大修館書店『言語』2002年12月号用
現代においてテレビとはどんなメディアか
渡辺武達(わたなべ たけさと)
社会文化史的位置
メディア史では20世紀の前半は映画とラジオ、後半はテレビの時代といわれる。動く映像を瞬時に、電波で広範囲に伝達する、その臨場性が信頼度をつくり、災害時でも現場の詳細な情報伝達に欠かせない。人間のコミュニケーション能力を飛躍的に拡大したそうしたテレビの特性は他のメディアでは太刀打ちできない。が、問題も多い。映像情報が編集され、政治経済的利益のために誤導としての「やらせ」が横行し、オーディエンス(視聴者)のなかに社会的錯覚が定着していくこと、テレビが活字メディアとはちがう情緒性に依拠することが多く、テレポリティックス(テレビ中心の社会情報環境)といわれる、現実社会の力学と乖離した社会幻想を作り出していること、などである。
日本の放送は治安維持法が制定された1925年にはじまり、戦前は軍部の宣伝機関、GHQ時代はその政策広報機関として、51年に民間ラジオがスタートするまでNHKの独占であった。そして53年からNHKと民放同時のテレビ放送の開始である。そのテレビは9年後の62年にニュース源としてすでに新聞よりも大きな存在となっている(読売新聞調査)。その構造は現在でもテレビ51%、新聞39%、ラジオ3%、雑誌1%、インターネット5%、その他1%と継続している(朝日新聞本年8月調査)。接触時間にしても、2000年度国民平均でテレビ視聴が一日当たり3時間25分であるのにたいし、新聞閲読はわずか23分(NHK調査)。だがより深刻なのはその内容で、20歳代の若者が新聞を読まなくなり、私の勤務先大学でも単身居住者の90%もが購読さえしていない。高い、ゴミになる、テレビやインターネットで十分、というのが三大理由だが、大学生の親の世代がすでにテレビっ子であり、自社製品が売れさえすればいいというスポンサーが今のようなCMやドラマをながし、政治批判には敏感だが、利益原理主導のメディア状況には無頓着な政界、コンピュータやインターネットへの依存心を醸成している現在の文部科学省のメディア観では活字離れの加速はますます進行する。そうした状況を作ってきたのが戦後の日本の文化政策、それを国民に宣伝・教育してきたのがテレビであった事実を私たちはもっと知り、議論すべきではないのか。
メディア規制三法もそうだが、取材法や性・暴力表現、ワイドショーや娯楽の過多などをとりあげて、しばしばテレビ有害論が展開される。が、それらはテレビの「意図的悪用」に原因があるのであって、ダイナマイトが人間の手ではおこなえない巨大岩石の破砕工事にも使えるし、罪のない人びとの殺害テロにも使えるのとおなじような、原因分析のターゲットを取り違えた議論だといえよう。もう一つの問題は、テレビがノートや電話とおなじく、情報を運ぶ媒体(メディア)にすぎず、情報そのものではない、テレビの運ぶ情報(映像)は人間がつくり、意志をもった人間が編集しているという事実の軽視である。社会的強者としての政治・経済的権力がそれを民衆の社会観形成に利用する、つまりメディアとしてのテレビには何も悪いところはなく、その特性を放送企業が自己の金銭的利益と権力者への迎合という姿勢で使おうとしてきたことに問題がある。メディアと社会の関係でいえば、社会が良質でメディアだけが悪いということはあり得ないし、メディアの質が高いのに社会悪が改善されないということもないわけである。
「やらせ」の誤導する社会
今、大手マスコミの就職倍率は1000倍を超え、大学での私の「マスコミュニケーション論」講義には昨年度2400名、今年は登録制限をしたのに1700名もが登録した。それだけ学生にマスコミ、とりわけテレビへの関心がたかいわけだが、私は現在のメディアが「社会的判断力の基礎資料となる情報を提供する」という、自己責任をいかに軽視しているかを見抜く判断力をつけるための講義をする。「やらせ」論も重要な題材の一つだ。
