集英社文庫版 つかこうへい『銀幕の果てに』解説 1997年9月刊行予定
『銀幕の果てに』拡がるキネマ・スターの愛と宇宙の真実
同志社大学教授 渡辺武達
本書『銀幕の果てに』もそうだが、つかこうへいさんには『蒲田行進曲』『女優になるための三十六章』をはじめ、舞台とキネマ(映画芸術)への熱き想いと哀しき役者稼業への慈しみにあふれた作品・文章が多い。そしてそれらの背景には、演じることの「からくり」の面白さとともに、ステージに立つもの、立たせるものがともにつくりあげる瞬間芸術である「演劇」の魔性とひとの心に迫る力に圧倒され、どっぷりとつかり込んだものだけが発信できるドラマツルギー(演劇作法)がある。そしてその魔性は、一見、異質な原子力発電とキネマのエネルギーとの対立を舞台にした本書において、国家を「強者だけが生き延びられる体制のことだ」と喝破することによって、プラトンの国家論とニーチェの権力論を超えようとする。
またつか作品では、潜在能力としての想像力・創造力には恵まれながら、企業社会では生きにくい女と男たちが集い、演出家との協同作業によって稽古をかさねていくなかで、無名の役者、とりわけ女が限りなく変身し磨かれ「人生の中の一瞬の華を見事に開かせ」凄みのあるトップ女優となっていくプロセスが手づかみで提示される。それはアリフレックス・35カメラのまわる音によって鍛えられた役者の想いと情念が何事にも換えがたい力をもち、この世でもっとも強いものに挑戦し、そのつくりだす闇の世界にも光を当てるのだという確信によってささえられている。
さらにはそうしてキネマの世界で一旦、頂上に登りつめ、スポットライトをあび「全世界は自分のために用意された」と信じた女優はその生命をついえるまで頂点での快感を忘れない。そこへ登りつく途で、他の女優が自分より少しでも美しくみえたりすれば、殺すに値すると決断させるほどにそれは強烈だし、かつての自分の脇役であった女優が自分の目の前で主役をはることを絶対に許さない。そういう役者たちの心情とキネマの世界をつかさんは知り抜いているから、この女優の業ともいうべきものだけが現代科学の粋を集めた(はずの)原子力発電とそれを取り巻く怪しげな国家秘密のベールを暴きうることを野火止玲子が主演する本書の主要テーマとして描き切ることになる。
本書の単行本の扉に「この物語は、時代も事実もすべて超越したストーリーです」とある。たしかにこの本の冒頭のシーンで「銀色のハサミが飛び、菩薩の喉仏に突き刺さろうとしたとき、菩薩がそれを冥王星と対角をなす、青き地球に向けて投げ返された」とあり、それが、国家権力によって大東映画撮影所に隣接させられた北関東電力奥秩父原子力発電所の炉心「もんじゅ」に突き刺さることによってはじまる人類の不安、そしてそれを抜き取り解決するための唯一の方法がかつての銀幕の主演スター野火止玲子の「銀幕復帰の心的炎」だというわけだから、たしかにそれは事実としてはありえないことだ。
しかしつか作品の場合には『つか版忠臣蔵』や『龍馬伝』三部作といった歴史物にせよ、『広島に原爆を落とす日』などの愛と国際政治のサスペンスにせよ、史実とは学問的に違うという指摘は容易であるが、その歴史現象が私たちにたいしてもつ「社会構造的真実」という点ではなまなかの歴史書などはるかにおよばぬ「歴史の見取り図」が提示されているといえよう。 そうした観点から読めば、この『銀幕の果てに』は、社会的強者としての政治権力とそれに身を売り奉仕する「御用学者・文化人」たちが日々、「科学とはわからないことをわかろうとする心のことだ」ということを意図的にねぐって、表面的な科学万能幻想を振りまき、はては原子炉に「ふげん」や「もんじゅ」といった菩薩の名前をつけてしまう人間の不遜とその思考枠組みの犯罪性がわかる。さらには神とは人間が思念の中でつくりだしたものにすぎないから、それぞれの神が「わたしは道であり、真理であり、命である」とひとりごちながらねり歩くさまが(宗教)戦争の始まりであること、そして人類が滅べば神もまた存在しなくなることが痛烈にやゆされ、第一級の政治学のテキストともなる。
本書を読了すれば、連続する日本の原発事故・火災事故とその処理過程のうそがなぜ存在し、それらがなぜ隠蔽され、それが戦前・戦後とつづく天皇制を利用した日本の権力悪によってささえられていることが高い説得性で明らかになる。 私もまたかつて原発安全論および原発によるエネルギー不可避論のまやかしとその情報操作の巧妙さについて「原発バイバイCM中止の政治性」(拙著『メデイア・トリックの社会学』世界思想社刊)で書いたが、私がそこでいいたかったことの骨子はすでにつかさんのこの作品に盛り込まれ、くわえて「もんじゅ」事故などが確実に予測されていたから、世界文学の水準を一歩でも進めようと最先端できりむすばれる作家のすごさに脱帽した記憶がある。
さて、本書に出てくる往年の大スター・野火止玲子は本名を「川島芳子、中国名が愛新覚羅顕 、清朝粛親王の第十四王女として一九○六年に生まれた」ときけば、ああこの野火止玲子こと川島は「川」を「山」に、「島」を「口」に、そしてもういうまでもなく「芳」を漢語の同音異語に置換すればそれが中国との波瀾のかかわりをもち、女優の後、政治の世界に入った某女史をモデルにしている(らしい)ことがわかる。
つかさんのこの作品には、スターの魔力だけではなく、時代のはざまで国際政治に翻弄されるひとりの人間への限りない慈しみ、そしてかつて原爆問題を題材にして『広島に原爆を落とす日』や『愛人刑事』で描いた、白人たちによる世界支配と、戦後支配のための日本支配層によるそれへの迎合のなかで広島と長崎が犠牲になり、そして地球をもささえうる男と女の愛のみがそれを防ぎうるのではないかということが一層の科学性と真実性をもって主張されているわけだ。
