日本のこれまでの新聞学・メディア学・コミュニケーション研究といわれるものの主流はつぎの三つのものが色濃く反映している。
(1)欧米からの影響、とくに初期のドイツ、戦後のアメリカ・イギリスのそれに影響されている部分が多い
(2)最近の研究の多くが政府や業界(マスコミ産業、パソコンやソフトのメーカーなど)の援助を受けることが多く、そうしたものへの批判がしにくい
(3)最近の産学協同路線の復活に象徴的なように、経済的な利益にむすびつかないものは評価されない
私はこれまでの100カ国以上への訪問体験やアメリカやイギリスの研究機関・大学等での講演などの経験から、大学の学問、とりわけ人びとの社会観・世界観の形成に重要な役割の果たすメディアのあり方の研究は、個としての市民がまともな社会的判断をくだせるような情報を十分に提供されたうえで、メディア政策の形成に参画できるための道筋を提供すべきものだと考えている。
以下、私のメディア論をよりよくご理解いただくための基本的用語について説明しておきます。
☆なおくわしくは私の以下の本をお読みください。
- 『メディア・リテラシー、情報を正しく読み解くための知恵』ダイヤモンド社、1997年
- 『メディアの公正と社会的責任』同志社大学出版部、1997年
- 『メデイア・トリックの社会学』世界思想社、1995年
- 『テレビー「やらせ」と「情報操作」』三省堂、1995年
市民
<市民>とは、他を物理的・精神的に圧迫せず、同時に他からも圧迫されないで生きようと考え、自らの日常生活が国境を超えて地球大に拡がる関わりを持っているという認識のもとに、可能な範囲内でその考え方を実行しようと努力する生活者のことである。
<市民主権社会>とはそうした市民が自らデザインする社会システムのことであり、そうした市民を社会の基本単位と考える思想を〈市民主権主義〉という。またメディアがそうした市民主権主義の立場から、取材・調査・編集、そして情報の提供をおこなうやり方を〈積極的公正中立主義〉という。(渡辺武達の『市民主権パラダイム論』より)
メディア・リテラシー
今でこそ、レベルの差があまりなくなったとはいえ、戦後の日本のメディア研究のほとんどはアメリカにおけるコミュニケーション研究の流れをくんでいる。そのことは「メディア・リテラシー」(Media-Literacy)
論にもあてはまる。日本のメディアとメディア教育関係の解説書がたいてい、それを「メディアの情報を読み解く能力」と訳しているのもそうだ。
それに対し、私は従来から「メディアを使いこなし、その提供情報を読み解く能力」と訳すべきだとし、メディアを使いこなすことをその内包する大切な意味としなければいけないと主張している。
だいたいリテラシーを日本語で「識字率」(それ以前は逆の「文盲率」としていたからそれでも進歩?)としたことからその間違いは生じている。「識字」を文字どおり解釈すれば、「字を識別」するということになる。しかし、それとて「読める」だけではなく、書くこと、つまり字を使いこなすことを当然の前提としているだろう。同様に、リテラシーという英語も、本来的に、文字を読んで、書く、つまり文字を使いこなす能力をあらわしている。問題はどうして、政府(文部省など)による「官製」訳や新聞用語としての訳語がそうなってしまい、学者たちも追随しやすいかということである。
本家のアメリカでは、あらゆることが実際にかかわる人の自主性にまかせられるべきという意味での自由の原理が標榜される反面、その自由はアメリカ的デモクラシーの範囲内に限られ、現行の政治・経済システムへの疑問はゆるされない。だからホームレスが大量に出たとしても、それはボランティア精神で援助されるだけで、ホームレスそのものを大量生産する原因が社会システムにあると主張することは、すくなくともマスメディアにおいては、タブーである。
同じように、アメリカのメディア・リテラシー論でもメディアを使いこなすのは社会システムの維持者であるパワーエリートだけでよいとする隠然たる力学がはたらいており、メディア学としても情報を提供する側の責任を問うものは、もっとも影響力の強い「メディア」ー現在ならテレビや新聞ーのなかの議論では主流になれない。
だからアメリカではメディア・リテラシーに関する本はたくさんあっても、大メディア産業が発行するものは、せいぜいそれを「メディアのメッセージをクリティカルに読み解くカギ」とし、その内容を「広告・子ども番組・印刷メディア・放送・写真などのメッセージを分析する手段」とするだけである(Art
Silverblatt: Media Literacy; Praeger, 1995など)。またテレビのリテラシーーこれをテレリテラシーというーだけを論じた本(David
Bianculli: Teleliteracy; Simon & Schuster, 1994)などもある。が、これもまた、私たちがテレビを使いこなすことによってそれを高めていこうとするものではなく、テレビの影響とその社会的プラス価値が大きいから「テレビ番組」についてもっと知ろうといった提言にすぎない。
くりかえすようだが、大切なのはそういうことだけではない。現在のテレビがいかなる問題をもち、いかにしたら主権者である国民・市民のためのものとして機能しうるかということの解明とそこへいたる道筋をつけることである。
