主流メディア批判を躊躇する現代メディア研究
メディアの送り込んでくる情報をどう読み解くか、そしてメディアをどう使いこなすか、つまりパソコンを主体に電子メディアの場合にはそれらをどう使いこなすかという能力が今日社会における「メディア・リテラシー」の意味である。当然、情報の正確な読みとりには表現された文字・映像・音の記号論的意味だけではなく、それらの正確な社会的位置づけをしなければならない。その中からメディアの提供情報の原理に迫るにはメディアの産業的特性にも通暁せねばならない。が同時に大事なのは、メディアの受け手であるオーディエンス(視聴者・読者)がそれにどう反応しているか、反応させられているかを自らの社会的制約(誰もがもつ偏見の枠)をいったん抜け出して客観的に分析できるかどうかである。
新聞にはラジオ・テレビ欄(通称、レテ欄)があり、また最近では主要新聞が「メディア欄」などと称してメディア批評をおこない、雑誌では専門のテレビ番組紹介誌だけではなく、一般雑誌・週刊誌までがなんらかのかたちで他メディアについて批評する欄をもっている。当のテレビもまた92年のNHKスペシャル『ムスタン王国』の「やらせ」不祥事以来、それらの防止に役立てようと「自己検証」などと称する番組を放映し(させられ)はじめて二年になる。
メディアが他メディアについて批評したり、第三者にメディア批評を依頼するのはいいことだ。が、それらのメディア批評の内容には、正直いって、あまり満足のいくものがない。大手新聞の書評欄の多くが評者仲間内でのほめ合いになってしまってから久しいが、ジャーナリズムとマスメディアの専門学会の日本マス・コミュニケーション学会(旧・日本新聞学会)も最近では「日本メディア経営学会」と揶揄されるようになってきているほど研究発表の中味にメディア事業と政府権力との関係を批判するものがとぼしい。じっさい、最近の同学会はメディアの現状を憂える学者たちによる主流メディア批判(と受け取られる)的内容をもつ発表を受け付けないようになっている。
実際、この六月に名古屋の中京大学で開催されたこの日本マス・コミュニケーション学会のワークショップにメディア研究では世界的な権威であるデニス・マクウエィル氏と一緒に私は現在の世界のメディア研究が産業界主導になっていること、新しい情報環境のなかでのメディアの責任の再確立をうながす「現代メディア研究の課題」というタイトルでの発表・討議を申し込んだ。が公平に見て他の発表企画と同等以上の内容にもかかわらず拒否されたのである。同様に、私の知人たちによる、市民主権メディアの実践としてのアメリカのパブリック・ジャーナリズムについての発表・討議の申し込みも拒否された。
私も同学会の会員のひとりだから、推定ではなく、理事会・企画委員会でどういう話し合いがされているかについては知る権利がある。が、学会の設立目的に合致し、内容的にも水準を超えているものが発表できないことの背景には、事業者とその背後にいる郵政省・通産省などの批判はまずという気分があることは否定できないだろう。
文化とは人間の暮らしぶりのことであり、暮らしには経済や政治だけではなく、芸術も学問もありとあらゆるものがはいる。そうした観点からの総合的な社会分析が本当の意味のカルチュラル・スタディーズであり、森羅万象のことをあつかうメディアの研究がアメリカ型社会学のようにトリビアリズム(些末主義)に陥ることは、現状の肯定どころか、むしろ悪化につながる。学者はそういう状態を座して見過ごすことはできないし、これだけメディアの行政監理が徹底され、メディアじたいも商業主義と権力迎合において度がすぎているのだから、今のままでメディアの影響力だけが大きくなるようであれば社会のゆがみが増大し、日本人が不幸になる。事実、三十年前の学会はこうした問題にまともに向き合っていた。この三十年の後退を押し返すには相当な努力が必要だが、そのてはじめはマスメディアの専門学会をどのような主題についても「オープン」にし、真理の探究の場であると胸をはっていえるようにすることだろう。
今月はそうした立場から、国谷女史がキャスターをつとめる、NHKの看板番組の一つ『クローズアップ現代』をとりあげ、私じしんが会員である現行日本マス・コミュニケーション学会のあり方への自省とカルチュラル・スタディーズの立場から、具体的なメディア批評をおこない、メディア研究の一つの方向性をしめしておきたい。