受講生から電子メールで寄せられる質問には、『愛する二人、別れる二人』『あいのり』『ガチンコ』『?マジっすか』(いずれも民放)などは「やらせ」ですか、というのがかならずある。男女の愛も対立もどこにもあるが、『愛する・・・』に出てくる話ほど現実は面白くない。そこらの「テレビ出たがり屋」に演じさせた〈プロレス的八百長〉にきまっているわけだ。若い男女を一定期間おなじ環境におけば、仲良くなるかケンカするから、『あいのり』でペアができるのは〈当然〉の結果だし、『ガチンコ』のラーメン佐野師匠を中心にしたストーリーは登場者の性格が過度に強調されたドラマである。そうした〈つくり〉には視聴者への実害はほとんどないから、演出(表現を効果的にする技術)の範囲内であり、目くじらたてることもなかろう。だが『?マジっすか』による、四国で採ってきたオケラ(昆虫)を淀川河川敷にうずめておいて、あたかもそこで採集したかのように見せたシーンは、猿岩石がタイやカンボジア、それにベトナムの国境をヒッチハイクでらくらくと超えるという、虚偽情報としての「やらせ」と同じで認められない。
「やらせ」とは、「演劇化=ステージングが発生し、視聴者(受け手)が映像を含めその部分を真実であるととらえているのに〈じつはそうではなかった〉という送り手と受け手のコミュニケーションギャップがある限界を超え、視聴者を誤導し、その原因が送り手側にあるとき」なのである(拙著『テレビー「やらせ」と「情報操作」』参照)。だが現在のテレビの提供する情報のより大きな問題は、「やらせ」が個々の番組の検証ではすまされない次元にまで拡大していることだ。
現在の民放ではプライムタイムの番組の八割もが購買力のある二○代三〇代を相手にした娯楽番組である。そのため、朝6時には起きねばならない会社勤めの多くの男女が社会問題にアクセスする機会を奪われ、CMだけではなく、番組内容からも巨大企業の思想宣伝のシャワーを浴びせられている。この時間帯の番組の多くがほぼ10分おきにCMタイムをとるから、大学の授業でもそれ以上のまじめなトークには寝入ってしまう、また彼らの時間感覚もみじかくなり、学生たちは半年前のことを「昔のことだが・・・」といいだすといった、人間行動と忍耐力に大変な構造的変化が〈蓄積的影響〉として生起している。
話を戻すと、93年2月に朝日新聞が告発し、全国紙のすべてが社説でとりあげ、国会でも指弾され、特別番組で会長までが謝罪せざるを得なくなった、NHKスペシャル『奧ヒマラヤ、禁断の王国ムスタン』(放映は92年秋)がネパールの辺境地域をドキュ・ドラマ(ドキュメンタリー仕立てのドラマ)にした「やらせ」番組にはおどろく(拙著『メデイア・トリックの社会学』参照)。情緒に訴えて実相をぼかす手法は現在の『プロジェクトX』でもみられるが、それは福祉関連番組でも使われる。たとえば、この4月28日に放映されたNスペ『奇跡の詩人』では、脳に障害をもつ男児が〈ドーマン法〉という訓練を受け、今では母親の介添えによる文字盤の指差しで、「今、私が肉体の混沌から抜け出せたのは言葉を伝えるすべを得たからです」などと〈書いた〉一〇册の著書をものした。美しい話だが番組の中心点である執筆行為と内容は母親の代筆であり、それを批判されて放映した弁解番組にも信頼できる専門家の証言をもってくることができなかった。障害者・児をもつ親たちをコケにしたわけだが、今なおNHKは番組審議会でも「科学的に確かである」として素人委員たちをだまし通している。NHKではこの9月20日、総合の連ドラ『さくら』の149回をとばして放送したがそれはどこにもある単純ミス。深刻なのはこの局の社会政治情報で、語学と料理番組以外は眉にツバして見た方がいいかも知れない状況にある。もっとも、米英独仏といった諸国のメディアも権力に翻弄されており、それぞれが抵抗と迎合の葛藤の中にあることは公平を期すためにいっておかねばならない。
一方、娯楽偏重の民放では、テレビ界の黒沢明になったといえるほどシナリオがしっかりした倉本聰のフジテレビの『北の国から』(フジテレビ)では、これまでも農薬自殺まで登場させて、酪農と日本経済の矛盾などをよく描いてきたが、その最終編「2002遺言」(9月6/7両日)では、キタキツネや〈トド〉の出番、それに流氷の場面などは感動仕立てがすぎて不自然だし、真冬の夜に毛布一枚で屋外で寝込むことなど北海道(羅臼)の寒さではあり得ないと現地のひとは断言する。ということは、他局の同種番組などは後者が圧倒的に多い玉石混交だということだ。