たとえば、日本のテレビ番組をいくら「クリティカルに鑑賞」しても、(1)テレビ(放送)の免許が電波法と放送法に規定されて、郵政大臣(実質は郵政省の放送行政局の官僚たち)の許可がなければ事業開始できないばかりか、開局後も五年に一度づつ免許の更新があること、(2)東京のキー局のすべてが全国紙と資本と人事の両面での関係をもっており、それは郵政省(政府)メディア支配がテレビを通じて新聞にもおよぶ構造につながっていること、(3)広告だけではなく、メディアのすべてが企業ロジックスに毒されてしまっていること(同志社大学『評論・社会科学』五四号の拙論「公共広告機構とメディアの企業ロジックス」参照)などはわからない。そしてそれらを知らなければ、メディアのメッセージなど読み解けるはずがない。
やらせ
「やらせ」ということばは比較的新しく,しかもあいまいな用語で,広辞苑でも第四版(一九九一年十一月刊)ではじめてこの語を採録した。「(遣らせ)事前に打ち合せて自然な振る舞いらしく行わせること。また,その行為」。日本民間放送連盟が一九九二年に「やらせ」防止のために発足させた放送番組調査会の定義には「事実の伝達が前提とされている番組の中で,人や物を使って虚偽の事実をつくりだすこと」とある。
しかし,現代のマスメディアが日々私たちに提供している(?)「やらせ」はそのような定義ではすでにおさまらないところまできている。それでは,大は湾岸戦争時のアメリカ・ブッシュ政権による壮大な「やらせ」報道(イラクのフセイ権の検閲,等も同種だがまだ小さい)の仕掛けや最近の,日本政府が広告費を支払いながら一般記事のかたちをとり,しかも提供者名(資源エネルギー庁)を隠してのプルトニウム利用促進をはかるための座談会掲載(読売,毎日,産経各紙,一九九三年三月)などから,小は「やらせ」ドキュメンタリーとして話題になったNHKスペシャルの「ムスタン王国」(一九九二年秋放映)までのすべてを含んだ,メディアの犯罪(=偽情報の送出,MediaHoax)としての「やらせ」の検討には不十分なのだ。
「やらせ」をマスメディアの場合にかぎって考えただけでも,それは原理的にも実際にもドキュメンタリーだけでなく,ニュースやワイドショーなどの情報番組や解説・評論,トークショー,はては「天気予報」やドラマを含め他のどの種の番組にも,またテレビだけではなく新聞や雑誌などの活字メディアなど,どのメディアにも――,地理的には「やらせ」はもちろん日本だけではなくアメリカにもイギリスにも,その他のどの国にも存在する。いま「天気予報」にもあると述べたが,たとえば地球温暖化の進行と炭酸ガスの関係を長期的に予想し強調すれば,それは炭酸ガスを出さない原子力発電所の設置推進の環境づくりに有利な世論形成となるし,現実にそう利用する社会的勢力もあるのだ。もちろんドラマでも全体として間違ったかたちでの世論形成の誘導が企図され制作されておればやはり「やらせ」として批判の対象になる。
「やらせ」の具体例は,(1)メディアの種類と,)(2)シチュエーションによってさまざまであるし,(3)その程度においても多くの次元がある。が,私は実際例の分析のうえに立って,つぎのように定義したい。
「やらせ=情報送出においてその主題の選択と全体の編集,およびそれに関連する具体的小項目について社会的・科学的真実と異なる形で意図的に番組制作したり,番組を脚色・演出,ないしはレポートする,あるいは番組内で出演者にそのように表現させること,もしくは局外者からそのような番組制作および情報送出をさせられること,の総称」
この定義をテレビ番組に即して述べれば, (1)世論を誤導(ミスリード)する意図をもった番組の制作と放映,(2)全編の偏向,(3)編集上における意図的な事実の削除,あるいは添加,(4)番組内の個別事項の間違いや虚偽,(5)番組内容の誇張表現,(6)ないことをつくりあげる捏造,(7)事実の脚色と歪曲,(8)事実や真実からの逸脱,(9)速報性と,映像だけが真実というテレビメディアの特性に起因するもの,などに分類できる。
そしてそれらが起きる原因としては,第一,送り手側の意図的なものと,第二,結果としてそうなるもの,とに分類して考える必要がある。前者には,第一,局外部からの影響あるいは工作,あるいは局またはディレクター個人の政策的なもの,第二,制作担当者(局管理者やディレクターなど)の政策・宣伝や個人的野心。後者の,意図的ではないが結果として「やらせ」になるものとしては,第三,関係者の無知または不注意で放映までにチェックできなかったもの,第四,ストーリーや断片的事実に対する解釈の逸脱,あるいは単純な間違い,第五,画面に現れるものだけが真実と受け取られやすいテレビの特性から必然化するもの,などといったものが考えられる。
「演劇化=ステージング」が発生しそれが「やらせ」として批判されるのは,「視聴者(受け手)が映像を含めその部分を真実であるととらえているのに『じつはそうではなかった』という送り手と受け手のコミュニケーションギャップがある限界を超え,その原因が送り手側にあるとき」である。
※なお「やらせ」については、拙著『テレビー「やらせ」と「情報操作」』三省堂選書、および『メデイア・トリックの社会学』世界思想社に詳述している。
メディアの積極的公正中立主義
メディアの公正
コミュニケーションする権利
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