☆日本語で文化を政治や経済と対比させるときにはお茶や生け花、歌舞伎に文楽、音楽や文学、絵画とかファッションなどのことで、それを狭い意味でとらえることがメディアにおいて常態化している。が、本来、文化とは暮らしのスタイルのことである。つまり、文化とはもっとひろいもので、思想・政治・経済もふくめた、人間生活のあらゆるものについていうもののはず。カルチュラル・スタディーズでは文化をそうした人間をとりまく総体としてとらえる。その立場からのメディア批評、メディア研究が日本でけではなく、戦後の世界のメディア研究には欠けているし、ますますそれとは逆方向への流れが今、大きくなっているのではないかというのが私の基本認識である。
NHK『クローズアップ現代』の「偏向」と「やらせ」
NHKが権力機構とそれに迎合する幹部たちによってその利権維持のための「政治的情報操作」にどのように加担してきたかについて、川崎泰資氏の『NHKと政治』(朝日新聞社、一九九七年)は見事な分析をした。私はそれをメディア・リテラシー教育のためのすぐれた参考書の一つだと評価する。ここではNHK番組がそうした露骨な政治干渉を背景にもちながら制作されていることを理解したうえで、ある意味では現代の報道・解説番組、あるいはドキュメンタリーとして一定の評価のある番組にさえ、実際にはとてつもない「やらせ」があることを指摘しておきたい(「やらせ」については拙著『テレビー「やらせ」と「情報操作」』三省堂選書、参照)。そのことに気づき、論及する姿勢をもたなければ、現代のメディア批評とメディア研究などあまり意味がなくなってしまうからである。
新聞や雑誌の「メディア欄」とか「番組案内」、あるいは「○○芸術祭」などの評では、(1)作品内容(作品名からテーマ、シナリオやストーリー展開まで)と(2)構成(具体的な撮影手法や登場人物、ゲストの紹介など)が主として語られる。が、私の考えるあるべき「メディア批評」では、それら二つにくわえて(3)視聴率(4)オーディエンス層(視聴質)(5)放映時間(6)全体の印象形成と社会的影響などが合わさって、(7)当該番組がどのような「社会的な動き」をしているかが評価・解釈されねばならない。すくなくとも、メディアの批評は、送出者側からオーディエンスへのメッセージ性(質)がメディアとオーディエンスの大きさ(量)とのからみのなかで分析されねばならないのである。
ここで取りあげるのは『クローズアップ現代』の本(九八)年四月八日の放送分「軍事技術は金のなる木」と題されたもの。この定番は夜九時のニュースにつづく、月から金までの平日午後九時半からの三十分番組で、比較的ていねいにつくられている。が、まずこの日のタイトルである。
新聞のラテ欄だけでこれを知ったひとはこれを「軍事技術はもうかりそうだ!」という意味にとるだろう。じっさい、ラテ欄だけみて番組を見ないひとも多いから、そうした印象が残るだけでもこの番組は一定の政治勢力の「宣伝」になっている。また、番組内でも画面の右下のコーナーにはトピックスの変わるたびにこの番組名が何回も字幕で出てくる。民放のコマーシャルの繰り返しとおなじ反復効果をねらうもので、視聴者はいやでもこの「キャッチフレーズ」が頭にたたき込まれる仕掛けになっている。
つぎに内容(コンテンツ)である。番組は冒頭の映像で、人気映画『タイタニック』の海洋シーンやさまざまなスポーツや軍事訓練のシミュレーションには軍事用に開発された仮想現実空間が応用されていることを紹介し視聴者の関心を惹きつける。そしてアメリカでは冷戦後軍事予算が二十五パーセント削減された結果、それらの技術の民間転用が促進され、その結果、最近では大きく利益をあげる会社がぞくぞく生まれはじめたこと、そしてそのことがアメリカの好景気につながっているというコンテキストでの説明が、国谷キャスターの問いとスタジオに招かれたゲストの三井物産総合情報室長によるコメントとともに、全体として「軍事技術は金のなる木」という主張を全面肯定するものとして演出される。オーディエンスが自然に軍事問題への肯定的反応をすることになる背景的知識がインプットされる仕立てになっているわけだ。
正しさは「健全な人間社会の倫理」を基準にして