政治的にはさらに巧妙な操作もある。98年の『視点・論点』「新・ユダヤ人と日本人』では、大戦中の在リトアニアの杉原千畝領事代理が外務省の資格認定にあわない、ユダヤ人に査証を与えたという、個人の勇気と人道的な行為を「当時の日本政府の方針で、外務省の指示であった」と出演者にいわせたのである。しかもその放映日が昭和天皇の誕生日である4月29日で、直接の番組担当者の与り知らぬ場所で事前にことが運ばれていた。私はこの件で間違い放送の訂正という放送法4条の規程に基づきNHKに出演要求し、翌99年8月16日におなじ番組でその言説を批判した。
9.11自爆テロ報道にも問題が多い。私は事件の5日後からハーバード大学の客員研究員として渡米したが、そこで見たNHKの映像はアメリカからの借り物、あるいはアメリカ側制限下で撮影したものがほとんどで、米政府の日本語広報を見ているかのようであった。それは事件後一周年をはさんでながされた一連の番組にもあてはまる。ニューヨークのWTCビルでの〈非武装〉市民の犠牲だけが強調され、膨大な国防費(年間50兆円で世界の36%)を使ってもその総本山への民間機突入さえ防げないことが明らかになるから、国防総省の炎上映像は徹底的に制限された。また事件一年後のこの9月8日のNスペ『見えない脅威』の新聞用宣伝にもこうあった。「テロリストの実態が判明するにつれ・・・特に、暗号の問題は人類の大きなジレンマとして顕在化してきた。暗号は本来、電子商取引の安全性や市民のプライバシーを守るための技術である。」なんとなく読みすごしてしまいそうだが、暗号をもっとも必要とするのは秘密をもつ軍と情報機関であり、現実にそのように開発された。しかもこの番組は日本の防衛情報がアメリカ(軍とCIA)に依存していることにも、米政府が中心となって世界中の電話やメール通信を傍受しているエシュロンというシステムにもまったくふれず、すべてがアルカイダの批判ばかりで、放送法三条が要請する「多角的論点」などなかった。その流れは民放のワイドショーでもおなじ。一周年の追想番組でもこのトピック関連が最長であった(TBS『ブロードキャスター』調査)。ということは日本のテレビが官民一体で米政府の宣伝に協力しているということである。
情報操作の構造と背景
今、日本のトップニュースといえば、1にブッシュ米大統領、2に日本の小泉総理、3に石原東京都知事。結果、視聴者は自分の住んでいる自治体の首長の顔は知らなくても、この3人の顔だけは知っている。これがテレビが〈決める〉社会的重要度(アジェンダセッティング)で、それをマクドナルドやハリウッド映画も加わったアメリカ文化が幾重にも支えている。それらが背景となって、WTCでの犠牲者数である2830人以上の非軍人がアフガニスタンでの英米による空爆で殺されている現実、騒動となった炭疽菌についても米FBIの培養したものなのに、そうした事実を〈極小化する〉主流メディアに不満の声があがりにくくなっている。だから、こうしたメディア状況のなかで問うべきは、どうしてオーディエンスは歪んだ情報ばかりを見せられるのかということになる。
「やらせ」番組とその内容、ならびにその原因にはいくつもの種類と次元がある。まず内容としては@世論を誤導(ミスリード)する意図をもった全体の構成と仕組み、A個々の事例の偏向解釈、B編集上における意図的な事実の削除、あるいは添加、C番組内の個別事項の間違い、D番組内容の誇張表現、E虚偽・捏造、F事実の脚色と歪曲、G事実の時系列説明の変更、H速報性の過大視と映像を主体に番組を構成するテレビメディアの特性に起因するもの、など。大切なのはそれらが生起する原因の把握だが、第1、送り手側の意図的なものと、第2、意図はないが結果としてそうなるものとがある。前者には@局外部からの影響や工作、あるいは局責任者の政策・イデオロギー的なもの、A制作担当者(局管理者やディレクターなど)の個人的宣伝や野心、もしくは嗜好、後者には@関係者の無知または不注意で放映までにチェックできなかったもの、Aストーリーや断片的事実に対する解釈の逸脱や誤解、あるいは単純な間違い、B画面に現れるものだけが真実と受け取られやすいテレビの特性から必然化するもの、などがある。
