちへの配慮も必要ですが、いまのメデイアの性描写はたのしければなんでもあり、「結婚と子育てなんかもうばかばかしくて・・・」と受け取られかねないものが多々あります。
結婚をしようがしまいがそれはまったく個人の自由です。しかし基本的には平等な男女の結婚という社会的仕組みというのは好ましいわけで、その実現にはどういう問題があるのかという観点からの描き方がたとえドラマにおいてもなされなければならない。80年代後半から90年代にかけて、「トレンディドラマ」がはやりでした。『東京ラブストーリー』の中で鈴木保奈美は相手の織田裕二に「ねえ、カンジ、セックスしようよ」と言うわけです。セックスそのものは高校生や大学生のレベルでは普通になっていますから、それはそれでいいわけですが、私たちがどういう社会を作っていくかという考え方に立てば、それだけで終わってはいけないのです。健全な社会の持続的発展はどうあるべきかということを絶えず意識したうえでマスメディアの情報は構成されていなければならない。
そういう点から考えると、メディア・リテラシー理論の基本の中に、いまのメディアを歪めているものは何なのかということの徹底的な追究が入っていなければなりません。しかしそうした態度はメディア・リテラシー論を世界的地平で見ても少ないのが現状です。アメリカではそうした議論もまま見られますが、メジャーな新聞や雑誌には載りません。日本の学者たちも政府系委員や放送局のご用達になりたいのか、「日本のメディアは外国にくらべて視聴者にやさしい」などというものさえいます。私のようにメディアを基本的な視点から批判することをメディアは嫌いますが、それもビジネスとしてはわからないわけではありませんが学者やジャーナリストがそれをやりだしてはおしまいですよね。
私は現在、関西テレビの番組審議委員と京都新聞の報道審議委員をしていますが、会議のたびにそうした観点からの意見開陳をするように心がけています。いつどこでも、メディアの研究者は紙面や番組を少しでも改善していこうとする態度がだいじであると信じていますが、メディアもビジネスであるかぎり、まず営業的に成り立っていかなくてはならない。このビジネスの論理と情報の質と倫理の問題を考えてみましょう。多角的論点を保証しないと社会は暗くなります。その両者の整合性をはかろうと北欧のいくつかの国では既に、一地域に複数のメディアが確保されるように、2番目3番目のメディアが経営不振になれば、税金から補助するという制度をつくりあげています。日本の場合は税金から補助がなされる場合、たいてい国会議員が仲に入ってきて、全部利害関係になってしまいます。日本の社会も国民もそうした議論と政策実行には習熟していないわけです。
最近問題になっている国会議員の秘書問題でも小泉純一郎首相の政策秘書は実姉でネクタイの柄選びや身の回りの世話をしていますし、第一秘書は親戚です。ところが90年12月には親類縁者の秘書採用を自粛する国会決議をしています。小泉首相は奥さんがいないので、お姉さんが身の周りの世話をしているのはいいのですが、その実態ははたして政策秘書と呼んでいいものなのか。
普段、小泉首相は「政治家の出所進退は本人が決めるべきことです」と言っていて、それをそのままNHKも民放も流しています。そのときに親類縁者の秘書採用自粛国会決議と首相の実姉が政策秘書で親戚が第一秘書であることを一緒に字幕として画面に出して視聴者の社会的な判断に資するのがメディアの果たすべき役割ではないのか。そうした報道の仕方をしないで、オーディエンスは判断力を失い、ばかばかしい誤りをいつも繰り返してきているわけです。
もちろん、総理本人の発言をながすのは悪くはありませんが、本人が言っていることが実態と食い違っている、矛盾しているということを同時に指摘してオーディエンスに伝えるのが責任あるメディアのやるべきことです。それがないのが現在の日本のメディアの情けない状況です。
またメディア側が作っている幻想のひとつに、「日本は情報過多である」というものがあります。ところが日本にはまともな情報、ほんとうに必要な情報はほとんどない。週刊誌やテレビが扇情的に伝えるから重要だとそのときは思いやすいですが、後から考えると必要なものはそれほど多くはありません。いまそれが重要な論争であったと思っている人はひとりもいないでしょう。いまオーディエンスにとって一番大事なのは、本当に必要な情報は何かを見極めることですし、メディアもそうした視点からの情報提供活動を展開すべきでしょう。
具体的な例を挙げましょう。国際問題で言うと、1971年春に名古屋で開催された世界卓球選手権を利用した周恩来とキッシンジャーのあうんの呼吸の連携で翌年のニクソン大統領の訪中と国交樹立がありました。その当時の日本とアメリカ、日本と中国の関係でいうと、アメリカのニクソンが中国を訪問することを決めたことによって日本は安心して中国との国交樹立の準備をはじめました。71年の段階の日本では人口1700万人の台湾が10億人の中国を代表することを、ほとんどの人が不思議に思っていませんでした。なぜなら大手メディアがそうした枠組みでの情報提供をしてきたからです。蒋介石政権が日本への戦争賠償請求を放棄した恩を忘れてはいけないと説くメディアもありましたが、大陸にいない蒋介石が中国を代表して賠償請求を放棄する権利はもともとないのです。