たとえ情報操作の意図があったとしても、番組内に情報としての「内容的正確さ」があればまだましだが、この番組の場合、内容的にも支離滅裂であった。たとえば、カリフォルニア州サンディエゴのある軍需工場が民生向けに組織替えしてそれまでの開発技術の一つ、単位面積当たり太陽の何百倍も強烈な光を一挙に照射する技術を飲み水の殺菌に利用することを思いついた。それがある巨大食品チェーンに採用が決まり経営が上向いたこと、戦車用の敵との距離測定機器がゴルフ場でのプレーヤーとボールとの距離測定に、そしてこれまた戦車の敵認識機器が有料道路のゲートに設置され、番号読みとりが自動化されたので料金支払いのために止まる必要がなくなり(もちろん後で代金の請求が来る)便利になったことなどが紹介される。
さらに番組内で、これまでのアメリカの軍事予算の総計が二○兆ドルにものぼっていることがさらりとゲストの口から出る。この額はこれまでの円換算を平均して一ドル二○○円とすれば、計四千兆円にもなり、日本の国家予算の五○年分という巨額なもので、現在もこれからも日本の参考になるものではない。つまり、それほどの軍事予算をつかって、たかだかゴルフ場の遊びとか高速道路での番号識別機や水の殺菌(だけで有毒物は除去できない)が可能になってもそれが何なのだ。そんな技術などは倒産があいついでいる数名からなる日本のベンチャービジネスに数億円も出せば一年以内に実現してくれるものばかりだから、軍事に金をかけることなど無駄だという結論を導き出すための前ふりにだけ使えるものにすぎない。
じっさい、地下鉄サリン事件以後のオウム真理教への捜査で、高速道路で上九一色村に向かうオウム幹部の車を検知することでも明らかになったが、日本の交通警察はすでに「Nシステム」という、車両番号自動読みとり装置を実用化している。くりかえすが、そんな装置の開発などは数千兆も使わなくともほんの数億円で今の日本の研究者たちならやってのける。人殺しの軍事技術の開発をまたなくても、最初から民生開発をすればいいことなのである。まじめに考えるとあまりにもばかばかしいこの種の数字と論理がこの『クローズアップ現代』では平然と語られている。
さて、内容と構成のつぎに、その番組は誰にどのくらい見られたのかが問題になる。これは「視聴率」(業界では「数字」という)と「視聴質」の検討である。
この四月八日のこの番組の視聴率は関東で七・四(%)、関西で九・九であった。この時間帯だと一パーセントはだいたい七○万人ぐらいで計算するから数字を平均八だとすれば、全国約一千万人がみたことになる。ちなみに、この番組のまえには七時と九時のニュースがあるがそれらの数字はそれぞれ関東と関西では八・八と十三・五、六・四と九・八である。また民放もふくめてどんな番組でもこのように関西が平均すると視聴率が高いのは関西が東京ほどテレビに替わる夜のレジャーがないことにも原因があると思われるがその分析は別にしよう。ついでにいっておけば、当該放映日以外の『ニュース7』『ニュース9』の視聴率は一○%台の前半(十一〜十三くらい)で推移し、『クローズアップ現代』に関しては一○%弱が平均的な数字である。
さて、私の大学のマス・コミュニケーション論の講義の登録者は約五○○名だが、たずねてみたところ、そのうちこの日の『クローズアップ現代』をみていたのは男子学生ひとりだけ。この時間帯には彼ら彼女たちはまだ家に帰っていないか、帰っていても「好きだ、嫌いだ」などという恋愛・トレンディ番組をみているからである。それでも一○%前後の視聴率をとっているということは、この番組がニュース九時の直後で圧倒的に四○歳から六○歳ぐらいの、自分で社会を支えていると錯覚している「おじさん」が見ている。この世代の男性は日本の右肩上がりの高度経済成長の担い手として保守構造を支え、今、その仕事でのこれまでの献身にもかかわらず不況の波をかぶり、ときには窓際へ、そしてリストラで解雇へという不安に向き合わされている。その彼らが「軍事技術は金になる」ときけば、日本も「軍事予算に金をつぎ込めばふたたび好景気になる」のではないかという、強烈な情報をインプットされることになる。若者が投票棄権する時代にこれは自民党と財界にとっての「貴重な」世論形成効果をもっているわけである。
日本の社会環境のなかのテレビ番組
