2001年6月26日京都新聞朝刊

田中外相バッシング報道メディア本來の責務を

同志社大学 渡辺武達


 豪・独外相との直接会談などでアメリカのミサイル戦略構想批判をしたことが国益を害するとか、会計士の息子に外務省の機密費使用をふくむ関係書類をみせたとかといって、総裁選の応援で活躍した田中真紀子外相にたいするバッシングがはげしい。かたや、内閣支持率は軒並み八〇%を超え、その発行するメルマガ(電子メールで登録者に送る内閣通信)読者が一〇〇万人を超えたという。 

 田中氏は総裁選の対立陣営候補をポマードおじさん(橋本龍太郎)とか、ドロ亀(亀井静香)とよび、あげくのはては小渕元総理について「一年間で借金百兆円つくり、カブ上げて喜んで頭がパチッと切れて、オブチさんがお陀仏(オダブツ)さんになった、自業自得だ」とまでいった。ベートーベン的髪型が話題となった総理の所信表明演説の国会中継視聴率は六・四%で、「徹子の部屋」などその日の裏番組は軒並み勝てなかった(五月七日、ビデオリサーチ)。ハンセン病裁判敗訴での政府控訴断念(市民的権利概念からすれば当然のこと)や、膝関節の脱臼に耐えて優勝した横綱貴の花に優勝杯を渡しながら、「痛みに耐えてよく頑張った、感動した!」と絶叫したこと(自然な人間感情)などの日常生活的パフォーマンスが大受けで、支持率と視聴率の高さが二カ月ちかくも続いている。 だが、官房機密費を野党対策などに使ったという証言を一カ月で忘れる「塩じい」(塩川財務相)をカワイイとさえいってすます風潮はオウム事件や和歌山毒カレー事件などとおなじく政治をメディアの消費財にするもので、政治のワイドショー化である。私たちの現在と将来を決める政治をメディアはもっと慎重に扱うべきではないのか。 

 田中バッシングでいえば、主権者である国民が選んだ議員の互選で選ばれたものが総理となり、その任命する外相(国民への奉仕者としての公人)が外国代表と公式会談するとき、「個人的考えだが・・・」と前置きしてもそんな弁解は通用しない。しかし、日本は独立国であり、内閣での事前協議さえあれば、外相はあらゆる題材について国民益に基づき論評できる。EU諸国首脳さえ追随していない米戦略を日本だけが批判できないという〈政界常識〉のほうが属国的でおかしい。つまりこの件は外相に手続きミスはあるが、外務官僚たちが機密費問題では守秘義務をいい、意にそわない外相の会談記録だけはリークするという背反行為により大きな問題がある。 

 半面、報じる側のメディアにとっての言論・表現の自由とは権力を監視し、その実相を国民に知らせることである。番記者たちはこれまでも与野党幹部からそうした会談記録をみせてもらいながら報道してきていないのに、今度だけは逆のことをしている。機密書類にしても、外相のいうように、専門家がその気で時間をかけて分析しないとわからないから、どの政治家もそうしている。メディアは主体性をもって、読者・視聴者のまともな社会的判断のための適切な論評と解説をするという責務を果たすことにもっと努力すべきであろう。