しかしそういう発言を連日メディアは流していたわけです。私は日本卓球協会の役員としてそうしたゆがんだ政治社会状況を是正しようと、日本卓球協会に協力し「ピンポン外交」といわれる市民外交に取り組みました。それが契機となって世界が動くはじめるとメディアも私たちの後からついてきました。
最近では昨年9月11日の同時多発テロの例があります。私はその直後からハーバード大学の客員研究員としてアメリカにおりましたが、ニューヨークのWTCビル崩落による死亡者は当初発表の半分以下で実際には2900人未満であることが市当局からも公式に発表されています。一方で正確には誰も数えられませんが、市民運動の発表ではその10倍近いアフガニスタンの一般市民が英米の空爆で殺されています。NHKはアメリカでのことは「こうした残虐なテロが許されていいのか」とやったわけですが、英米軍の空爆については「これだけの無垢な人が殺されていいのか」というキャンペーンはやっていません。ニューヨークで死んだ人もアフガニスタンで死んだ人も、人の命は平等であるという立場に立てば、アメリカのメディアも日本のメディアも人の命を平等にはあつかってはいないわけで、それが日常的な社会情報環境になっていると、その矛盾にオーディエンスは不感症にさせられているわけです。それをNHKの職員組合や大新聞の関係者でさえ不思議だと思わないことが、私にとっては不思議です。
文部科学省がいうメディア・リテラシー論は、どうやって番組が作られているかを知るために子供にビデオの機械を持たせて街へ出し、どう撮影すべきかを教えたり、あるいはコンピューターの使い方を教えるというものです。それはもちろんメディア・リテラシーのひとつだけれども、問題の核心からは一番遠いところにある技術の問題にすぎません。根本の問題は、社会で流通すべき情報を人びとが知らないから人の目となり耳となり、社会をまともにするためにメディアは取材し、報道するんだ、皆の知識のなかに欠落しているからこれを伝えるんだ、ということのできるひとをつくることがメディア教育の基本になければならないということではないでしょうか。
私は2月にピースボートで南アフリカのケープタウンからブラジルのリオデジャネイロまで10日間船に乗り、テレビや新聞から隔絶した生活をしました。私はテレビ取材などで電気のないところにも行くので、全然不安はないのですが、日本から出た人は皆、日本ではいま何が起こっているのかを知ろうとして最初の1カ月間くらいは不安でたまらなかったということです。それが次の港に寄港する度に、新しい人が持ってきた新聞を読んだり、家からの情報が届くのですが、たいしたことは何もないということに気づいて、1カ月くらい経つと、日本で何が起こっているかということに関心を持たなくなってきていました。
よく考えると、1年前、2年前に日本で一番たくさん報道されたのは「ミッチー・サッチー論争」なのですがいまはもう誰もなにも言いません。論争のもともとの根本は、野村沙知世氏がコロンビア大学を出たかどうかでしたが、そんなことは日本の週刊誌やテレビ番組が取り上げなくてもいい、どうでもいいことなのです。社会的にはどうでもいいことがメディアの大問題になり、それがより重要な出来ごとの報道スペースを取り上げてしまっているのが日本のメディアと情報の深刻な問題だというわけです。サッカーW杯の問題にしても「たかがスポーツ、されどスポーツ」といった程度のことですから、ニュースのトップ、紙面の一面扱いで報道することはないのです。こうしたばかげた報道の間に、有事法制3法案やメディア規制3法案が国会で議論され通過しようとしています。新聞協会やペンクラブ、NHKや民放連がメディア規制3法の反対を訴えても皆の関心はW杯に向いています。本当に必要なのは社会がどうあるべきかという議論なのであって、W杯関連の記事が一面を飾るような状況は、私の言う積極的公正中立主義から言うと、メディアのあり方としては評価することはできません。
昨年9月の同時多発テロで、旅客機がWTCビルに衝突する映像は、日本人も何百回とみていますが、国防総省に衝突した映像は最初1、2回流れましたが、あとは止められて流れていません。なぜアメリカ政府がその炎上写真をつい最近まで公開しなかったかというと、アメリカの年間国防予算は50兆円ほどですが、それだけの莫大な金を使ってもアメリカの国防の要に民間の旅客機がぶつかってくることさえ防げなかった、そのことが国民に見抜かれることが怖かったからです。私から見ると、民間のWTCビルが衝突され、被害がでたことよりも、国防中枢の国防総省が衝突されるのを防げなかったことの方が政治的にはよほど重大なことです。国防総省はいつ誰が攻撃して来ても、セキュリティの中枢ですからあんなかちで簡単にやられてはいけないのです。
それが知られることがこわいから、アメリカ国民の正当な理解をゆがめるために、英雄的な消防士の活動など、ニューヨークの被害関連映像ばかりが流されました。私は9月30日を最初に現場へ2回行きました。12月には国防総省の現場にも行きました。日本の報道も、国防総省がやられたことの意味よりも、消防士の英雄物語を取り上げて、アメリカ政府の意向のお先棒ばかりかついでいたことにはいまさらながらあきれました。政治がどういう情報操作をしているのかを私たち市民が見抜くためには、お互いに市民を殺し合うということをしないという原則で社会を作っていく、あるいは互恵平等の関係をグローバルに築いていくという思想が必要です。それがなければ、政治による情報操作の実際は読めないばかりか、民衆は権力者に利用されるばかりでしょう。