NHKがこうした世論操作を意図する番組をながす場合にはかならずそれが必要とされる政治的背景があるとみたほうがよい。案の定、四月末の各紙は軍事問題をこう報じた。たとえば朝日新聞。「周辺事態法案を閣議決定、米軍支援へ新役割、米に配慮、法整備急ぐ」(一九九八年四月二十八日夕刊、大阪本社第三版一トップ)。つづく同紙の左肩の順トップには「失業率、三・九パーセント、最悪更新 求人も七カ月連続減」とあり、これまでだましにだましてきた「日本経済の立ち直りのうそ」がもうどうしようもないことが明らかになってきた。だからこれ以上だませなくなると、今度は「軍事予算を拡大して・・・」という世論工作番組になると理解するとこの「軍事技術は金のなる木」の社会的脈絡が明らかになってくる。
こんなばかげた番組のキャスターに私は同情する。国谷キャスターについては英語ができるだけで「頭はカラッポ」といっては可哀想だし、彼女には罪はなかろう。こんな放送を起案し、制作させ続けるNHKの幹部に問題があるということだろう。だがこの番組がフジテレビ系列の竹村健一氏氏出演の『報道二○○一』などとはおなじ構図の偏向番組、かつてのNHKスペシャル『ムスタン王国』とは別種の、しかもより巧妙な「やらせ」番組だという事実だけはのこる。おまけに上記新聞記事が出た二日後の
『クローズアップ現代』(四月三十日)は「人気キャラクターで大人をつかめ、ヒット一発三○○○億円」であったから、NHKよ、もういい加減に馬(失業の恐怖にあえぐ視聴者)の目の前にニンジン(景気浮揚策)をぶらさげ、保守支持層のつなぎとめだけに奔走することなどやめにしてもらいたい。
この「軍事技術は金のなる木」ほどひどくはなくとも、NHK番組ではニュースやスペシャル番組、ドキュメンタリーで政治腐敗を扱っても、外国のことか、過去の検証ばかり。『視点・論点』などでもおかしなものがいっぱいある。たとえば4月にはいってからでも、南京大虐殺はなかったなどの論陣をはって失笑をかっている上智大学教授の渡部昇一氏をつかった「新・日本人とユダヤ人」を放送、戦争中の日本がユダヤ人に優しかったという例として「当時の外務省が在リトアニアの日本領事館に数千人のユダヤ人に日本通過ビザを発給させた」といった。事実は、現地に赴任していた外交官・杉原千畝領事(代理)が、ソ連当局からの立ち退き要求と日本国外務省からの拒否回答という困難にもかかわらず、1940年7月末から1カ月にわたって、独ソ不可侵条約の裏の「ポーランド分割秘密協定」の結果、ポーランドに侵入したドイツ軍の暴虐に追われ生命の危険にさらされた計6000人ものユダヤ人に人道的使命から助けざるを得なかったにもかかわらずにである(同氏夫人、杉原幸子氏の著書『六千人の命のビザ』朝日ソノラマ、1990年、参照)。こういういい加減な「学者」にいい加減なことをいわせた責任をNHKはどうとるのだろうか(この件では私はNHKに本年五月十六付文書で照会中で、返事があれば本欄で紹介する)。
さて現在進行中の日本の問題についてもNHK番組には特徴がある。たとえば、評判の中坊弁護士が頑張って住専関連の不正摘発、取り立てでも、同氏の行動の紹介が主で、住専問題を招いた政治と土建業界の本質的な癒着構造にまでは決して踏み込まない。これでは他の週刊誌などがおこなっている政治批判とおなじで、悪から悪へのバトンタッチの環境づくりをしている報道の仕方となんらかわるところがない。
たとえば『週刊ポスト』本年四月二十四日号のトップ記事は「無能宰相・橋龍の犯罪」として「山崎拓自民党政調会長の株価操作は証取法違反で逮捕せよ、三十兆円血税投入でもこの貸し渋り地獄、大蔵・郵政がヒタ隠すPKO含み損一兆円強、米エコノミスト嘲笑〈日本はアメリカの殖民地となったか〉」として「四つの大罪」をあげている。しかしこれらの記事の特徴は、(1)どのような社会をこの週刊誌は理想とするかの基本構想がない、(2)それだけでは橋本自民党にかわる政治と社会の構造改革の提示がない。(3)よってこの記事は投票の棄権者を増やす効果しかもたない。(4)その結果、『クローズアップ現代』で洗脳された「おじさん」たちの一票の重みが相対的に増大することになる、だけだから、日本と日本人の市民主権社会化は進行しようがない。
☆以上のことはドラマやバラエティなどにも通じるし、カルチュラル・スタディーズではそうした関心をもつが、そのことについてのべるのは別の機会にする。(止め)
1998年5月16日記