もちろん本書をロベルト・ユンクなどの良質のサイエンス・フィクションに匹敵するものとして読み込むことも可能だ。そういう視点からは、科学者、とりわけ原子力エネルギーの専門家や社会心理学者までを説得してしまうじつに恐ろしいほどの内容をふくんだものだといえよう。かつて私も親しくおつきあいさせたいただいた、元京都産業大学教授の故・若泉敬はその首相在任中に沖縄返還を実現した佐藤栄作のブレーンとして知られるが、氏はその遺作『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋、一九九四年)で、返還実現のためにアメリカ側とキッシンジャーを介して米軍基地の核の存在を不問にする密約をしたことを克明な資料とともに書き残している。この核日本持ち込み論についてはアメリカ側からの同様の証言が元在日アメリカ大使ライシャワーによってもなされているとおりだ。
核を作らず・持たず・持ち込ませずという非核三原則、民主・自主・公開という日本の原子力開発三原則を日本の原子力行政は欺瞞とごう慢で覆い隠している。日本(本土)にやってくるB52や米艦隊も途中で原水爆を降ろしてくるわけではないからそのことは素人の常識でもわかることである。つまり日本には確実に「核が持ち込まれている」わけだが、その欺瞞の延長線上に今(一九九七)年三月の動力炉・核燃料開発事業団(動燃)東海事業所の再処理工場火災爆発事故とその組織ぐるみの虚偽報告やその前の「高速増殖炉・もんじゅ」事故などの虚偽報告がある(九五年十二月)。これらの壮大なうそは、第一、科学はあらゆるものを超越するという近代合理主義の曲解、第二、権力者は何事も合法化し、民はそれに従うものだという「権力者にとっての常識」、第三、強いモノには巻かれたほうが暮らしやすいのではないかという「民の狡知」の三つにささえられている。
こうした政府(科学技術庁・資源エネルギー庁)と電力業界の合体による、原子力問題への情報操作・世論操作は、たとえば一九九七年三月現在で、政治問題全般にわたる政府系の審議委員会におよそ一五○人ものマスコミ関係者が入っていることでいっそう強固になる。政府の依頼で(一九九一年)日本原子力文化振興財団が作成した答申「原子力PR(PA)作戦」の作成委員長は某大新聞の論説委員であった。 その答申には「女性(主婦)層には、訴求点を絞り、信頼ある学者や文化人等が連呼方式で訴える方式をとる」「文部省に働きかけて原子力を含むエネルギー情報を教科書に入れてもらう」「原子力に好意的な文化人を常に抱えていて、何かのときにコメンテーターとしてマスコミに推薦できるようにしておく」「ドラマの中に、抵抗の少ない形で原子力を織り込んでいく。原子力関連企業で 人間が登場するといったものでもよい」とある。
しかもこの論説委員は九三年三月に、読売・毎日・産経の三紙が計五千五百万円を資源エネルギー庁からもらいながら、それを隠してまったく独自取材のごとき一ページ座談会記事をそれぞれの社で仕立てたときの自紙面の司会者をつとめていた。 地球大に拡大、同時的に動いている現代社会はマスメデイアがないと成立しない。しかしそのマスメデイアがこの例のように、原子力推進の国家イデオロギーと産業界と結びついて国民だましを平然とやっているのだから恐ろしい。繰り返すようだが「もんじゅ」や「ふげん」の問題とその後の情報隠しなど、「ばれなければよい式」原理で動いてきた日本の原子力行政と利権構造の当然の結果であったのである。
その意味で本書には「”い”つかこうへい」な世の中をつくるために強者の横暴と民の祈るような想いだけは記録しておくぞという作家の覚悟があり、科学的装いのトリックを見抜く、つか文学の精髄がある。が、そんなこむずかしいことをいわなくとも、ここには小説も演劇も、読む前より、劇場に入る前より、ひとが幸せを感じて出ていけるものであるべきだという、つか文学の原点が隠し味としてある。
本書全体がまさに演劇仕立てで、『蒲田行進曲』で、銀ちゃんの復活に期待すると同時に愛する女の出産費用をつくるために命をかけて哀しい階段落ちを演じる大部屋俳優・ヤスが、そして出演者全員がラストシーンでハッピーエンドになる仕掛けとおなじ工夫がこらされている。また「夜中に救急車で運ばれた女の腹痛の原因が三ヶ月ものタンポンの入れ忘れだった」などという描写は、日本の買春男たちがタイの少女の中に性玩具を置き忘れたため錆びて体が腐り死亡したという実話のもつ悲劇とは次元が違う。つかさんの諧謔にはやさしさがあり、それは「泥の河」などの映画をひとりで演じてしまうマルセ太郎が「いかに哀しい物語でも真実が描かれていればそれは観客の笑いと共感をよぶ」というところの、芸術表現の醍醐味である。
実際の事件が文学者たちの作品構想力を超えてしまうといわれる今こそ、本当にインパクトのあるモノを読みたいと願うすべてのひとに本書をすすめたい。この『銀幕の果てに』こそ、多彩な分野で世界の文学と平和哲学の水準を一歩でもすすめようと努力し挑戦されるつかさんの新しい小説ならぬ「科学大説」なのだから・・・。(止め)
筆者:渡辺武達(わたなべ たけさと)、同志社大学教授、ジャーナリズムの倫理・国際コミュニケーション論。
e-mail: twatanab@mail.doshisha.ac.jp
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