別の角度から放送を例に説明すれば、日本のメディア支配の構図はつぎのようだ。第1、代議制民主主義の巧妙な利用(特定の経済・政治勢力と結びついた国会議員などを利用して放送に干渉するやり方)。第2、国民の利益を代理執行する行政組織・郵政省(現・総務省)大臣による事業免許の付与と五年ごとの更新。第3、電波法・放送法等の関連法規諸条項についての政権政党と高級官僚による恣意的な解釈および適用。第4、利益至上主義と保身のためのスポンサーによる社会問題の報道規制やドラマの内容への干渉。第5、政権政党と行政主導による公共性概念の独占的解釈。第6、放送事業労働者にみられるジャーナリズムの社会的責任認識の欠如、第7、各種シンクタンクや御用学者・文化人等の発言利用による誤導。第8、上述のことをオーディエンスに不思議に思わせない、主流メディアによる日常的な情報提供。
以上のことから、「やらせ」は個々の番組の一つひとつのシーンだけが問題ではなくて、むしろテレビ産業全体に「やらせ」の構造があることがわかってくる。放送は電波法による総務大臣からの免許事業で、その内容は放送法によって規程され、それにしたがって各局が番組基準をつくり、さらに現場向けの『制作ハンドブック』や倫理綱領・取材基準などが定められている。だが、題材が枯渇してくると、政府・与党、そしてスポンサーからの批判を避けるために、民放もNHKも「アザラシのタマちゃん」的なものを歓迎し、日朝会談で拉致被害者の大半が〈死んでいる〉ことが判明すると、全体の構図を放っておいて、センセーショナリズム報道に走る。最近のNHKの若い会社員向けドラマ『ロッカーのハナコさん』も非科学性という点で先の『奇跡の詩人』とつながっているし、民放の占いものをふくめ、こうしたオカルト番組は放送法も、各局が自主制定した番組基準も禁じている。
これからのテレビとアカウンタビリティ
このような圧倒的な力で迫ってくる〈送り手〉にたいし、私たち視聴者はどうしたら対等な関係を構築していけるのか。
最近では国会でもよく使われるようになった〈アカウンタビリティ〉ということばは「説明責任」と補注されるがそれでは不十分。本来的には「実相の徹底した情報公開をしたうえでの自己の社会的有用性の説明」という意味で、メディアの内部にそうした自己認識が稀薄であることがさびしい。たとえば、原子力発電は安全面でも経済効率でも劣等である。ところが、日本のテレビ放送がはじまった1953年にアイゼンハワー米大統領が「平和のための原子力」(Atoms
for Peace)という演説をしたことに象徴的なように、それは広島と長崎での原爆投下の原罪を糊塗しようとする意図を同時にもち、上述の米主導のメディア支配の構図のなかで世論定着がはかられたものである。そこで〈小さくない〉役割を果たしたのが政治家に転身し、科学技術庁長官になり、日本で最初の民放テレビ開業認可を得た読売新聞グループの総帥・正力松太郎で、彼はメディアを使って〈平和な〉原発を日本に根づかせようとした。ヒトラーもベルリン五輪(1936年)でテレビを宣伝利用したが、アメリカもまた世界戦略上の政策浸透手段として早くからこのテレビの影響力に着目しており、日本側も朝鮮戦争に絡みながら電波をGHQから分けてもらう段階で、テレビを対米協力世論づくりに使うという動きに連動している。これは憶測ではなく、証言や記録が残るもので、私自身、ハーバード大学から出す予定の『戦後日本のメディアと権力』(THE
MEDIA AND POWER STRUCTURE IN MODERN JAPAN 1945-2000)の草稿にもすでに入れている。
実質的には〈アメリカ化〉である、人口に膾炙した「グローバル・スタンダード」にしても感覚的なものではなく、戦後の米世界戦略として、長期的な展望をもった緻密な論理で構成されている。にもかかわらず、テレビは娯楽手段だし、そうした機能に優れているからといった視点での、番組の出演者の演技だけを俎上に載せるようなレベルのテレビ批評を脱しなければ、テレビを社会構造の全体像のなかにおいて議論し、そのうえでテレビをどのように社会の進歩に役立ていくのか、私たちオーディエンスの情報発信の手段とするのかといった方向性は見えてこない。
その意味でも私たちメディア学者とジャーナリストの責任は重く、政府や広告業界をふくむメディア企業から金をもらっての迎合的研究を学問だと称したり、一週間程度の予備調査でルポを書いて、「真相はこうだ」といっているほどのジャーナリズムでは、権力に飲み込まれていった戦争中の先輩諸氏を嗤えない。(同志社大学文学部/新聞学)